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2006/07/07

日本が危ない:共謀罪は絶対に危ない2

共謀罪のある社会。こんな社会は絶対にいやなのです。
「105円の本達」でご紹介した林望「ホルムヘッドの謎」に、旧ソ連の秘密警察の体験が著述されている。
 秘密警察とは、思想を取り締まることを目的にした警察であり、思想警察とも呼ばれる。秘密警察は、内偵と囮捜査そして潜入捜査などによる秘密裏の情報収集を主な捜査方法とする。思想することが犯罪となる「共謀罪」があってこそ必要とされ、効率的に活動できる特殊な警察である。
 秘密警察が活動する社会は、市民に相互不信を生む陰鬱な社会なのである。
以下、その一部を引用してみたい。

1992年文藝春秋刊  林望著「ホルムヘッドの謎」から

例によって外国人用の古典的ホテルでの昼食を済ませて、私たちはそのラウンジで、お茶を飲みながら食後の雑談を楽しんでいた。その日の午後は、向こうの都合で仕事はなしという予定だったので、私たちはいつもよりゆっくりと昼下がりのひと時を過ごしていたのである。
 すると、そこににこやかな二人の青年がやってきて、一緒にお茶を飲んでよいか、と英語で尋ねた。二人ともロシア人で、一人は技師、もう一人は工学部の学生だと自己紹介をした。英語を勉強したいので、しばらく話し相手になって欲しい、とも言った。技師の方は三十歳位かもう少し若い、一方の学生の方は二十二三位の、ふたりとも確かにインテリらしい顔つきをした好青年に見えた。彼らは、主にソビエトの市民生活に関する私たちの様々な質問に丁寧に答え、その都度、この社会主義という名前の官僚支配体制にほとほとうんざりしているらしいことを、口々に言い立てるのだった。私たちにしてみれば、こんな外人用ホテルの中ばかり見ても面白くもないし、是非にも一度彼らの普通の市民生活をかいま見てみたいものだと思っていたので、いつのまにかそういう話題になった。「差し支えなければ、一度君たちの家をみせていれないか」と、軽い気持ちでそう尋ねてみると、二人は一瞬目を見合わせ、ロシア語で何事ごとかヒソヒソと相談をした。それから、すこし慎重な表情になって答えた。
「結構です。しかし、今すぐというわけにはいかないので、三時間ほど待ってください。友達に連絡して準備をしますから。よかったら、僕らのたまり場になっているバーのようなところへもご案内しましょう....、仲間にも紹介したいし.....そうですねぇ、四時、午後四時にもう一度ここへ来てくれますか」

 そのホテルを出たところで、K君が言った。
「いまの二人、怪しいんじゃないか....」
 そう言われてみると、あのホテルは外国人専用でソ連人は立ち入ることが出来ない筈だ。だのに何故、かれらはこの平日の白昼堂々とあそこにいたのだ。私たちを狙っていたように近づいて来たような気もするし、話が少しうまく出来すぎていやしないか。彼らは一見にこやかな良い人に見えたけれど、よく思い出すといつも目だけは鋭かったような....。だいいち、家を見せるくらいの事になぜ三時間も準備が必要なのだ。仲間に紹介するという、その仲間とはいったい何ものなのだ。何か変だぞ....、どこといってこれという根拠があるわけでもないのだが、心のどこかに「この話は危ない!」とささやく声が聞こえた。

(中略)

