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2007/02/25

政策対話編:続続続・税制改革について

1回空きましたね?

この原稿は、ブログにアップする前にもう一度読み直してます。今回分の重要な部分である国債について、大前研一氏のコラムに気になる指摘があったので確認していました。

勢いで書いているので、そんなこともありますよね。

どこまで確認するべきかは難しいですね。統計資料などを読み込むのは時間がかかりますし、数値の引用は説得力はありますが、読者の多くは興味がないでしょうし。

では、そろそろ本題にまいりましょう。
前回は、いわゆる団塊世代が保守化して、新自由主義的税制改革の支持者になっていることなどをお話ししました。
理想的な税制度についての話に入る前に、税制論議の際に必ず出てくる財政赤字の問題について簡単に確認しておく必要があるように思われます。
巨額の財政赤字を解消するため、増税は不可避との意見についてはどうですか。

この点は献策十講でも簡単に触れたところですが、ある意味で大変な誤解があるように思います。
財政赤字とは、地方公共団体を含む国などの公共団体が借金をしていると言うことです。
政府が行政を行うのに必要なお金が足りない。その不足額を債権、すなわち国債や地方債として借金している状態を、財政赤字と言うのです。
重要なのは、財政赤字はあくまで国内経済の問題であって、国際収支は大幅な黒字であることです。
国際収支が黒字であるということは、基本的には外国から借金をしているわけではないと言うことです。言い換えれば、政府があくまで国内の企業や個人から借金しているのであって、いざとなれば(決してあってはいけないことですが)国内限りで借金が帳消しできるということなのです。
財政赤字が原因で国が「倒産」すれば(現実にはあり得ないことですが)、困るのは外国政府ではなく、国内金融機関などだということです。これは、財政赤字の本質を見抜くうえで非常に重要なことです。

国が行政を行う経費を、誰から調達しているかということでしょうか? 国内産業が未発展であったり衰退してしまえば、国内企業や個人から税金も徴収できないですからね。

20世紀に入って福祉国家論が優勢になったことで、行政に要する経費は増大する一方です。国内産業を育成するなどして国全体を豊かにする。その範囲内で税金を徴収し、公共事業や施策によって広く国民に還元するのが、あくまで基本なのです。
国内企業や国民が生み出す富以上のものを、政府が支出してはいけないわけです。
それでも、社会的な必要や政府の無節操から、分不相応の財政支出をする場合も歴史的には皆無とは言えません。そのような必要があって、しかも国が本当に貧乏な時には、外債を発行して外国から借金するしかないのです。もっとも、最近は管理通貨制度が一般的で印刷機だけあれば貨幣は政府の意志ひとつで、いくらでも増刷できるのは事実なのですが、原則はあくまで他国から借金をするのです。
明治維新直後の新政府がそうでした。徳川幕府を倒して成立した明治新政府は貧乏でした。革命政権の宿命として、新たな政府は少なくても前の政府より良くなくてはなりません。明治政府は、文明開化という形で日本を近代化することで、それを国民に示そうとしました。しかし、その財政基盤は脆弱で、鉄道敷設や軍備などの近代化に必要な資金が国内では調達できなかったのです。

国家財政が破綻した例は多いですね。国家が破綻するとどうなるのですか?

ここ数十年の例でも、メキシコなど中南米諸国を中心に国際収支の赤字が膨大になった先例は少なくありません。最近の例では、アジア金融危機と呼ばれた韓国を含む東南アジア諸国の例があります。
外国から借金をした場合には、その借金が返せなくなることは、場合によっては国の存亡にも係わる重大な問題となります。極端な場合には国民の生活までを債権国に管理され、国家の責任で借金返済を義務づけられることになるのです。
とは言っても、あまり追いつめて「逆ギレ」されて戦争になってもいけません。
そこまでいかなくても、クーデターで政府が倒れて借金が踏み倒されないとも限らないわけです。従って、債権国としても膨大な債権の一部を放棄したうえで、長期返済とすることが一般的だと言えるでしょう。
このあたりは、莫大な借金を背負った芸能人が、仕事を干されることもなくあんがい普通に生活しているのに似ています。
あまり追いつめて自己破産をしたり自殺されたりすれば、元利とも回収が困難になるからです。たとえ長期間がかかっても、日々の仕事から利息と元金の一部を回収することが合理的だからです。
いずれにしろ、国家が他国から借金をしている場合、その返済は国際社会の一員としての厳しい責任の下にあると言って良いでしょう。

