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2007/01/31

政策対話編:対話編を始めます。

このカテゴリーとエントリーはどんなものですか?

「日本が危ない」カテゴリーで、何回か政策論などを掲載しました。
初めから心配していたことですが、ブログで本格的な論文を掲載することはブログの構造的にも難しく、何とか掲載しやすく、読みやすい形式を検討してきました。
その結果が「対話」でした。対話形式で政策論を展開していきたいと思っています。
新しく「政策原論」カテゴリーを作って、すでに公開しているエントリーも移行する予定です。

「対話」と言うと、誰かと対談したものを掲載するとか?

実際に対話する予定はありません。もちろん、そのような機会があれば良いのですが。
あくまで、だれかと対話しているような形式で論じていこうと言うものです。

まさに、今がそれですね。

そうですね。(笑)

「対話」といった場合、対等な立場の二人が複数の観点から論じていくのが一般的ですが、そのようになりますか?

「対話」は、慣例的に使われて馴染みがよいので使用します。むしろ「質疑」または「インタビュー」といった感じになるかと思います。

基本的には論点が提示され、疑問点や解りにくい点を質問し答えていくという?

そうです。もちろん論争があるなど別の意見が一般にある場合には、その点も質疑の形で答えていこうと考えています。

政策とは具体的には何を想定していますか?

安部政権発足時に一括アップした「献策十講」を補足することから始めていこうかと考えています。それ以前にアップした年金問題や少子化なども改めて取り上げたいところです。
初めの頃のアップ分は本格的な論文形式を指向していたこともあって、自分で今読んでも解りにくい。(笑)これでは誰も読まないと思います。
やはり一問一答形式で簡潔に論点を整理していく必要を感じます。

ブログとしての機能をどう活用するかが課題ですね?

まさにそのとおりです。読者の方から本当の質問が寄せられて、それに答える形が最良ですね。でも、実際にコメントを付けられてしまうと、どう本文と一体性を保ちつつ回答を掲載するかなど難しさがあります。
特にエントリー数が増えた場合に、重複した質問などをどう処理すればよいのかが問題ですね。

トラックバック機能はどう活用しましょう。

いままでもトラックバック可能なブログ、特に国会議員や評論家などのブログには随分とトラックバックしてみましたが、何の反応もないですね。
特に国会議員はひどい。トラックバックはもちろん、コメントすらできないものがほとんどです。内容も、だれと会ったとかどこへ行ったとか。感覚として、後援団体向けの機関誌程度にしか考えていないのでしょう。
政策を論じない議員とは何なのか改めて考えさせられます。
トラックバックの手間を考えると、当面は検索エンジンからの訪問者のみを想定せざるを得ないでしょうか。もちろん、このブログにトラックバックをしていただくことは大歓迎ですが。

さっそく2月からスタートの予定ですね。

はい。まずは具体的で解りやすい税制改革を取り上げたいと思っています。論文ではないので、構成もあまり緻密に検討しないで、網羅的に論じてみたいと思います。
1回分がどれ位の分量が適当かなど当面は試行錯誤となりそうです。
また、早いうちに防衛省昇格を踏まえて国防政策について本格的に論じたいと思っています。

*政策対話編は2月から開始予定です。ご意見・ご感想などお待ちしています。

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2007/01/26

BraveDVD:「インストール」

インストール スタンダード・エディション

久しぶりにご紹介に値する邦画を見た。
年末に自動録画されていた「インストール」である。
改めてDVDで見ても、やはり良い。

上戸彩が可愛い!
とか
Macそれもカラクラ(カラークラシック)だ!
とか言うのではない。
まあ、それもあるが。

何と言っても、その「同時代性」が良い。
21世紀初頭。日本それも東京のニュータウン。今やごく当たり前の母子家庭、登校拒否の普通の女子高生。
地域も超えず、時代も超えない、非普遍性の極致。究極の特殊性。そんな同時代性。

上戸彩演じる高校生が使うパソコンが、なぜ10年は古いカラークラシックなのか。インターネットの接続がダイアルアップ接続なのかなど、同時代ゆえに感じる不自然さもなくはない。(たぶん監督の思い入れなのだろう。)
しかし、その程度は長い時間の中では誤差の範囲である。

