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2006/10/25

日本が危ない:献策十講「文化・学術振興」

政治とは無縁と思われがちな文化・学術・科学技術などの分野であるが、20世紀型福祉国家にとって、あらゆる事柄は政治の対象にほかならない。
西欧国家に特徴的だが、19世紀から20世紀になって文化学術分野は宗教・教会の問題から政治の問題になった。中世から近代まで異端審問などに代表されるように文化・芸術・科学・思想は宗教上の問題であった。科学的学説である地動説や進化論が宗教的規範と機構のなかで弾圧されたことなどが代表である。
社会学や政治学が生み出した理論は、時に政治的変動の原因となり、それ故に国家は特定の学問を公認・振興し、一方で抑圧・弾圧した。
この分野に比較的寛容、いやむしろ無関心であった徳川時代が終わり、明治維新を迎えると、日本の政治においても、文化学術は政治の重要な一分野になった。
天皇制国家主義と称される明治国家にとって、その政治体制の根幹は科学的事実ではなく、一連の哲学大系であったからである。日本国土がどのように造られたかからはじまり、明治維新以後の政治体制(当時の用語で言う「国体」)の正当性までが、その哲学大系によって説明された。国家神道とも呼ばれる思想体系である。
結果として、科学的社会主義や共産主義の基礎となる政治理論はもちろん、キリスト教などの宗教、歴史学、社会学などあらゆる文化学術活動、教育活動が、政府により強制力を持って統制されていたのが、戦前の日本なのである。

戦後の文化学術政策の特徴
その否定を持って誕生した戦後日本にとって、文化・学術は政治と無縁であることが前提であった。学問の自由は戦後日本の大前提である。にも関わらず現実の政治・行政において、常に政治的干渉を受けて続けてきたのが、学校教育に代表される文化・学術活動に他ならない。
現代日本において、表面的に学術研究活動にタブーは無い。天皇制の研究も宗教上の活動も基本的には自由である。しかし、現実には未だ多くのタブーは存在する。戦前に指定された天皇陵の発掘調査は決して許可されることはない。天皇制廃止を前提とした政治体制論議などマスコミで決して取り上げられることもない。などはその一例である。右翼団体などの有形の圧力を利用しながら、国民がタブーを犯すことがないよう誘導しているのが日本の現状なのである。
法令等による露骨な規制を避けながら、国庫補助金や助成金などを利用して好ましい学問や学術研究を振興してきたのが、日本の文化学術政策の本質である。
現在は文部科学省が一元的に掌握することとなった文化振興・学術研究は、国家官僚群が望ましいと思う国民の知識や常識を巧みに誘導し統制しているのである。
結果として、文部官僚と学界の権威は相互に依存しつつ独占的権威を構築した。
いかなる学術的研究も、権威の認める範囲でしか、資金や地位を得られない。異端は、法令ではなく経済的基盤によって「迫害」されているのである。日本には、その意味で学問の自由はないのである。