明治政府も大変な苦労をして、外債を償還したようですね。

そうです。借金のカタに国が滅びかねない時代でした。江戸幕府が、あのような形で瓦解したのも、攘夷運動などによる外国人傷害事件に関する欧米列強への莫大な賠償金が原因だとの説さえあるほどです。
明治政府はヨーロッパで起債して、文明開化に必要な資金のほとんどを自ら調達しました。中国の先例などに学んだその徹底ぶりは評価に値します。
好例として新橋〜横浜間の鉄道建設があります。イギリスなどから無償建設の申し入れがありましたが、政府は断固として拒絶しましたが実に賢明な判断でした。
もし、そのとき外国が建設をしていたならば、鉄道そのものの所有権はもちろんのこと、その敷地や沿線が治外法権になって、実質上外国領となった可能性は極めて高かったからです。当時のそのようなことは一般的でしたし、現に日本自身が中国・満州で同様の権益を後に獲得することになります。

その賢明な選択の結果、日本の独立は確保され近代化は成功しました。しかし、地租改正によって国民から徴収した税金の相当額が外債の返済にあてられ、長く政府の財政を圧迫しつづけました。すべての元金を償還できたのは、はるか後の日清戦争の賠償金によってであったと言われています。

財政赤字と言えば徳川幕府も常に赤字だったようですね。鎖国体制ですから、もちろん借金は国内の商人達からだったわけですが、その面では現在の日本の財政赤字に通じるものがあるように思われますが。

江戸幕府の財政は、その300年近い間、常に赤字続きでした。ご存じのとおり、徳川幕府は武家政権です。武家政権には多数の兵士すなわち武士がいます。他の武将と戦争をして占領する。その領地や年貢を武士達に分配する。基本的にはそういう構造なわけです。
つまり、どこかを侵略して領土を増やさなければなりたたない構造なのです。
徳川幕府になって、天下統一が完成し、鎖国をしたことで、領土が増えなくなった。それが、徳川幕府の赤字の根本的な原因です。今でいう行政改革やリストラによって武士の数を若干減らすものの、時代とともに生活は豊かになるし、人口そのものが増加している。人件費を含む行政需要は一貫して増加しつづけるわけです。領地からあがる年貢も、技術革新によって若干は増加するが、ぜんぜん追いつかないわけです。
徳川幕府は封建政権ですから、全国が同じような構造をもった藩に分割されている。どの藩も苦しいわけです。ついには、藩をあげて特産品を開発するなどして商売をはじめます。その敗者は大赤字なわけです。支配者である幕府=武士は貧乏、大小の商人はやたらと豊かという構図までもが、現在とどこか似ています。

「現在の百姓」と言われることもあるサラリーマンが、一方的に搾取されているのも似ていますね。

百姓=農民の貧困は言うまでもありません。ほぼ一方的に搾取されています。でも、幕末近くなってくると、百姓身分でありながら結構「金持ち」がいて、金の力で武士になったりしているのは面白いですね。
一番悲惨なのは、やはり武士です。商品経済に巻き込まれてひたすら貧乏でした。なにしろ「雇用主」の幕府や藩がそれにも増して貧乏なのですから救いがありません。
このあたりは、現在の財政赤字を思わせますが、絶対的に違っているのは、その原因です。江戸幕府の赤字は、ほとんど全てが人件費のせいです。とにかく、江戸幕府は金のかかることを何もしない構造になっているのです。逆に言えば何の責任もない。各藩のことは藩まかせ。地域的理由による貧富の差など幕府の知ったことではありません。人民の生活も同じ、病気になろうが貧しかろうが自己責任です。なんの民政もしない。
公共事業もしません。なにかの公共事業が必要になると、適当に藩を見繕って普請させる。または大商人に許可を与えて請け負わせる。独占させるか使用料の徴収を許すことで、税金を使うどころか儲けることさえあります。
例えば有名な玉川上水などは、玉川兄弟に建設を許可しただけで一円も払っていません。玉川兄弟は、末代まで水道使用料を利用者から徴収する権利を幕府からもらうわけです。
その仕組みは、まさにPFIそのものなのです。

原因はともかく、幕府にも各藩にも莫大な借金がありました。その借金は、明治維新によって幕府が倒れることで、どうなったのでしょうか?