今と言う時代の「空気感」がそのまま封じ込められた作品は貴重である。
優れた感受性、鋭敏で繊細な感性が抽出した時代の断面が映像化されている。
そこには、現代日本の病理現象の本質さえが切り取られている。

初めて見たのに、どこかで見たような不思議な感じが残った。
「家族ゲーム」である。
80年代森田監督が松田優作主演で撮った伝説の作品。
あの時代、まだ一般的ではなかったが、今や日本の病理現象として一般化し深刻化した教育と家族の問題を扱った作品である。
「家族ゲーム」が描き出した家族像と教育制度の欠陥が、正しく認識され政治的・社会的に正しく対処されていれば、今日の日本の不幸の一つは確実に存在しなかったはずである。

どちらもコミカルな味付けの娯楽作品である。
それでいて秘められたテーマ、問題意識は深い。
しかし、この作品が提示した学校と教育の病理が多くの観客に認識されているようには思われない。

何年かして、「インストール」が描きだした病理が、どう一般化し深刻な社会問題化しているかを思うと、少し怖い。


追伸:

ゆとり教育の見直しを軸とする教育改革案なるものが公表された。そのあまりの前時代的内容に愕然とする。教育の専門家・有識者が今日の教育荒廃の原因も、子供達のことも全くわかっていないことが、よく解る。授業時間を増やしても、教師の体罰を合法化しても状況は悪くなるだけだと何故わからないのか?要するに「インストール」は、それを見るべき人に見られていないのである。


インストール スタンダード・エディション インストール スタンダード・エディション

販売元:ハピネット・ピクチャーズ
発売日:2005/04/29
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2007/01/21

105円の本達:宮部みゆき「龍は眠る」

龍は眠る

最近お気に入りの宮部みゆきの三冊目です。
平成3年の出版。初期の著書とは比較にならないほど巧くなっています。
少なくない登場人物を、くどくどすることなく確実に描き分けています。
それぞれの性格の違いや置かれた環境を見事に伏線として生かし、飽きさせることなく劇的なラストシーンをまとめ上げる力量に非凡な才能を感じます。
ある種の推理小説ゆえストーリーを評論ことは禁物ですが、超能力者を巡る二つの事件が、巧みに設定された多様な登場人物に支えられて、荒唐無稽になることなく豊かで厚みのある物語を作り上げています。


龍は眠る 龍は眠る

著者:宮部 みゆき
販売元:新潮社
Amazon.co.jpで詳細を確認する


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2007/01/16

BraveBook:D・A・ノーマン「パソコンを隠せ、アナログ発想でいこう!」

パソコンを隠せ、アナログ発想でいこう!―複雑さに別れを告げ、“情報アプライアンス”へ

D・A・ノーマンは、認知科学と言うあまり馴染みのない分野の専門家である。
彼の優れた著書「誰のためのデザイン?」は、その専門分野の概要を示しているが、いずれ改めてご紹介したい。
認知科学の主要課題は、使いやすいくするにはどうするべきか。間違いを生まない為にはどうするべきか。など人間の認識の特徴を踏まえて、ハード・ソフトをどう設計するかを研究することにある。
至ってセールス的な観点から決定されたと思う邦題だが、原題は THE INVISIBLE COMPUTER  Why good products can fail (見えないコンピューター なぜ良い製品が失敗するのか)である。
内容は、ハードウェアとしてのパソコンの問題点や改善点はもちろん、その開発組織や他の工業製品の問題点など多岐にわたっている。
変化の早い分野ゆえに、6年前の著書ならではの古さを感じさせる点もあるが、その指摘するところは今なお重要である。
逆に言うなれば、この著書の重要な指摘が実際にはほとんど生かされていないことに他ならない。
機械に人が合わせるのではなく、人(の特性)に合った機械が必要であるとの、D・A・ノーマンの一貫した主張は貴重であり重要である。

