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2007/01/02

BraveBook:ショウペンハウエル「知性について」

知性について 他四篇

再びショウペンハウエルです。
時間、空間、唯心論など、より哲学的課題を扱った一冊です。
約半分はそんな難しいことが書かれていますが、残りの半分は一般社会と凡人に対する辛辣な「不平不満」です。

でもそこはドイツ哲学界の巨人、単なる悪口にはなりません。
200年を経た今読んでも、学ぶところの多い人生への警句に満ちています。

この本を読むにあたってのアドバイスを一つ。難しくて良く分からないところは深く考えず読み飛ばしましょう。それは、今まで知らなくても何の不便もなかったことですし、よく理解することが無くてもこれからの人生に大した影響はないと思えば良いのですから。「なるほど」と思ったことは個人的な体験に照らし合わせて具体的に考えてみましょう。そこに、何らかの解決のヒントが隠されているはずですから。

今回も、多少長くなるのを承知で何カ所かをそのまま引用することで書評に代えることとします。

三十六
 おなじ物を長く見つめていると、眼が鈍くなって、もう何も見えなくなる。それとおなじように、知性もおなじ事柄を打ちつづき考えていると、それについてもう何も発見したり理解したりすることができなくなる。あまり長い間ひとつの物をみつめていると、輪郭がぼやけて、何もかもかすんでくるように、ひとつの事柄を長く考えつめているときにも、すべてがこんぐらかってくる。こういう場合には、一旦それから眼を離さなくてはならない。そしてそのあとで再びそこへ立ち帰ってみると、こんどはそれがはっきりした輪郭で鮮かに現われてくる。だから、プラトンが『饗宴』の中で、ソクラテスは何か思いついたことを考えつめて一日中身じろぎもせず、彫像のようにつっ立っていたと語っているが、こういう話を聞いたら、「まさか」と言うだけでなく、「まずいことをしたものだ」と付け加えなくてはならない。
 知性がこのように休息を必要とするということから説明のつくことであるが、いくらか長休みをしたあとで、この世界のありふれた成りゆきを何か新鮮で物珍しいもののように眺めて、ここではじめて本当にとらわれない新しい眼で世界を目撃すると、その脈絡と意義とがわれわれにきわめて純粋にかつ明晰に知られるものである。そうなると、われわれには手にとるように見えてくる物事が、刻々その中で動きまわっている皆の人々にはどうして気づかれないのか、どうしても理解できなくなるほどである。このように澄みきった瞬間は、だから、狂気の人が時折本心に立ちもどる「冴えた束の間」になぞらえることができる。 (P89)

四二
 人生の単調さとそれから生じる味気なさを思えば、かなりの期間生きつづけてきた人には、人生がたまらなく退屈に感じられるようになるであろう。その退屈さからわずかに救ってくれるのは、全体として大まかにみれば、認識と洞察がたえず進歩し、あらゆる物事について次第に判明な理解が増すということが、ともかくも依然として続いていくという事情である。これは、ひとつには円熟と経験の賜物であるが、またひとつには、さまざまな年齢によってわれわれ自身がいろいろの変化をこうむり、これによってある程度はたえず新しい見地に立たされて、そこからして物事がわれわれに未知の側面を示し、いままでとちがった姿で現れてくるということに帰因している。それだから、精神力の強度は次第に衰えてゆくけれども、いわゆる「日日に新たに学ぶ」ということが、相変らずたゆみなく打ちつづき、同一のものでもいつも変わった新しい姿を示すので、人生全体にいつまでも目新しい魅力をふりまくことになる。いくらか考え深い老人たちが、みなソロンの「常に多くを学び加えつつ年老いん」という言葉を座右の銘にしているのは、このためである。 (P99)