江戸幕府が瓦解して、その巨額の借金はどうなったか?実にいい質問です。財政赤字が巨大化して政府が倒れる際の貴重な先例だからです。
借金はだれも返さなかった。それが結論です。
結局は、幕府に金を貸していた当時の大手金融機関である幕府御用達「廻船問屋」などが借金を回収できずに、倒産しただけでした。
明治政府は、外国に対するもの以外の一切の借金を継承しませんでした。革命政府としての性格上、当然です。
幕府の借金とは、その利害が一体化した商人の貸金そのものなのです。何に使うかによらず利害が一致する商人が幕府に金を貸す。その見返りに便宜や特許を得る。そういう構造なのです。幕府が崩壊するとき、借金が返済されずに運命をともにした商人がいた。ただ、それだけのことなのです。

え!そうなんですか。でも、現代社会ではどうですか?

時代が過ぎた今も、その基本構造は変わりません。
政府と密接に関係を持ち、それゆえ国債を引き受けている金融シンジケートがあります。各金融機関は系列を通じて大企業グループと一体化している。その莫大な貸金が焦げ付くのは絶対に避けなければならない。だからこそ、国全体の問題のように財政赤字=財政再建が財界を中心に声高に叫ばれているにすぎません。
ただ違っているのは、現代国家が国民生活に直結した数多くの事業を行っていること。そして、国民から直接税金を徴収する強力な権限をもっていることなのです。
さらには、少なからずの国債が市中消化すなわち国民個人によって所有されていることも違います。終戦によって戦時国債が「紙くず」になった記憶も国民にまだ残っているなか、「政府の倒産」は単純に国民と無関係とは言えないところもあります。

大前健一氏の最近のコラムによると、国民の国債所有が急増しているそうです。一方で大手銀行の国債保有率は大きく減少しているとも書かれています。
世界に冠たる日本の官僚は、やはり無能ではないと言う事でしょう。国民に国債を所有させることで、政府に「保険」を掛けているということです。
いずれ「平成の徳政令」が出される日がこないことを望みます。

現代日本の難しさはわかりますが、徳川幕府の崩壊時には、その巨額な借金が焦げ付いたことは、国民とは無縁だと言ってしまって良いのでしょうか。

基本的には、幕府が倒れて明治政府になっても、庶民の生活にはなんの影響もなかったと言ってよいでしょう。
もし、政府御用達の「廻船問屋」などが倒産することで、国内経済そのものが崩壊していれば、大混乱が起こったはずだとは想像できます。
江戸時代は、すでに商品経済下に多くの国民が組み入れられていましたので、商品流通がストップしていれば国民生活への影響は甚大だったはずです。
しかし、実際にはそのような混乱は、極めて限られた地域でごく短期間発生しただけでした。
明治維新の際には、新政府軍を幕末から一貫して資金援助していた新興商人達が、その空白を実に速やかに埋めました。三菱・安田・住友など、後に大財閥となる関西出身の商人達です。
ある政府そして運命共同体の企業群が瓦解して「空白」が生じれば、別の企業が「企業の論理」に従い、その「空白」を埋めるのが自由主義経済の大原則なのです。

地域的に違いがありましたか?

新政府軍の根拠地であった西日本は、まず安泰でした。江戸幕府のお膝元で大消費地であった江戸には、新政府軍とともに新たな商人達が進出して、それまでどおり商品を搬入し商売を続けたのです。
混乱が大きかったのは、幕府軍が北上しながら抗戦していっか関係で、東北・北海道地方でしょう。
幕府瓦解により、多くの武士が帰郷しましたが、江戸市民の生活は基本的に従来通りでした。ただ、得意先であった武士達がいなくなったことで、少なくない商人や職人達が江戸を去ったことは事実です。

江戸幕府と同じに、巨額の財政赤字があっても、国民一人ひとりにとっては、それ自体は危機ではないということでしょうか?さらには、財政赤字などが原因で政府が崩壊しても、ごく普通の国民には何の影響もないのだと言っているようにも聞こえますが。

重要なのは、巨額の財政赤字のリスクを負っているのは、納税者としての一人ひとりの国民ではなくて、国債を引き受けている金融機関と国債所有者としての国民であるという点です。
そして、将来万一、国債が償還できなくなったときに困るのは、国債を所有している企業なり個人だけだと言うことなのです。
大手銀行など、その巨額な国債を引き受けている企業は、その貸金が返済されなければ、倒産することは確実です。その利払いが滞っただけでも、壊滅的な打撃を受けるはずです。
しかし、国や大手銀行が倒産したからといって、一人ひとりの国民が直接困るわけではありません。国民は国の連帯保証人ではありません。国債が償還できなくなったからといって、代わって大手銀行に国債を償還する義務などないからです。
ただ、国債を所有している国民が相当数いると話はややこしいですね。貯蓄の多くを国債で所有している国民は、政府の瓦解により生活の基盤を失う可能性があります。当然、現政府の倒産を回避する側、つまり保守勢力を形成するでしょうね。