今年、ウインドウズの新OSビスタが久しぶりにリリースされる。
残念ながら、この新OSはパソコンを革新するものではないようである。
パソコンは相変わらず不自由な道具である。
現在のウインドウ型OSは、例えるなら「立ち入り禁止の窓付実験室」のようなものである。
ウインドウ型OS誕生前、パソコン(汎用コンピューター)はガラス窓もないブラックボックスで、コンピューター専用言語で書かれた「注文書」を投げ入れると、結果を「投げ返す」だけの装置だった。(パンチカードに打ち込んだプログラムを読み込ませ過程は、例えではなくまさにそのものだった。)

そこに、小さいながらも窓が付けられ、不自由ながらも遠隔操作が可能なマジックハンドが付けられたのは、確かに画期的であった。
それによって、汎用実験室でいろいろなことが、ずっと楽にできるようになった。
それから四半世紀、実験室は広くなり設備もよくなりマジックハンドも多少は便利になったが、本質的な変化はない。それが残念である。
ガラス窓越しに遠隔操作することをやめ、実験室に入って直接手に取って実験することが次の段階のはずだが、その実現はまだ遠いようである。

この本に散りばめられたヒントは貴重である。
汎用実験室から専用実験室へ。遠隔操作から直接操作へ。それを情報アプライアンスと名付けて提案している。
ここ数年のハードウェアの進化を踏まえると、本書に例示される以上の可能性を感じる提案である。

パソコンは汎用であるが為にOS(オペレーションシステム)が不可欠であるが、実際はエクセルやワード、パワーポイントなど数種のビジネスアプリケーションのみを利用することが多い。
利用者はアプリケーションプログラムを操作しているのであって、OSそのものが必要なわけではない。印刷や保存などアプリケーションプログラムによって提供されている機能がアプリケーションプログラムと一体的に機能することはあるが、使用者が基本的に必要とされるのは、その目的に応じたアプリケーションを操作する能力である。

こう考えると解りやすいかもしれない。現在のパソコンは、スピードレース・ラリー・オフロード踏破、あげくは土砂運搬から道路工事まで使用可能な「超万能自動車」のようなものになっているのである。
その結果、ごく普通の道路をごく普通に運転するだけの人々には不用な、過大で重厚なエンジンと足回り、車体強度が付加されることになるのである。
普通に使うのには必要のない装備が満載される結果、取り扱いが不便で、極めて燃費の悪い車を維持しているようなものである。

単にエクセルやワードを使うだけのユーザーにとっては、それに特化されたハードとソフトが一体となったアプライアンス(もはやパソコンではない)が便利で合理的なのである。

エクセル専用アプライアンス、それはこんなもののはずである。

大きさはA3版程度、新聞一面位の大きさでお馴染みの升目が一面に浮かび上がっている。厚さは厚紙程度、自由に折り畳んだり丸めたりできて、紙と同じように取り扱える。
使いたいときは、紙と同じく机に広げて使う。テンキーやキーボードはない。正確には任意の位置を指定することでソフトウェア的にシート上に浮かびあがる。
関数や数値は従来どおりにキーボードで入力しても良いし、専用ペンで直接書きこんでも良い。
データファイルの保存は、無線接続された共有ディスクに直接保存される。既存のファイルの呼び出しも同様である。印刷も無線接続ネットを経由して行う。
機能を提供する電子回路はチップ状ではなく、シートに直接プリントされている。駆動用電源も同様だが、誘電システムで常時充電される。

エクセル、ワード、パワーポイントなどアプリケーション毎に、操作体系が統一された別々の専用のシートが提供され、好みによって大きさや機能が選択可能である。必要ならば作業内容ごとに複数のシートを使いわける。

個々人の机上は、折り畳んだシートを収納する小振の本棚だけがあって、一昔前のように広々としている。
決して現在のように巨大なパソコンと作業空間を圧迫し、一日中モニターを見つめていることはない。

アップルのiPhoneシステムに期待したい。
ストレージ機能やプリントなどの拡張機能をパソコンから分離して、大容量高速通信により提供するロジスティック環境が整備される。

今回発表されたiPhoneデバイスと同様に、そのロジスティック環境と有機的に連携して機能する専用アプライアンスが可能となるからである。

単一アプリケーション毎の電子ペーパー型アプライアンス。

iPaper for Exel      iPaper for Words ........

