日本が危ない:献策十講「国民が誇りに思う素晴らしき国へ」
政治は夢である。
政治とは「夢」である。そして、政治家とは「夢の伝道師」であるべきである。
日本人が政治を語る時、「政治」と「行政」が混同されているように思う。政治家自身が、「政治」を「行政」と誤解しているようでもある。
国民そして国家自身の課題や問題を着実に解消していくのは「行政」である。行政の役割は、科学的合理性に基づいて最も良い政策を立案し実行することにある。
もちろん、英米に代表されるように政治がそれを行う国もある。政治家や政党のスタッフが政策立案の実務を担い、行政官は政治が決定した政策の実行のみに責任を負う国である。そのような国では、政治は全ての政策に直接の責任を負う。国民は、選挙による政党の選択を通じて、政策を選択する。
日本は事情が違う。日本の政治家の最大の役割は「夢」語ることにあった。具体的な政策は優秀な官僚群に「丸投げ」してしまい、大きな夢を語ることこそが大物政治家の条件であった。
もちろん、官僚から転身した政治家も多い。具体的政策にも精通ている彼らも、選挙においては「政策」ではなく「夢」を語ってきた。
古代中国の英雄豪傑の政治的伝統を隠然と引き継ぐ日本。大物政治家の条件は、政治を「夢としての政(まつりごと)」として語り、民衆に夢を見させることにあった。
最近になって政策を論じる若手政治家も増えてきた。それに影響されたのか、あるいはアメリカの大統領選の公開討論に影響されたのか。日本の総理総裁となる人物のテレビ討論は「政策」を論じるのみであった。それも必要ではある。しかし、現代国家にとって「政策」は、あらゆる領域を網羅する複雑なシステムそのものである。税制一つを独立して論じることは表面的には可能だが、その政策変更の影響は実に広範である。その全体を理解することなく、それを安易に論じることは無謀なことであり、結果的に極めて無責任なことなのである。そのことは、行政が造る総合計画を見れば良くわかる。あらゆることが相互に関連する結果、行政の計画は常に総花的であり総論的であり留保事項に覆われている。
そのごく一部を抽出して、政治的課題として論じることには、実はほとんど意味はない。
報道するマスコミの論調はともかく、自民党総裁選や党首討論の論議に国民が無関心である本当の理由はそこにある。
古き時代を知る世代はもちろん、若い世代もまた、夢を語る政治家を待ち望んでいるのである。
若さの特権の一つは「夢」を見ることが出来ることにある。ケネディやブレアなど、新しい世代の若いリーダーが誕生したとき、国民はその「夢」に共鳴し共感したのである。夢見る若き指導者と現実に精通した老練な支持者が、新しい時代を拓くのである。そのどちらが欠けてもいけない。両方が必要なのである。民主党の前原前党首の誕生、そして今回の安倍総理の誕生にも、国民の熱狂がないのが気にかかる。若きリーダーに国民が期待するものが決定的に欠けているからである。
現代日本の政治を見る時、悲しいことに「夢」を語るリーダーの不在は厳然たる事実なのである。
夢の本質
安倍総理の「美しき国」は夢ではないのか。残念ながら、それは夢ではない。小泉内閣の「構造改革」や「骨太の方針」と同様に、単なる国家の基本政策体系に過ぎない。言い換えれば、行政システムとしての日本国がここ暫くこんな方針で政策を実施していきますと言っているだけである。国民が望むものを具体化したものでさえなく、既存の国家システムが許容できる範囲での「想定の範囲内の」政策オプションが総花的に記述されたものである。
夢とは何か。それが重要である。
夢とは「絵に描いた餅」のことではない。もちろん、荒唐無稽な戯言でもない。政治における夢とは、国民が顕在的・潜在的に欲している状況を具体化したビジョンである。
様々な制約のなかで現実と妥協をしてしまえば「夢」ではなく、具体性に欠けたり実現性が低ければやはり「夢」ではない。広く国民が望む夢を「夢」として示すことは、凡人には難しい、やはり優れた資質にめぐまれた一部の者にしか出来えないことなのである。
明治の夢、それは「殖産興業」「富国強兵」「不平等条約の解消」「欧米列強と並ぶ近代国家化」「脱亜入欧」など多様であって一貫性が感じられる。政治的スローガンや標語でもあるため、特定の一政治家の夢とは言い難いところはあるが、誰か一人が描いた夢が共有されたものに違いない。幕末の混乱と危機を実感した国民が、徳川300年の遅れを一気に取り戻そうとした気概を今も感じることができる。
昭和の夢「亜細亜の盟主」「世界の一等国」「大東亜共栄圏」。
歴史的評価はともかくとして、当時の国民の感情はそれを支持した。あまりに悲惨な太平洋戦争の敗北を知っている現代人にとって、尊大で侵略的で無謀な構想であり夢である。しかし、日清・日露両戦争に勝利し、経済的にも軍事的にも西欧並みに発展した昭和初期。日本人は政治的混乱の極地にあった中国に代わって、アジアのリーダーでなった日本を誇りに思っていた。政治はそれを具体化し、軍もまたその期待に支えられていたと言ってよい。その意味で、太平洋戦争が国民の意志を無視した一部軍部の独断独走であったとの評価は誤りである。
