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2006/03/28

日本が危ない:靖国神社問題の本質 1

靖国神社公式参拝。
小泉首相の繰り返しの参拝で注目を集めていますが、歴史的にも根が深く、国民の意見も様々な重要な課題です。
靖国神社とは何なのか。その問題の本質は、単にA級戦犯が合祀されているかどうかに留まらないものです。
マスコミを含む多くの日本人が忘れてしまった靖国神社と国家神道を論じてみました。


靖国神社問題が危ない

小泉首相が参拝する毎にマスコミで報道される靖国問題。
その議論は一向に深まることなく、参拝がどのような日に行われたか、公式参拝か否か、中国等からの批判があったことへの対応などに終始している。
特に最近では戦死者への慰霊への批判と論点がすり替えられ単純化されたことで、その意味するところが正しく理解されないことさえ危惧される。
靖国神社参拝は、思想、信教、宗教の自由に関する問題であり、関連する訴訟事件や判決も多い重要な問題である。
中国の靖国神社参拝への批判を誤って理解し、公式参拝を感情で支持することは、根源的に保障されている国民の権利を自ら放棄することにすらなりかねない。
国神社問題を通じて、戦後日本が守り育んできた思想信条の自由の問題を考えてみたい。

首相の靖国神社参拝が意味すること

小泉首相が就任にあたって公約していたのが、終戦記念日の靖国神社公式参拝である。中曽根首相を最後に長く行われていなかった公式参拝を公約した真の理由は必ずしも明らかではない。
その後、中国からの批判に応えるかたちで明らかになった理由は、純粋に戦死者への慰霊からとのことである。その慰霊の方法が、なぜ靖国神社への参拝なのか。その理由を首相は語らない。

確かに国の代表者が、過去に国のために殉死した国民を慰霊することは、決して特殊なことではない。日本と同様に信教の自由を認めている欧米各国において、国立の慰霊施設があることは、むしろ一般的である。
日本には国立の慰霊施設が未だない。厳密に言えば靖国神社にほど近い千鳥が淵に、そのために造られた施設が今もある。しかし、正式に国立慰霊施設として位置づけられたことも、首相以下の閣僚が公式に慰霊の為に訪れることもない。
今回の問題にあたって設置が議論されている新たな国立慰霊施設についても、厳然とした根強い反対により調査費の計上さえ行えない状況にある。

戦前の国家神道体制と靖国神社の特殊な位置付けがその理由である。
少なくとも靖国神社に象徴される国家神道体制の中に生まれ育ち死んでいった多くの国民にとって、靖国神社以外での慰霊は意味がないのである。
小泉首相が事実を知っているかどうかは知るべくもないが、靖国神社を参拝することによる戦死者の慰霊は、少なくとも戦前においては、日本古来の宗教観に基づく死者に対する慰霊の祭祀とは全く異なる意味を持っていた。
戦前の国家神道体制において、靖国神社への参拝は、天皇以下国の指導者達の極めて重要な国家祭祀にほかならなかった。
国の為に国民に死を求め、外国への武力進出を肯定した国家神道体制。その復活と回帰への危惧が内外に強く、首相に公式参拝を躊躇わせてきたのである。

戦後60年が過ぎ、戦死者を身内に持つ国民が少なくなり、多くの国民にとって単なる歴史上の出来事に過ぎなくなった今、首相の参拝に対する国内の批判は弱い。
多くの国民は、その意味するところを十分に理解できていないに違いない。
そして、すでに戦後生まれが実質的なトップとなっているマスコミにおいても、問題の背景や本質を理解できる記者はいないようである。中国に批判されていることや、A級戦犯が合祀されているかどうかが、最大且つ唯一の問題ではないことを理解することがぜひ必要である。

中国等からの批判

首相の公式参拝がある度に、中国政府が厳重な抗議をしていることは承知のとおりである。
その内容は中国大使館ホームページにおいても公表されているので、ぜひ一度ご確認いただきたいが、マスコミによる報道はその趣旨を見誤っているように思われる。
確かに靖国神社にA級戦犯が合祀されていることは重要なポイントであるし、軍国主義の復活への懸念も重要であるが、中国政府の抗議の背景にある危惧は、もっと深いところにあることは明らかである。

一種の祭政一致国家であった戦前の日本において、天皇は神であり、神社は国家の統治機構の一部であった。国内はもとより、植民地や占領地においても神社が創建され住民に信仰が強制された事実がある。国家神道体制において神社信仰は天皇崇拝と不可分であり、地域に定着していた他の宗教との併存は、その原理から言っても不可能である。

第2次世界大戦の期間を通じて、長短に差はあるが、一人ひとりの信仰や内心の自由にまで立ち入って、不本意で理不尽な行為を強制したのが、日本の侵略と支配にほかならない。
その記憶を明確に保存し継承してきたのが、被占領地であった中国であり朝鮮の人々なのである。
自らの体験に照らし合わせて、または伝承されている記憶に照らして、特に軍が管理してきた靖国神社を礼拝する意味を理解するとき、首相の公式参拝に危険なものを感じるのは、しごく当然なことに思われる。

宗教の自由そして思想信条の自由

「靖国神社への参拝は戦死者への慰霊である。」との小泉首相一流の単純化は、一見すると解りやすい。しかし、首相の公式参拝を認めたときの国民への影響は、想定以上に大きなものとなる可能性が高い。

最も影響が大きく且つ深刻だと思われるのは、靖国神社参拝が宗教的行為ではないとされることで生じる、信教の自由への深刻な影響である。
宗教(信仰)の自由は内心の自由に留まらないのは定説である。靖国神社を定まった形式で参拝することは、理由の如何を問わず宗教行為以外の何ものでもない。それを宗教行為ではないとする論理構成を認めることは、信仰の自由を一気に形骸化してしまうだろう。

国旗国歌への敬意の示し方を巡り、公立学校の教員が処分される事件が起きていることは周知のとおりである。国旗国歌が法制化された際、それが強制されることはないと説明されたことは記憶に新しい。しかし、現実には事実上の強制が進行しつつあることは重要である。
同様に靖国神社での「慰霊」に関して、教員ばかりか児童・生徒に対して処分を伴う何らかの行為の強制が行われることは、杞憂に過ぎないと断言することはできない。

政教分離を定める憲法の下で、学校で宗教行事を行うことは明確に違法である。しかし、宗教行事ではない慰霊行為が認められるなら、学校行事として慰霊行為が行われる可能性は極めて高い。
愛国心教育に熱心な自民党政権においては、その可能性は現実のものである。
学校行事の形をとって、国民の思想や信条の自由が制約される恐れがあることは、もっと認識されなければならない重要な課題である。

この危惧は仮定の話ではない。旧憲法下においても信教の自由は認められていたが、その国家神道的行事を「宗教行事ではない」と強弁することで、キリスト教系や仏教系の各学校までに、その実施が強制されたのは厳然たる歴史的事実なのである。

公式参拝の制度化が、どのような形で我々の生活に影響する可能性があるかを、見極める幅広い視点こそが重要なのである。

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