早くこんな時代になってほしいものである。



パソコンを隠せ、アナログ発想でいこう!―複雑さに別れを告げ、“情報アプライアンス”へ パソコンを隠せ、アナログ発想でいこう!―複雑さに別れを告げ、“情報アプライアンス”へ

著者:ドナルド・A. ノーマン
販売元:新曜社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2007/01/10

MacLife:iPhoneの未来に栄光あれ!

Indexhero20070109




















iPhoneの素晴らしさに乾杯!

かねて噂のiPhoneが発表されました。
と言う訳で緊急レビューです。
来月号の雑誌には、詳細で専門的な特集記事が満載されることは確実ですが、ここはBlogの速報性を生かして第一報をお届けします。
スペックなど基本的な情報は、既に米アップルのサイトに詳細に掲載されていますのでご覧いただくとして、ここではその掛け値なしの革新性について報告します。

携帯電話付きのiPodとして噂されていたiPhoneですが、その予想は良い意味で見事に裏切られました。
4GBHDモデルが499ドル、8GBHDモデルが599ドルと予想より遥かに高価な製品は、携帯電話+iPodなどという複合端末などではなく、まさに手のひらサイズの高性能パソコンそのものです。

CPUは現在のところ公表されていませんが、タッチパネル化された3.5インチのフルカラー液晶パネルは480×320の解像度。OSはOSⅩ(テン)、SafariやMailなどお馴染みのアプリケーションも搭載されています。
無線LAN、Bluetooth、そして携帯電話の次世代データ通信にも対応。
2メガの内蔵カメラ、4G又は8GのHDD。

これはもはや液晶一体型のパソコンそのものであり、音楽・映像ディバイスのiPodも、携帯電話機能も、単にその一機能でしかありません。
あえて表現するなら、無線LAN機能内蔵PC+高解像度液晶パネル+データ通信機能+iPod+Newton(!)PDA に他なりません。


新しきもの、その名は「iPhone」

iPhoneのスペックや機能を一見すると、21世紀に蘇った悲劇のPDA「Newton」のようです。その早過ぎる誕生ゆえ「電子秘書」として最良のコンセプトを生かすこと無く消えて行ったNewtonです。現在の高速インターネット環境と表現力豊かな液晶パネル、充分なCPU処理能力を持ってすれば、その遺伝子を再生することは充分可能であったはずであり、iPhoneはそれを実現しているからです。もちろん、手書き入力機能などは未搭載ですが、わずかな専用アプリを追加することで不足している機能は直ちに実装可能だからです。

しかし、iPhoneの本質は、基本コンセプトから全く新しいものだと考えるべきものなのです。
基本的にはスタンドアロンで利用されることを前提とするNewtonや携帯パソコンに対して、iPhoneは壮大で新しい情報システムを構成する一デパイスである点にあります。

今回発表されたiPhoneは、iPhoneシステムとでも称すべき情報の管理運営システムの「表示」と「簡易操作」を担当する携帯デバイスに違いありません。
そのシステム全体は現在は公式には公表されていませんので、一部推測によらざるを得ませんが、iPhone発売の6月までには全貌が明らかになっていることでしょう。

その直接のヒントは、搭載されているあまりに小さいHDDと複数の高速通信機能にあります。
現在、発売されている最小のiPodでさえHDD容量は30GBです。音楽や映像ディバイスを「持ち歩く」ためには、最低でもそれ以上の容量が必要なのは明らかです。

では、なぜ4GBなのか。動作時間の確保とのトレードオフによって小さくなったのか? マイクロソフトなら、さもありそうですが、アップルに限ってそのような理由はあり得ません。製品の完成度と革新性に並々ならぬ熱意と情熱を持つジョブスに「妥協」の二文字ほど似合わないものはありません。

そうです。OS(オペレーションシステム)とアプリケーションプログラムの保存場所としてHDDは搭載されているに過ぎないのです。

iPhoneシステムとは、自宅のPC(基本的にはMac)と現在は.Macと呼ばれているインターネットストレージを中心とするサービス提供機能を高速大容量データ通信網で有機的に一体化するものに違いありません。そのモバイル環境での表示操作環境を担うのが、今回発表されたiPhone端末なのです。