そして戦後。「所得倍増計画」「アジア初の東京オリンピック」「アジア初の大阪万博」「全国総合開発計画」「国土改造計画」。戦災から逞しく復興した日本を誇りに思う国民が、その事実を具体的に確認できるイベントが政治の描いた「夢」にほかならなかった。
日本において政治が夢を失い、国民が夢を見なくなったのはいつからか。それは若者が大人になったことを意味するのか。
誤解してはいけない。国民や国は生物としての人間とは違うのである。常に新しい国民が生まれ加わる国家は、健全である限り夢を見続ける必要がある。4年に一度の大統領選挙は、若きアメリカ国家が自らの「夢」を確認し選択する重要な政治的行事である。一時は老大国と呼ばれた大英帝国は、一人の若き指導者の誕生により、見事に再生した。遥かに長い歴史を持つ中国においても、政治の夢は活力の源である。
国が夢を失ったとき、衰退は始まる。政治家が夢を語らなくなったとき、国民は政治に興味を失うのである。
夢、愛、誇り
夢のある国とは、そこに住む国民が誇りに思う国であり、愛すべき国である。
国家は、それ自身が存在することに意義があるのではない。国家は、国民一人ひとりが「夢」を実現する「手段」に過ぎない。
天皇制国家主義の影響か、国家自体が独立した存在であり、国民は国家のためにあると考える傾向は未だに根強く残っているように思われる。
愛国心教育論議を見る時、それを強く感じる。愛国心、国を愛する心。言葉の定義はともかく、国自体があり、それに対置された若しくは従属する国民が存在するがごときである。
人を愛する。ごく自然な人の行為である。では、人を愛することは教育すべきことか。ましてや社会が強制するべきことか。そう考えれば、愛国心論議の不可思議さがわかる。人は自然に愛すべきものを愛す。人は愛されたいと思う時、それを相手方に強制するのではなく、自ら愛されるべき存在に変えるのである。相手の気持ちを考え、好意を持たれるよう努力するのである。
国においても、それは全く同様でなければならない。愛は教育や強制ではなく、努力により獲得されるべきものなのだから。
夢多き人を人は愛す。その夢を共有することに人は大きな満足を覚える。そして、その愛を独占したとき人はある種の誇りを感じる。国家が夢を語るとは、つきつめるとそういうことなのである。
政治は夢を描けるか
国民が誇りに思い愛を感じる日本を創造することは、政治の最大の課題である。そのために新たに描かれ語られる夢は何であろう。
現在の国家システムが直面している課題や問題の処方箋を総花的に描くことでないことははっきりしている。それは夢ではなく、単なる政策に過ぎない。
「世界のどの国より優れた工業製品を作り出す勤勉で有能な国民が住む国」政治が多くを語らないにも関わらず、多くの国民が日本を誇りに思う大きな理由の一つである。
「狭い国土が無惨に開発され、自然が破壊され汚染され、国民の安全で健康な生活が犠牲にされている国」国民が日本を卑下し情けなく思う大きな理由の一つである。
「巨額の貿易黒字を有し、高い所得を得て電気製品などがあふれる生活が一般庶民でも実現している世界有数の豊かな国」国民はもちろん、諸外国がイメージする日本である。
「仕事優先で家庭生活の犠牲は当たり前であり、高くて狭い家に住み一年中、満足に休暇も取らず通勤地獄に苦しむ生活」国民の多くが一般にイメージする日本である。
あきらかに相反することが、実は同じ政策選択の結果生じている例である。夢とは、ある種の単純化である。多数の官僚そして官僚組織がシステム化して個別に対応するのが政策群であるなら、夢はもっと大きなビジョンである。
「自然豊かな美しい国土に、経済的にも精神的にも恵まれた豊かな生活が営める国」例えば、このようなビジョンが夢である。それを優秀な官僚が、現実に実現するための政策群として立案実行して、その夢が実現するのである。
「所得を今の2倍にして、経済的に豊かな国民生活を実現する。」有名な池田内閣の所得倍増計画である。このビジョンは、当時の国際環境や日本産業の状況から充分実現可能であることを前提としていて、現に実現した。単なる政策群の実行結果にすぎないものが、国民の夢となりビジョンとなった貴重な例である。
この例でわかるように、独創的でも荒唐無稽でなくとも夢は創造できる。
何が実現可能であり、どう実現すれば良いのかを明確に理解していることは大前提なのである。そのうえで、国民が期待していることを具体的なビジョンにすることが夢の創造なのである。
今の政治家の言動は評論家のようであり医者のようである。ここに問題があり、こんな状況である。そのためにはこんなことをしなければならない。政治家は、そのようなことばかり語っていてはいけないのである。
不治の病を患った患者に対してさえ、生きる望みと闘病生活に望む勇気を与えてこその名医である。
政治家は「名医」でならなければならない。
国民に壮大な夢を語り、国民が愛し誇りに思う国を描く。官僚群を巧みに使いそれを確実に実現していく。
政治家とはそうあってほしいものである。
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