国債を所有しない国民には、政府の瓦解は何の影響も与えないのでしょうか。

国民は、巨額の借金をして「倒産」した政府など見放して、新たに成立する政府を支持しさえすれば良いのです。借金をしたのは「国」なのであり、甲斐性なしの政府など心配する必要などないのですから。
例えれば、借金ばかりして家庭を省みない甲斐性なしの亭主を放り出すようなものです。離婚して縁を切らなければ、家庭そのものが崩壊してしまうのですから。

つまり国債を大量に購入するのは、亭主の借金の連帯保証人になっているようなものなのですね。(笑)
でも、政府とともに国債を大量に所有している日本の主要産業が崩壊したら、やはり困りませんか?

そうですね。心配なのは、日本経済の根幹とも言うべき大銀行が軒並み倒産することによる、大手企業などの連鎖倒産、そして日本経済の崩壊です。
ご安心ください。明治維新のときにも簡単に触れましたが、この点についても、あまり心配する必要がないことを歴史は証明しています。
優良な日本経済の崩壊を、国際社会は静観など決してしませんし、政権交代による混乱はごく早期に解消されることはほぼ確実です。
現在の政治体制に個人的に深く依存しているような、ごく一部の国民以外にとって、政府の瓦解は、意外なほど無縁なのです。
政府が後退しても、日常生活は続きます。政治とは、実は生活にほとんど何の影響も及ぼさない「細事」にしか過ぎないのです。

その自信は、なにか根拠があるのでしょうか?

歴史を学ぶのではなく、歴史に学ぶ。最近、心がけていることです。
日本では、明治維新そして第二次世界大戦の敗戦の際に、そのようなことが起きました。年配の方や歴史好きな方ならお分かりのように、一時的な混乱はありましたが、ごく普通の国民の生活には、基本的に何の変化もありませんでした。
半世紀前はともかく現在はそうではない、との反論もありそうです。
でも、戦後世界を二分した社会主義国家の世紀末の相次ぐ崩壊は、状況が今も何ら変わっていないことを明らかにしました。
政府どころか国家そのものが政治的・経済的に崩壊し消滅しても、国民であった人々は決して消滅などしません。日々の生活を成り立たせるための最大限の努力を一人ひとりがすることで、生活は一日も欠かす事なく続きます。
まず人がいて、そして国家があるのです。決して逆ではありません。
政府すなわち政治体制とは、政治理論上はともかくとして、現実には国民生活とはほとんど関連していないある種の「虚構の存在」です。それに比して、人々の日々の生活は常に厳然としてそこにある存在なのです。
その点だけから考えても、「国家財政が危機的状況だ。国民たるもの責任を持って赤字を解消する義務がある。」と言わんばかりの財務省の説明が詭弁であることは明らかです。

政府の崩壊に際して、我々はどう対応すればよいでしょう?

全世界が一斉に崩壊しない限り、普遍的価値のある資産を持っていることは重要です。ちなみに、華僑やユダヤ人が信頼する資産は貴金属です。
それさえあれば、日本に新しい政府が誕生し経済が再生するまでの間、どこかの外国に滞在して普通の生活を続けることが出来るのですから。
もちろん、銀行貯金や日本国発行の紙幣、国内の不動産などは問題外です。政府の崩壊と同時になんの価値もなくなってしまうと思ってください。

ずいぶんと極端な意見ですね。(笑)
貯金をおろして、金や宝石を買い込んで身につけることにしましょうか。(笑)
献策十講でも指摘されていましたが、真面目で愚直な一般国民は我がことのように財政赤字を心配しています。そんな風に「目からウロコ」を剥がしてしまうと、税制議論自体の意味がなくなってしまいますね。

まさにそのことに気がついてほしいですね。国は「支配者」で国民は「被支配者」であるという古代以来の基本構造は、21世紀の今でも変わっていないということです。
国とは、国民から「より多くを搾り取る」ことを考える存在なのです。その概念は、歴史的に変化してきました。今日では、税とは、その政府から国民が受ける利益の対価であると理解することが一般的でしょう。
日本国民は、税金とは何なのかとの本質に留意しながら、税制を考える必要があるのです。

ますます税制改革から離れていますね。(笑)そろそろ、税制のあり方に話題を変えたいのですが?