五○
 どんな楽器でも、空気の振動だけから成り立つ純粋な音に、なお自分の材質の振動の結果生ずる異質的な付加音を混入しないものはありえない。それというのも、空気の振動はこの材質の振動の衝撃によってはじめて生ずるので、それが副次的な雑音をひきおこすからである。たとえば、ヴァイオリンの音がフリュートの音とちがう音色を帯びているように、それぞれの楽器がその種のものに固有の音調をおびているのは、まさにこのためである。けれども、この本質的でない混合がすくなければ少ないほど、その音はそれだけ純粋な音になる。だからこそ、人間の声音がもっとも純粋な音なのである。どんな人工楽器も、この点では自然の楽器に及ばないからである。
 さてこれと同様に、どんな知性でも、認識の本質的な、純粋に客観的な内容に、それと無縁な主観的要素を - すなわち、知性を支えて条件づけている個人性から生じてきて、従ってなんか個人的な要素を - 混入しないことはありえない。そしてこのために、その認識の内容がいつも不純になるわけである。この影響を受けることがもっとも少ない知性は、もっとも純粋に客観的な、従ってもっとも完全な知性であるということになるであろう。その結果、その知性の所産は、いかなる知性でも物事に接して一様に受けとる内容、つまり純粋に客観的な内容だけを含んで表現する段階に近づくのであるが、まさにこのことこそ、それらの所産が、何人でもそれらを理解する人の心にただちに訴えるということの理由なのである。天才とは、精神の客観性のことであると私が言ったのは、このためである。
 とはいえ、絶対的に純粋な音がありえないのと同様に、絶対的に客観的な、従って完全な知性もありえない。なぜなら、前者について言えば、空気はひとりでに振動しはじめるものではなく、そのためには何らかの衝撃を必要とするものだからであり、また後者について言えば、知性は独立に存在するものではなく、ある意志の道具としてのみ出現し、従って実在論的な言葉で言いかえると、脳髄はある有機体の一部としてのみ存在しうるものだからである。ある非理性的な、いな盲目的な意志が(これが有機体という形をとって現象しているのであるが)、あらゆる知性の基体であり根底なのである。それゆえに、いかなる知性も欠陥をまぬかれず、いかなる人間にも愚昧と不合理の影がつきまとうのである。  (P113)

五八
 生存中に同時代の人々の感謝を受けたいと思う人は、その時代とおなじ歩調であゆまなくてはならない。ところが、そうすれば、決して偉大な仕事はできない。だから、何か大事業を志す人は、眼を後世に向け、後世のために自分の作品を仕上げなくてはならない。そうすればもちろん、彼は同時代の人々には知られずにおわるわけで、彼の身の上は、ちょうど、やむなく無人島に生涯を送ることを余儀なくされた人が、将来の航海者たちに自分の消息を伝えるために、そこで苦労して石碑を立てているようなものになる。これではやり切れないと思う人は、自分の苦労の代償を期待できない普通の実際家たちでさえ、しばしばおなじ運命に見舞われることがあるということを考え合わせて、みずから慰めとするがよい。
 すなわち、こういう実際家は、境遇にめぐまれると、物質的方面でさかんに活躍し、毎日営々として励んで、利得を得、買い集め、家を建て、開拓し、設計し、土台を築き、設備し、装飾するであろう。彼はそれがすべて自分のための仕事だと思っているけれども、結局のところ恩恵にあずかるのは、子孫だけである。それも、彼自身の子孫でさえないということが、きわめてしばしばなのである。してみれば、かような実際家たちもまた「為すはわれら、得るは彼ら」と言うことができるわけで、彼らの報酬は彼の労苦だけだったことになる。こうして、彼らも天才人にくらべて、格別よい目を見たわけではない。天才人も、自分の仕事の報酬を、少なくとも名誉を期待してはいたであろうが、結局のところ、一切をただ後世のために為したにすぎない。もっとも、そのために両者とも、先人から多くを受け継いだということは、いうまでもない。  (P133)



知性について 他四篇 知性について 他四篇

著者:ショーペンハウエル
販売元:岩波書店
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コメント

この前は失礼いたしました。当方の手違いでトラックバックが不調でした。あらためてトラックバックさせていただきました(別なの文章ですが・・・)。ご迷惑でなければよろしくお願い申し上げます。

投稿: 吉田向学 | 2007/01/06 13:03

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