アップルが想定する、6月のiPhone販売開始時の利用形態はたぶん次のようなものでしょう。

iPhone購入者に付与される.Macアカウントに、iPhoneからデータ通信又は公衆LANでアクセスすると、専用ポータルサイトが表示されます。
そこには、有償又は無償の映画やニュースなどの映像コンテンツ、期限付き音楽ソースが多数用意されていて、簡単な操作で.Macの個人専用ストレージ(iDisk)に分類保存ができ、いつでも再生できます。
また、自宅PC側を登録しておけば、専用ポータルサイトを経由して自宅PC内に保存されているファイルを閲覧・取り出し可能であり、またiPhoneで作成したファイルを保存することもできます。自宅PCに接続されたプリンタやスキャナ、カメラなども操作することが可能でしょう。

そのように、自宅以外から自宅PCやインターネットストレージ、映像ソースなどに自由にアクセスし、リアルタイムに取り出すことを前提としてiPhoneは利用されるものに違いありません。
スタンドアロンでの利用を前提に設計されていないiPhoneは、その点で現在のいかなる携帯PCやPDAとも明らかに異なった革新的なコンセプトを有するデバイスであると断言することができます。


iPhoneの未来に栄光あれ!

革新的な製品が発表されると、それを理解できない「専門家」によってあらゆる誤った指摘や誤解にもとづく批判や「善意に満ちた忠告」がなされます。
すでに予想できるものは次のようなものでしょう。

「この小さいHDD容量はどうしたものなのか、わずか数時間の動画すら保存できない製品に何の意味があるのだろう。」
「わずか3.5インチの液晶パネルに表示されるキーボードが実用性に欠けることは明らかである。安価なUSBキーボードを接続するポートはぜひ必要である。」
「すでに豊富に製品化されている外付け機器を接続するインターフェイスが一切ないことは疑問である。USBやFIreWire、そしてPCカードスロットなどの追加が発売前までに真剣に検討されるべきである。」
「小型だが信頼性のおける小型キーボードやワンタッチで目的の操作が可能なハードウェアボタンはやはり必要だと言える。いたずらに目新しさを求め実用性をなくすことが利用者のためになるとは思えない。」

すべての批評家に予め言っておきたいことがある。
「沈黙こそは金である」と。
そして、優れたアップルの開発者達にあえて伝えておきたいことがある。
「すべては正しい。自ら正しいと信じたことのみを行えば良い」と。

ただ一つ疑問があるのです。
今回の発表に併せて、「アップルコンピューター」は社名を「アップル」に変えました。新たな飛躍を自覚したうえでの選択に違いありません。
では、なぜこの革新的製品の名前は「iPhone」なのだろう?
あまりに過小でレガシーなネーミングではないだろうか?
この革新的なコンセプトに基づく最初の製品に相応しいのは、全く新らしい名前ではないだろうか?

例えば(あまり革新的とは言えないけれども....)
  iPanel    iBoad   iPad    

などはどうだろうか?

iPhone
このあまりにベタなネーミングが、iPhoneの革新性を多くの人に訴求する際の障害とならないかが、現在のごくごくささいな心配事なのです。

iPhoneについては、機会を見て再度レビューしたいと思います。

Indexhero20070109

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BraveDVD:イッセー尾形「The Best of Best Collection '89-93 DVD BOX1」

イッセー尾形 The best of best collection ’89~’93 DVD BOX1

イッセー尾形をご存知だろうか?
初めて彼を見たのは「冗談画報」だったように思う。
泉麻人が司会する幻の情報番組。やたらとマニアックで玄人受けする芸人や演劇やパフォーマンスなどを紹介していた。

そのなかでも、イッセー尾形の芸は秀逸だった。
登場するのは政治家でも著名人でもないごく普通の人々。
工事現場の職人だったり、終電に乗り遅れたサラリーマンだったり。

ごく普通の人々の、有りがちな出来事や癖などを演じるのである。
服装や髪型、ちょっとした小道具で、驚くほど多様な人物を演じ分ける。
だれも共演者のいない一人芸、まさにプロの芸である。
マスコミに登場したばかりにタモリの芸が、それに近い感じがする。
しかし、タモリの芸が有名人の形態模写や現実ばなれした言動で笑いを生むのに対して、イッセー尾形の芸はいかにも独特で孤高である。
だれでもが出会うであろう日常での一寸した可笑しさを増幅し、癖になる笑いを生み出すのである。