あと少しだけお付き合いください。
いずれ別稿でじっくりとお話ししたいことですが、ここまで語った以上、政府と国民の関係についてこれだけはぜひ言っておきたい!
国民から税金が取れなければ、誰が困るのか? 困るのは、政府の役人・国会の議員・政府に依存している企業なのです。これらが、相互に関係しながら「利益共同体」を作っているのです。
国民から税金が取れなければ、政府は瓦解します。政府が瓦解すれば、大企業も倒産する。もちろん、官僚も議員も失業です。良い国家が、国民の利益を増大させるためのシステムだとすると、国民を搾取することで成立するのが悪い国家だと言えるでしょう。
日本がどちらであるかは、ひとまず置いておきましょう、この際。
国家財政が危機的状況だと、声高に叫ぶ官僚は、どちらの国家にいるのか?
なぜ巨額の財政赤字が生まれたのか?国民一人ひとりが、よく考えてみるべきです。
もし、それが自分の親や祖父母が自分限りの裕福な生活のために、将来のことなど考えずに無責任にした借金であるなら、子孫である我々はその弁済に責任がないとは言えません。
でも、その借金が、企業や議員そして官僚が自ら豊かになるために浪費されたのなら、国民は「債務者」ではなく「被害者」です。たとえ、その政府が国民主権の名の下に存在していたとしても、国民自身が政府の監視を怠った結果であるとしても、国民にその借金を返済する義務などないのです。
つまり、政府と国民は一心同体ではないと言うことです。
政府と国民の目的や利害は必ずしも一致しません。否、むしろ一致しないことが自然なのです。
近代的政治制度では、それを一致させるべく選挙など様々な仕組みを作り上げてきましたが、それは未だ到達することがない崇高の課題のままです。

時に政府は国民に「命」の提供までも求めます。国民一人ひとりの幸福を追求するシステムである政府=国家が、その幸福を全否定する「死」を求める矛盾。
それこそ、政府と国民は別の存在だという最大の証明でしょう。
明治維新によって成立した日本初の西欧型政府はそんな国家でした。その国民の「命」を要求しつづけた国家は、太平洋戦争の敗戦により「消滅」しました。
義務教育の力によって、国民と国家とは一心同体だとの「共同幻想」を抱かせることに成功した希有な明治国家。
今も日本国民は現に存在しているという事実が、その政治原理が「幻想=虚構」であったことの、なによりの証明です。
国民に「命=死」の提供を求めるような国など、国民のだれも欲していないことだけは明らかです。
安倍首相の言う「美しい国」とはなんなのでしょう?
その理念は全く不明確なままです。
安倍首相は、自らの言葉で直接国民に語る努力をしません。その必要さえ感じていないように感じられます。
為政者たるもの、国民に自らが何をしようとしているのかを明らかにすることの責任を知らなければなりません。
そんな当たり前のことが解らなくなっている日本の政治家が心配です。

(暫し沈黙)

次回は、いよいよ税制改革の話です。ご期待ください。

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2007/02/18

BraveBook:奥田英朗「イン・ザ・プール」

イン・ザ・プール

 
とても面白いとの評判の奥田英朗「イン・ザ・プール」を読んだ。
なるほどである。
キャラクタ強烈な精神医のもとを訪れる「普通の」精神病者達。
噛み合うような合わないような会話の妙。
狭い診察室に向かいあう二人。

何といっても伊良部医師の設定が凄い。
オタク系Aボーイの中年医師。
あの異才の博物学者荒俣宏のような。
あるいはドランクドラゴンの塚地のような。
愛車は黄緑色のポルシェだが、少しも爽やかでもかっこ良くもない。
アキバ系全盛の日本。ほんの少しの未来、こんな中年が溢れる予感も。

たまたま暇な一日があって。
といってどこにも出かけないような日に。
ぼんやりと読むのに最適な一冊に違いない。

 

イン・ザ・プール イン・ザ・プール

著者:奥田 英朗
販売元:文藝春秋
Amazon.co.jpで詳細を確認する

まだ見たことはないが、すでに映画化もされている。
肝心の伊良部医師の設定がだいぶ異なるようだが、
それはそれで評価が高いようだ。
本当に暇な一日を見つけて、ぜひ見てみようと思う。

イン・ザ・プール イン・ザ・プール

販売元:ポニーキャニオン
発売日:2005/10/19
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 

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2007/02/12

政策対話編:続続・税制改革について

もう3回目です。そろそろ本題の抜本的な税制見直し策など語っていきたいところですね。

どうも話が長くていけませんね。読者の方の「ええかげんにせえよ。」とのつっこみが聞こえてくるようです。
なんとか今回で「さわり」だけでも頑張りたいと。

え!(絶句)
まだ「さわり」ですか。まだ現在の税制について語り足りないことがありますか?