 可能性は四つあった。
 まず第一は、男たちがKGBか秘密警察の手先である場合。なぜ、私たちのように何の政治性も持たない人間がそんな険呑な連中に目を付けられるのだ、などということは、この際到底説明のつく問題ではなかったが、しかしわれわれの経験と知識は教えている。とかくスパイ事件とか謀略犯罪とかいうようなものは、無知で善意の市民がその無知にして善意である故に利用され、巻き込まれることが多いのではなかったか。ありもしないスパイ事実をでっちあげて、逮捕し、死刑などをちらつかせて反対にロシア側のスパイに仕立てる、なんてことは謀略機関の人間にとっては朝飯前のことに違いない。現に、われわれが許可もなくロシアの市民の家に立ち入って誰かと会っていた、というそのことだけだって充分にスパイ容疑を形成するように思われる。かくて、私たちの脳裏に浮かんだ最悪のシナリオは、こうであった。
 私たちが男たちに案内されて、彼らの家かまたは溜り場のような所にいると、そこへ秘密警察の捜査官が踏み込んでくる。「君たちはここでいったい何をしているか?」そう聞かれたら、「ただ家を見せて貰っていました」という答えしか出来はしないだろう。そのとき、その答えが彼らを満足させるはずがない。そのまま秘密警察に連行されたあと、私たちはこう告げられるのだ。
「君たちが、あそこで反政府スパイ組織と会合していたことは、すでに明らかになっている。彼らはすべて自白したぞ!さっき押収した君らの荷物の中から、機密情報を撮影したマイクロフィルムも発見されている。君たちがイギリスのスパイであることは、これで明らかであるから、これからゆっくりと取り調べる。まぁ、気の毒ながらイギリスへは永久にかいれない」
 こうして、拷問、自白、裁判、処刑、逆スパイ....と、想像は果てしなく悪い方向に進んで行くのであった。いま、これを読むと、それはスパイ映画の見すぎだろうと滑稽に思う人が多いかもしれない。しかし、そのときその状況の中での私たちの考えとしては、それは決して考えすぎとばかりは言えないように思われた。なにしろ、あの空港での君の悪いマークのされかたからしても、私たちが何らかの監視下に置かれているかも知れないことは、あながち荒唐無稽なこととも言い切れなかったからである。
 第二の可能性は、男たちが反政府民主化運動の非合法活動家である場合である。なんといっても、彼らは「仲間に連絡しますから」と言って、三時間の猶予を要求したのだ。それが、反政府活動の仲間でないとは誰が断言できようか。怪しいといえば、これこそ限りなく怪しかろう。

(後略)

 著者は、このあとも考えられる可能性を検討し、結局は待ち合わせの約束を反古にする。ところが、その夕方、別のホテルで再び二人に「発見」されてしまうのである。

1992年文藝春秋刊  林望著「ホルムヘッドの謎」から

 いい加減歩き疲れたころ、私たちはいつのまにか、アストリアというこれもまた古風な別の外人用ホテルの前に来ていた。約束の四時は、とっくに過ぎている。
 すこし安心したのと、疲れたのとで、私たちはこのホテルでお茶を飲んで休むことにした。十八世紀風の重厚な石造りのラウンジには、ロココ風の安楽なソファが配置され、静かな夕方の光の中で、熱いロシアティを飲んで、ほっと安堵のため息をついた。
 その時だった。
 私たちの背後に、いつのまにか誰かが立っていた。そうして、私たちの肩にそっと手を置くと、背後から声をかけた。
「約束は、どうした?」
 ぎょっとして、振り向くと、そこにはあの約束した二人のロシア人青年が立っていた。顔色がサァッと変わってゆくのが自分でも分った。見ると、K君の顔面も蒼白になっている。周章狼狽して、私たちはしどろもどろになりながら、それでも必死に言い訳を試みた。
「いや、それが、あれから僕の腰の具合が悪くなってね、約束の時間にいけなかった.....、そのォ、すまない....」
 これは、我ながらまずい言い訳だと自分で自分に呆れ返ったが、ほかに良い知恵も浮かばなかった。
「それにしちゃぁ、こんな所で元気にお茶なんか飲んでるじゃないか」
 年長の方が、怒りを押し殺すように暗い声で言い返した。それは、至極あたりまえな反論だったろう。
「いや、少し休んだらいくらか良くなったので、ここまで来てみたんだ。ホントだ」
 と、こんどはK君が口裏を合わせにかかったが、それはどうひいき目にみても説得力のない言い草だった。
「ふざけるな!俺たちはずっと待ってたんだぞ。約束はどうした、エ?』
 若い方が、怒気を露わにして、詰めよってきたので、私たちはこのぶざまな言い訳を諦めることにした。そうして、かくなる上は正直に理解を求めるに限ると決心して、いっそさっぱりと謝ることにしたのだった。
「すみませんでした。あれからいろいろ考えたのですが、ご承知のとおり、この国はわれわれ外国人にとっては、政治的にとかく難しい国です。だから、私たちは危険を冒すのをやめることにしたのです。私たちには果たさなければならない学術上の任務があります。だから、私たちの苦しい選択を、どうか理解して下さい。約束をすっぽかしたのは、たしかに申し訳なかったけれど...」
 そこまで言うと、私たちの言葉を遮るように年長の方が「わかった。残念ですが」と短く答え、くるりと踵をかえしてホテルの奥の方へ(原著は傍点)行ってしまった。
 私たちは砂を噛むような思いで、アストリア・ホテルを出た。結局、私たちの選択は正しかったのか、それとも誤っていたのか、ますます分らなくなった。

1992年文藝春秋刊  林望著「ホルムヘッドの謎」から

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