文化学術振興の国へ
時の政治権力にとって、望ましい学問と望ましくない学問があるのは古今東西を問わない事実である。政治権力の危機は、望ましくない学問によって深く静かに民衆の間に育まれるからである。突き詰められた学問的成果が、現実の矛盾をあばき、時の政治権力を打倒し、次の政治権力の思想的基盤になるからである。
科学は発展するものである。そして、20世紀は間違いなく科学の時代であった。それまで圧倒的影響力を有した宗教権威が、非科学的であるとされ決定的に影響力を失った時代である。文化学術が宗教から解放された時代である。
21世紀も科学の時代であってほしい。根拠のない権威が否定され、常に真実の探求が尊重される時代であってほしい。
そのためには、文化学術は国家によって保護され、促進されなければならない。決して文化学術が政治により圧迫されるべきではない。
国家が保護することと、文化学術の独立性と自由を保障することは、実は両立させることが難しい。保護のための枠組みは、一面で自由を狭めてしまうからである。
その両立には、従って巧みな仕組みが必要なのである。
まずは、文化学術活動の全面的究極的な自由を保障する基本法の制定が必要である。何人も文化学術活動並びにその成果によって経済的政治的圧迫を受けることがなく、国家により保護され救済される権利を明確にすることである。
同時に文化学術活動への経済的援助が、国家機関から独立してなされる枠組みを構築する必要がある。いかに立派な原則であっても、それが文部科学省の担当部局が交付する助成金や補助金によって振興されるとき、行政庁や特定の政治力の介在を完全に防止することはできないからである。
現在も文化学術振興のためには、多額の税金が投入されている。原子力利用・宇宙開発・海洋資源開発など実用的なものから、考古学発掘や地理調査など基礎的なものまでが、国の補助金や助成金により研究されている。
それらの資金を一括し、新たに財団を設立して一元的に運用する制度が望ましい。どの研究に助成するかは、国家官僚ではなく各学術団体が互選により選出する委員会で選定すれば良い。多くの研究者が合議によって資金を配分するならば、少なくても現在よりは政治的意図の影響は軽減されるはずだからである。
もともとは互選により選出されてきた日本学術会議のメンバーが国の任命制になった久しい。その政治的意図はともかく、それによって日本学術会議がより良くなって、文化学術の振興に役立ったとはとうてい思われない。
究極的には、文化学術振興が国家によってではなく、有意の国民の自由な意志によって支えられるのが望ましいのは言うまでもない。経済的に成功した者が、その富を社会に還元するために、財団を設立したり教育機関を設立したりすることは、西欧では当然に行われている。権力者や経済的成功者は自らの名を冠した公共施設を寄附するのは、ローマ時代以来の伝統である。かの有名なノーベル財団がそうであり、最近ではマイクロソフトの創業者であるビルゲイツ氏がその意向を明らかにした。
キリスト教的博愛主義や道徳観が背景にあって、それを裏付ける税制制度などが、西欧での公共施設の寄附や財団設立を支えているのである。
日本には、残念ながらその基盤がない。正確に言うなら失ってしまったと言って良い。東大には安田講堂がある。戦後解体された安田財閥が寄附した講堂である。図書館・病院・公会堂・公園など、実に多くの公共施設が財閥や政治家や文化人などの寄附により建設されてきた。戦前の一時期まで、西欧に倣った寄附は一般的だったのである。ある研究によれば、戦前の福祉施策の経費の3割以上が財閥などの寄附によって賄われていたという。
日本において、そのような個人や企業の「慈善活動」が衰退したのは、偶然ではない。戦後の福祉国家化による公共政策領域の拡大が、福祉や教育の国地方の独占を生み出したのである。特に、公立学校などに講堂や校舎を寄附することは、法律により禁止された。多くは論じられていないが、その背景には学校や福祉施設が自由に寄附を受けるならば運営資金に余裕が生まれ、担当官庁の影響力が結果として低下することを防ぐ意図があったことは充分想像できる。

逆に考えれば、国立大学が独立行政法人化された今日、個人や企業からの有意の寄附を自由に集めることで、政治的に中立的な学問環境が生まれるのかもしれない。
ようやく本論の結論である。
当面は、文化学術振興の役割を国・地方の官僚組織の手から解放し、公権力から独立した強大な振興財団の手に一元化するべきである。その財団の資金は国と地方が無条件で一括で交付するべきである。特別法によって、事業内容への公的関与を禁止する一方で、役員の公選など民主的運営を確実に担保するべきである。
並行して、国民が自らの意志によって、文化学術の保護者になりうる法的枠組みを構築するべきである。極めて限定的にしか認められない税法上の寄附控除を拡大し、国を経由せずに文化学術振興に自らの意志を基に直接援助を与えられるようにするべきである。一方で受け入れ側の学校や文化団体、文化人、科学者などに対しての税制上の優遇措置を充実させるべきである。特に公務員や公的施設などの法的制約を縮小して、自由で自主的な文化学術活動を保障するべきである。
文化学術の自由が最大限に保障されるとき、日本は「美しい国」に一歩近づけるに違いない。

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