税制改革案そのものについては、もういいです。(笑)
語り足りないなと思うのは「労働者」の変化についてです。前回、労働者が多様化したことを指摘しましたが、実は保守化していることも重要なのです。

55年体制では「企業=保守=自民党、労働者=革新=社会党」という構図が前提としてあったように思われますが、労働者が保守化しているのですか? 
つまり、労働者が自民党支持層になっているということでしょうか?

全ての労働者というわけではありません。
前回お話ししたとおり、労働者は多様化していて利害が異なる複数の集団に分裂しています。保守化して自民党の支持層になりつつあるのは、非常に大きな集団である「団塊世代」です。
55年体制で正に標準的労働者そのものであった「団塊世代」が、小泉改革によって利益を得る集団側なのです。

団塊世代は、昭和20年代前半生まれの人達ですね。
この先10年ほどで「労働者」から退職して「非労働者」になります。年金生活に入ることによって保守化するということでしょうか?

それもありますが「格差社会」を是認する新自由主義的改革において、「勝ち組」側に位置しているということがあります。
団塊世代の職業生活のほとんどは、戦後高度成長とほぼ一致します。その多くは、終身雇用・年功序列制度の最大の受益者と言って良いでしょう。
バブル景気の時期に、その多くは管理職から経営陣に到達しており、その後の不況によっても解雇や賃金引き下げの影響が比較的の少なかった世代でした。
高度成長期に就職した団塊世代は、地方から大都市圏に移住し定住した世代です。住宅ローンで購入した大都市周辺のマイホームは、その後の賃金の急激な上昇とインフレによるローンの目減りによって、ほとんどが繰り上げ返済によってローンも完済済みのはずです。家は、大多数の団塊世代にとって今や貴重で高額な資産となっているのです。
土地・家屋という資産があり、貯蓄もそこそこある。更には退職に伴う退職金もある。「格差社会」において、明らかに恵まれた労働者が「団塊の世代」なのです。
「勝ち組」労働者というと、六本木ヒルズあたりのIT企業創業者や幹部などがイメージされます。彼らは言ってみれば「ごく少数」の「大勝ち組」であって、団塊世代は「非常に多数」の「小勝ち組」なのです。

団塊世代が小泉改革の受益者であることについて、もう少し詳しく教えてください。

人口ピラミットを見ればわかるように、団塊世代の総人口に占める割合は非常に大きいものです。その大半は高度成長を支えた企業戦士とその妻であって、その多くはリストラされることもなく、まもなく定年退職を迎えます。
東京近郊の標準的な団塊世代想定してみましょう。
60歳の夫と55歳の妻、子供2人は大学を卒業して基本的には独立しています。家は、柏か春日部あたりの新興住宅街の一戸建てか最近買い換えたばかりの東京近辺のタワーマンションです。住宅ローンは完済していて、貯蓄は1000万円を下回る程度、退職金が同額程度予想されると言ったところでしょうか。
このような世帯にとって、小泉政権の構造改革・税制改正は大きなメリットがありました。
まず、所得税の累進緩和。当時1000万円以上の年収を得ていたはずの団塊世帯にはかなり大幅な減税となりました。小泉改革以前の累進課税は最高税率は70%で、さすがにそこまではいきませんが、1000万円を超える給与所得の税率は現在の38%をはるかに超えていました。
譲渡課税緩和と住宅ローン控除が実施され、すでに建て替え時期にあったマイホームを転売しても、買い換えしても、さらに税金が減額されたのです。
規制緩和による金融商品の多様化もメリットがありました。従来は預貯金とするしかなかった比較的小口の余裕資金をかなりの有利に運用できましたし、投資減税が行われたことで、一層実質利回りを良くすることができました。
更に相続税・贈与税は引き下げられたことも見逃せません。社会主義的傾向の強かった従来の税制においては、世代間で資産を継承することはなかなか困難でした。特に遺産相続時に課税される相続税は重く、3代で資産はなくなると言われていました。それが、小泉改革によって、あきれるほど軽減され、普通の会社員が生涯に蓄積できる程度の資産であれば、今や相続税の対象になることはまずありません。そのメリットは今後団塊世代が完全に享受することになります。公益より家族愛を重視する団塊世代にとって、自らの財産を子供に渡せるという満足度は極めて大きいはずです。
このように、従来の税制によっても恩恵を受け、小泉改革によっても恩恵を受けている団塊世代は、今の状況に至って満足しており、何の変革も求めるはずがありません。
それを、ここで「保守化」と言っています。