今や沢山のDVDが販売され入手可能だが、ご紹介するのは初期の5年間のベスト版である。すでに15年以上も昔になる。時の流れの中で多くの笑いは急速に陳腐化し見るに堪えないものになる。しかしイッセー尾形に限っては全くそのようなことがない。
確かに営業課の会社員が携帯電話を持っていなくて公衆電話を探したりと、時の流れを感じる部分もある。しかし、それは決して彼の芸の価値を失わせない。

イッセー尾形が描き出すのは、社会そして人間の本質である。本質そのものが元来持つ可笑しさを抽出して描くのである。彼の芸を見て思うのは、人間とはどうしてこうも可笑しく不思議な存在なのかということである。

批判を畏れずあえて言うなら、イッセー尾形は極東の島国に20世紀末に誕生したシェークスピアなのである。
人間の本質を見抜き再構築する、シェークスピアのみが成し得た偉業に、イッセー尾形は限りなく近づいているように思う。

追伸
マスコミに滅多に露出することがないイッセー尾形だが、今も毎年のように公演を行っていて、しかも熱狂的なファンで常に満員である。個人的には今回ご紹介した初期の芸風が好きである。それはあるいは、イッセー尾形の毎年のように進歩する笑いに自分自身が追いつけないだけなのかもしれない。


イッセー尾形 The best of best collection ’89~’93 DVD BOX1 イッセー尾形 The best of best collection ’89~’93 DVD BOX1

販売元:ポニーキャニオン
発売日:2004/11/17
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2007/01/08

BraveGoods:BRITA フィヨルドセレクト

Brita フィヨルド セレクト 1.6L 【Amazon.co.jpオリジナル企画:カートリッジ1個増量!(計2個付)】

昨年に引き続いて「こんなもの買いましたシリーズ」は続きます。
ポット型浄水器です。
楽しいティータイムの決め手は、何と言っても茶葉と水。
やはりミネラルウォーターはひと味違うのです。
でも、値段はともかく買ってくるのが重くて面倒。そして、後には使い道のないペットボトル。「地球に厳しい」水道楽なのです。
そこで、老舗浄水器メーカーBRITAのポットです。
写真のポットはちょっぴり高級仕様のフィヨルドセレクト。浄水器には珍しいガンブラックの渋いポットは、そのままテーブルに置いてもかなりいい感じなのです。
そして、水割り用にサイドテーブルにおいてもしっくり馴染みます。

このBRITAの交換フィルター、アマゾンでの売り上げが全ての製品のなかで昨年度何とNo.1だったとか。当然ポットはものすごい売り上げだったことでしょう。

確かに約2月、200リットルで交換となるフィルターは水1リットルあたり7円とか。ミネラルウォーターとは比較にならない安さです。
それでいて、味はほぼ互角。輸入もののブランド水と較べれば個性もなくて平凡ですが普段利用には充分美味しい水質です。
約3分で水1リットルの浄化が完了。ミネラルウォーターと同様の使い方をするなら、フィルターも半年近くもつのでは。

見栄えは良いからとにかく安くという方には3000円以下の製品もあるし、大容量のポットもあります。一押しの1.6リットルなら冷蔵庫のドアポケットにジャストサイズ。そして、大手スーパーなどでもフィルターが簡単に手に入るのもとても便利。絶対にお薦めの一品です。

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追伸
改めて「こんなもの買いましたシリーズ」を見直すと、生活・家庭用品がやたらと多くなってしまいました。
地上波アナログ放送はまもなく終了だし、デジタル放送の行方は今一つ怪しい。大型テレビはまだまだ安くなっていくようなので、AV機器は様子見です。
PS2で遅ればせに参入したTVゲームは、相変らずの品薄でこちらも様子見。
次世代DVDに至っては規格の統一に失敗したために、ハード・ソフトともまったく数が少なくて、家電量販店の店員ですら「もう少し待ったほうが...」とアドバイスをしている有様。
お金はあっても買いたい物が無い! 「飽食の時代」どころか「飽物の時代」なのです。今年のテーマは「量より質」。ちょっぴりバブルの気配が戻ってきたような今日この頃なのです。

