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2006/10/28

日本が危ない:献策十講「自由・権利そして民主主義」

戦前日本は名実ともに治安国家であった。主権は天皇にあり、国民は臣民であった。日本帝国が主体であり、国民はその構成要素の一つに過ぎなかった。
臣民としての国民は、国家に忠実であることが求められ、国家が求めるなら死をも厭わないことが当然とされた。日本民族は他民族に優越した歴史的伝統を持ち、その政体は広く普遍性を持つと教育された。そして、国家の安寧秩序が第一であり、治安を害する思想や人物は容赦なく弾圧された。
以上は非常に荒っぽい明治維新が建設した国家についての概略である。その文脈で考えるとき、靖国神社や国家神道の本質が理解できるし、東南アジア各国の反発の背景を理解することができる。

戦後日本は、その全面的な否定により誕生した。その経緯は、自発的なものであったか押し付けであったかはともかくとして、事実として帝国憲法は合法的に改正され、日本国憲法は制定された。天皇は象徴となり、国民主権の民主国家の枠組みが憲法で保障された。軍備は放棄され、国民の権利と自由は20世紀の西欧国家の水準で保障された。戦前日本の国民生活を覆い尽くしていた治安放棄は一斉に廃止され、国民は占領下の特殊な状況下で、突然に無限の自由を手に入れたのである。

戦後日本の歩みは反動か
最近とみに研究が進みつつある戦後政治史だが、その歩みは予想外に複雑である。
戦前日本の解体と民主主義の定着に熱心だったとされる、アメリカ軍を中心とする占領軍の「軍政」についての再評価も進みつつある。55年体制確立後の革新勢力側が言う「保守反動政策」も、政治主導で一方方向に進展したものでないことも、明らかになりつつある。
しかし、国民の自由と権利そして民主主義の観点から考えるとき、その歩みは「戦前回帰」すなわち「行き過ぎた自由化への反動」であると総括するのが適当であろう。

戦後改革の重点の一つは教育改革であった。戦前日本の思想を実際的に国民に普及定着させたのは義務教育と社会教育を中心とした教育システムである。教育は国家から地方自治体である市町村に主体が変更され、政治的に中立な公選制教育委員会の責任により運営されることとされた。否、正確に言うなら運営されるはずだった。実は教育委員会委員の選挙は実質的には一回しか行われることがなかった。法律改正により委員は首長の任命制となり、教科書検定の導入や広域採択制の採用などを通じて、実質的に国が全面的に統制する体制に早々と「復帰」してしまったからである。
同様に、戦前の国家警察を解体し、自治体警察を創設し公安委員会の管理下に置く警察機構改革も頓挫している。上級警察官を国家公務員とする警察法改正により、都道府県警察の名の下に実質的に国家警察が復活し、公安警察も再生している。
政治的中立を確保するために、広範に導入された米英法的な行政委員会制度も年を追って廃止され、現在では本来の形で存続機能しているものは皆無と言える状況である。
国民の自由と権利を保障した憲法だが、その具体化のための立法もほとんど行われることはなかった。憲法の保障する権利と現状との乖離は、当初から憲法学上も問題であって、プログラム規定説など不可思議な後付けの理屈が必要とされる状況が放置されつづけた。
55年の保守合同の当初から、現行憲法は廃棄され自主憲法の制定が党公約であった自由民主党にとって、現行憲法の規程を積極的に現実化することはあり得ない選択だったのである。
一方で、治安立法の復活は着実に進行した。戦後民主主義の象徴とも言うべきデモを規制する「公安条例」(法律でなく条例によったのは当時の政治情勢の結果である。)の制定を皮切りに、道路交通法の運用強化などにより、国民の権利は急速に法律により狭められていった。破壊活動防止法・屋外広告規制法・暴対法など、憲法上認められた言論・表現・行動の自由などが実質的に制限されてきた。ほとんど議論らしい議論もないまま、国民保護法を含む戦時規制法が制定されたのは、ごく最近であるが、戦争状態にあたって憲法上の権利を停止する効力のある法律の制定が、違憲立法の可能性が高いことすら話題にならない寒い状況である。ましてや、共謀罪の新設にいたっては、戦前の悪法である治安維持法以上に、国民の思想信条の自由を決定的に抑圧することは疑いない。

自由と権利そして民主主義が守られる国へ
「自由と権利は獲得し、自ら守るものである。」暴君との戦いを通じて、自らの自由と権利を獲得した歴史のある欧米各国では常識である。自由も権利も、ただ恩恵的に与えられるものではなく、黙っていても保障されるものではないのである。
権力とは我侭なものであり、一たび権力を握った者は、その権力を託した人々のためではなく、自らの権力を維持するため、人々の自由と権利を奪おうとするものなのである。
権力の本質を明確に認識していた18世紀以降の政治学者が、その権力をいかに人々民主的統制に従わせるかを熟考した結果が、三権分立であり憲法制定である。
最近の政治情勢を見るとき、権力にある人々の自制が失われているように思われる。政治家の言動、次々と治安立法案の実現を画策する法務官僚、その目的とするところは、国民の自由と権利を抑制し、政治権力の恒久的安定にあるように思われてしょうがない。
権力が、国民を信頼しその幸福を最大化するために努力するより、自らの保身と権力の維持拡大のみに熱心であるように思われるのである。それが誤解であることを、心から願わざるを得ない。
権力が、主権者である国民を統制しようと考えることは、日本にとって究極の不幸に他ならない。国民が政治的に無関心であることを、政治は非難すべきではない。無関心を生んだ自らの不徳を反省すべきなのである。官僚は自らの政策が世論の反発を受けることを敵視するべきではない。民意に沿う政策を立案する努力が不足していることを謙虚に反省するべきなのである。

「マグナカルタ(大憲章)」を
政治不信・官僚不信は、戦後60年の行為の結果である。権力は、今こそ戦後日本が再出発した原点に復帰することを明確に国民に宣言しなければならないと考える。
憲法が保障した国民の自由と権利、判例に積み重ねにより新たに認められた権利を具体的且つ総合的に保障する実定法を制定するべきである。法形式としては、それらの自由と権利を侵害する立法を含む行為を禁止する形となるだろう。すなわち、基本法ではなく規制法が望ましい。国会・地方議会の権利侵害立法を規制し、官庁の行為を制限する、準憲法的法律が必要である。
現行憲法の規程のみを根拠に、個々の国民が強大な国家権力の確信犯的権利侵害に対抗することは、あまりに困難である。しかも、現行法において違憲判決の効力は違憲立法を無効にすることすらない。議会も行政も、そのような司法の逃げ腰に安住して、憲法の骨抜きに営々と勤しんできたのである。実際はそうではないにしろ、国民にそう思われていることが問題なのである。
国民の自由が最大限に保障され、国家との関係において国民の権利が充分に認められてこそ、国民は主権者であることが実感できる。民主国家において、国民は主人であり、国家は下僕(しもべ)である。
絶対王政でもない、独裁国家でもない、ましてや天皇制国家への回帰を目的としているのでもない。
日本が目指すのは、国民一人ひとりが尊重され豊かに幸福に暮らせる国家であるはずである。
政治不信を払拭し、国民が国家と精神的に一体化し、国を愛せるようになるためには「国民の自由と権利の保障、並びに民主主義の保障に関する法律」すなわち「21世紀のマグナカルタ(大憲章)」を制定するべきである。権力者がまず自らの首に鈴を付け、手足に鎖を付けて、その鍵を国民に預けなければならないのである。

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