そう考えると年金制度改革でも、まもなく受給者になる団塊世代は得をしていますね。

年金財政の危機とは、団塊世代が年金受給者になることによって生じていると言って間違いはありません。団塊世代より上の世代は、年金制度の不備や太平洋戦争による死亡などによって、極端に年金受給者数も少なく金額も小さくなっています。団塊世代が上の世代のために負担した年金は、団塊世代の数の多さもあって「ごく僅か」なのです。
一方で、団塊世代が現役世代であった時期に年金制度が充実したため、年金掛け金に対して大きな給付を得ることができます。
本来は積立型長期保険として制度設計された日本の年金制度ですが、団塊世代は「払った金額より受け取る金額が多い」唯一の世代といえるでしょう。
今回の年金財政の危機に際しても「受け取り得」のある団塊世代の給付額は引き下げが見送らました。将来にむけ段階的に掛け金が全ての労働者で引き上げられますが、受取額が減額されるのは今後受給決定される若い層だけです。しかも、引き下げ額は当面はほとんどありません。その結果、団塊世代はほぼ期待したとおりの年金を生涯受け取ることが約束されているわけです。
このように、とても得をしている団塊世代を「逃げ切り世代」と呼ぶのは、非常に的確といえるでしょう。

なぜ、そのような「逃げ切り」が黙認されたのでしょうか?

一つは、小泉改革を主導した竹中大臣のグループが、人数の多い団塊世代を意図的に優遇して、改革賛成派への取り込みを図ったと考えられます。税制改革にしても、年金改革にしても、団塊世代が自分自身に関して損得勘定する限りでは、得はあっても損はなかったので、小泉改革を積極的ではなくても消極的に支持してきたのは明らかです。
小泉政権の高い国民の支持率は、決して雰囲気や感覚的なものではなく、団塊世代の損得勘定の結果のものと言えるでしょう。
もう一つは、小泉改革にどちらかと言えば批判的であった官僚群が、小泉政権後の方針再転換をにらんで政策実施の先送りを図った結果といえるでしょう。年金制度改革が、既年金受給者の年金引き下げなどに手を付けず、非常に長い期間で段階的に逆ザヤ解消を図るとしたことなどは、その良い例でしょう。
破綻することが確実な国民年金制度を、現時点で一旦「清算」する選択もあったはずです。現在の加入者が払い込んだ掛金に応じて、一時金を配分して清算してしまい、新たな年金制度を創設しても良かったのです。
つまり、小泉改革が意図したものと、官僚の抵抗で意図せず実現したものが、両方とも団塊世代に有利に働いたのだと思います。

一昔前は一つの集団であった「労働者」が多様化し、かなりの割合を占める団塊世代が保守化したとなると、潜在的には反保守の「労働者」を再び団結させ政治的影響力のある集団にすることは難しいですね。

野党の低調ぶりの本質的な原因はここにあると言ってよいでしょう。
連合など労働団体は、基本的には今も野党の有力な支持団体ですが、その要求は大企業の正社員など「労働者」の一部だけの要求でしかありません。
パート・アルバイトはもちろん、派遣労働者やニートなどの要望や不満などは、既存の労働組合自身が取り込みに失敗しており、場合によっては矛盾するものでさえあります。
例えば、連合が合理化反対や賃上げなどを要求することで、若年者の就業機会が奪われたり、派遣労働者や下請企業の労働者の労働強化が生じたりするわけです。
労働者を再び団結させるためには、懐の深い理念と有能なリーダーが必要でしょう。

イギリスのブレア政権は労働党ですが?

ブレア政権は、サッチャーによる新自由主義的経済改革により、壊滅的なダメージを受けた労働組合そして労働運動を見事に立て直しました。その意味で、日本における労働者層の再統一を考える際の一つのモデルと言えるでしょう。
ブレア首相の個人的魅力にも助けられましたが、ブレア党首により労働党は理念から生まれ変わりました。従来の「企業=資本家と労働者との対立」すなわち階級闘争イデオロギーの束縛から抜け出しました。自由主義経済体制で、より豊かになる労働者像、その具体的仕組みと道筋を明確に示したことで、労働者全般の支持を得ることに成功しました。
その結果、ブレア労働党政権が成立しても、サッチャー改革以前の福祉国家的政策に回帰することなく、新自由主義的経済改革は若干の軌道修正をしつつ継続されました。
ブレア政権の成功は、基本的にサッチャー保守政権の改革の結果と考えられます。その上で、労働者の利益を代表する政党として、経済的成功の果実を、より多く労働者側に分配することに成功したわけです。

日本で政権交代を真剣に考えるなら、野党は福祉国家的政策=社会主義的政策に回帰するのではなく、企業側に偏りすぎた改革の果実を、労働者に再分配することを目指す必要があるということですか?