今回のまた、前回配信の「知性について」を真面目にお読みいただいた読者の皆様からは厳しいお叱りの言葉を受けそうです。

「心」の不足感を「物」で充足できるのか? 今年の実験的テーマの一つです。

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2007/01/02

BraveBook:ショウペンハウエル「知性について」

知性について 他四篇

再びショウペンハウエルです。
時間、空間、唯心論など、より哲学的課題を扱った一冊です。
約半分はそんな難しいことが書かれていますが、残りの半分は一般社会と凡人に対する辛辣な「不平不満」です。

でもそこはドイツ哲学界の巨人、単なる悪口にはなりません。
200年を経た今読んでも、学ぶところの多い人生への警句に満ちています。

この本を読むにあたってのアドバイスを一つ。難しくて良く分からないところは深く考えず読み飛ばしましょう。それは、今まで知らなくても何の不便もなかったことですし、よく理解することが無くてもこれからの人生に大した影響はないと思えば良いのですから。「なるほど」と思ったことは個人的な体験に照らし合わせて具体的に考えてみましょう。そこに、何らかの解決のヒントが隠されているはずですから。

今回も、多少長くなるのを承知で何カ所かをそのまま引用することで書評に代えることとします。

三十六
 おなじ物を長く見つめていると、眼が鈍くなって、もう何も見えなくなる。それとおなじように、知性もおなじ事柄を打ちつづき考えていると、それについてもう何も発見したり理解したりすることができなくなる。あまり長い間ひとつの物をみつめていると、輪郭がぼやけて、何もかもかすんでくるように、ひとつの事柄を長く考えつめているときにも、すべてがこんぐらかってくる。こういう場合には、一旦それから眼を離さなくてはならない。そしてそのあとで再びそこへ立ち帰ってみると、こんどはそれがはっきりした輪郭で鮮かに現われてくる。だから、プラトンが『饗宴』の中で、ソクラテスは何か思いついたことを考えつめて一日中身じろぎもせず、彫像のようにつっ立っていたと語っているが、こういう話を聞いたら、「まさか」と言うだけでなく、「まずいことをしたものだ」と付け加えなくてはならない。
 知性がこのように休息を必要とするということから説明のつくことであるが、いくらか長休みをしたあとで、この世界のありふれた成りゆきを何か新鮮で物珍しいもののように眺めて、ここではじめて本当にとらわれない新しい眼で世界を目撃すると、その脈絡と意義とがわれわれにきわめて純粋にかつ明晰に知られるものである。そうなると、われわれには手にとるように見えてくる物事が、刻々その中で動きまわっている皆の人々にはどうして気づかれないのか、どうしても理解できなくなるほどである。このように澄みきった瞬間は、だから、狂気の人が時折本心に立ちもどる「冴えた束の間」になぞらえることができる。 (P89)

四二
 人生の単調さとそれから生じる味気なさを思えば、かなりの期間生きつづけてきた人には、人生がたまらなく退屈に感じられるようになるであろう。その退屈さからわずかに救ってくれるのは、全体として大まかにみれば、認識と洞察がたえず進歩し、あらゆる物事について次第に判明な理解が増すということが、ともかくも依然として続いていくという事情である。これは、ひとつには円熟と経験の賜物であるが、またひとつには、さまざまな年齢によってわれわれ自身がいろいろの変化をこうむり、これによってある程度はたえず新しい見地に立たされて、そこからして物事がわれわれに未知の側面を示し、いままでとちがった姿で現れてくるということに帰因している。それだから、精神力の強度は次第に衰えてゆくけれども、いわゆる「日日に新たに学ぶ」ということが、相変らずたゆみなく打ちつづき、同一のものでもいつも変わった新しい姿を示すので、人生全体にいつまでも目新しい魅力をふりまくことになる。いくらか考え深い老人たちが、みなソロンの「常に多くを学び加えつつ年老いん」という言葉を座右の銘にしているのは、このためである。 (P99)

五○
 どんな楽器でも、空気の振動だけから成り立つ純粋な音に、なお自分の材質の振動の結果生ずる異質的な付加音を混入しないものはありえない。それというのも、空気の振動はこの材質の振動の衝撃によってはじめて生ずるので、それが副次的な雑音をひきおこすからである。たとえば、ヴァイオリンの音がフリュートの音とちがう音色を帯びているように、それぞれの楽器がその種のものに固有の音調をおびているのは、まさにこのためである。けれども、この本質的でない混合がすくなければ少ないほど、その音はそれだけ純粋な音になる。だからこそ、人間の声音がもっとも純粋な音なのである。どんな人工楽器も、この点では自然の楽器に及ばないからである。
 さてこれと同様に、どんな知性でも、認識の本質的な、純粋に客観的な内容に、それと無縁な主観的要素を - すなわち、知性を支えて条件づけている個人性から生じてきて、従ってなんか個人的な要素を - 混入しないことはありえない。そしてこのために、その認識の内容がいつも不純になるわけである。この影響を受けることがもっとも少ない知性は、もっとも純粋に客観的な、従ってもっとも完全な知性であるということになるであろう。その結果、その知性の所産は、いかなる知性でも物事に接して一様に受けとる内容、つまり純粋に客観的な内容だけを含んで表現する段階に近づくのであるが、まさにこのことこそ、それらの所産が、何人でもそれらを理解する人の心にただちに訴えるということの理由なのである。天才とは、精神の客観性のことであると私が言ったのは、このためである。
 とはいえ、絶対的に純粋な音がありえないのと同様に、絶対的に客観的な、従って完全な知性もありえない。なぜなら、前者について言えば、空気はひとりでに振動しはじめるものではなく、そのためには何らかの衝撃を必要とするものだからであり、また後者について言えば、知性は独立に存在するものではなく、ある意志の道具としてのみ出現し、従って実在論的な言葉で言いかえると、脳髄はある有機体の一部としてのみ存在しうるものだからである。ある非理性的な、いな盲目的な意志が(これが有機体という形をとって現象しているのであるが)、あらゆる知性の基体であり根底なのである。それゆえに、いかなる知性も欠陥をまぬかれず、いかなる人間にも愚昧と不合理の影がつきまとうのである。  (P113)

五八
 生存中に同時代の人々の感謝を受けたいと思う人は、その時代とおなじ歩調であゆまなくてはならない。ところが、そうすれば、決して偉大な仕事はできない。だから、何か大事業を志す人は、眼を後世に向け、後世のために自分の作品を仕上げなくてはならない。そうすればもちろん、彼は同時代の人々には知られずにおわるわけで、彼の身の上は、ちょうど、やむなく無人島に生涯を送ることを余儀なくされた人が、将来の航海者たちに自分の消息を伝えるために、そこで苦労して石碑を立てているようなものになる。これではやり切れないと思う人は、自分の苦労の代償を期待できない普通の実際家たちでさえ、しばしばおなじ運命に見舞われることがあるということを考え合わせて、みずから慰めとするがよい。
 すなわち、こういう実際家は、境遇にめぐまれると、物質的方面でさかんに活躍し、毎日営々として励んで、利得を得、買い集め、家を建て、開拓し、設計し、土台を築き、設備し、装飾するであろう。彼はそれがすべて自分のための仕事だと思っているけれども、結局のところ恩恵にあずかるのは、子孫だけである。それも、彼自身の子孫でさえないということが、きわめてしばしばなのである。してみれば、かような実際家たちもまた「為すはわれら、得るは彼ら」と言うことができるわけで、彼らの報酬は彼の労苦だけだったことになる。こうして、彼らも天才人にくらべて、格別よい目を見たわけではない。天才人も、自分の仕事の報酬を、少なくとも名誉を期待してはいたであろうが、結局のところ、一切をただ後世のために為したにすぎない。もっとも、そのために両者とも、先人から多くを受け継いだということは、いうまでもない。  (P133)



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2007/01/01

謹賀新年

あけましておめでとうございます。
いつも「すばらしき新世界」をご覧いただきありがとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。

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