ブレア政権の成功からは、そのような教訓を学ぶことができます。
現在、民主党が掲げる「格差社会の解消」が広く労働者に支持されている実感がありません。そのことは、民主党自身も気がついているようです。今夏の参議院選に向けた民主党の戦略は、この方向に大胆に転換されるべきだと思います。
その最大の理由は、すでに述べたような団塊世代の保守化を原因とするものでしょう。格差解消が損になる労働者が少なくないことに早く気づかなければなりません。
しかし、格差拡大の主たる被害者である若年層にも支持されているわけでもないことは、更に重要です。それは、政治的関心が低いなどという単純なものではなく、その格差解消策として提示されている内容にあると考えられます。
民主党が示す格差解消策のほとんどは、福祉国家的政策=社会主義的政策への回帰に過ぎません。弱者に対する補助金や助成金の交付・税金の控除拡大などです。
そのツケが最終的に増税となって自らに返ってくることを、多くの国民は今や知っているのです。民主党の政策を「単なるバラまき政策に過ぎない」と評するのは、多くの国民が大いに納得するところです。

野党が、新たに労働者勢力を再結集して、その有力な支持母体とするためには、労働者すべてが利益を受けることができる新たな枠組みと具体的な政策を提示しなければならないですね。

実に懐が深い理念が必要です。相互に矛盾する多様な労働者の要求を全て飲み込み、全労働者の期待に応える政策ビジョンを提示しなければいけません。
重要なことは、小泉改革は基本的に成功したのだということを理解することにあります。ポイントは、基本路線はそのままに。そして、企業側に偏在している「成功の果実」を国民=労働者に配分させることにあります。
標語風に言えば「豊かな労働者はより豊かに、貧しい労働者には家とパンを、それを行うのは国家の義務だ」こんな感じです。
幸いなことに、日本は世界経済における成功者です。国際収支は常に黒字、貿易を通じて世界の「富」が日本に流れ込んでいるわけです。
その富は、本来は国・国民・企業に公平に分配されるべきもののはずです。ところが、現在はその「富」が企業にのみ蓄積され、国家財政にも、国民の財布にも十分に分配されているとは言えません。
その「富」を、きちんと国そして「労働者=国民」に再分配すれば、財政赤字も労働者の格差も、そして不満も消滅するわけです。
「企業とは利益を生み出すことを自己目的化するものだ」という企業の本質を再認識しなければなりません。
企業を、国家と国民に奉仕させるべきです。それでは社会主義になってしまいますが。(笑)そこまで極端ではなくても、企業と国民、そして国家は「共存共栄」の関係を築けるはずです。この三者の関係は「ゼロサム」ではありません。三者が協力することで、三者ともがより豊かになることが理論的には可能なはずなのです。
その具体的な方法と道筋を提示することこそが、野党が全労働者を味方にするための唯一の「切り札」だと考えています。

野党の現状を考えると、なかなか厳しいものがありますね。
で、いよいよ本題の理想の税制を語るところまできたようですが。

ようやくですね。現在の状況の問題点の全体像がほぼ整理できてきた感じがします。そろそろ望ましい税制について語っていきたいと思います。

すでに随分と長くなっていますので、残念ですが続きは次回ということで。

なんでやねん!!

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2007/02/06

政策対話編:続・税制改革について

税制改革の2回目です。さっさといきましょう。
前回は、小泉改革がここにきて変化してきたところまで話しました。小泉政権での税制改革は、基本的には新自由主義的考え方で行われてきたように考えられていますが、それが変化しているということでしょうか?

積極的な意味で、変化しているのではありません。むしろ、小泉改革以前の「社会主義的」な税制が復活していると言えるでしょう。
新自由主義では、財政の役割を基本的に小さくすべきと考えます。財政支出は極力小さく、従って税負担も軽くすることが基本になります。
一方で、戦後日本が一貫して志向してきた「社会主義的」福祉国家では、財政政策を重視し、税制でも累進課税などによって社会的不公平の解消や弱者救済を図る傾向が顕著です。その結果として、税負担も全体的に多くなるわけです。
ここ数年の企業減税・個人増税の税制改革の方向は、小泉改革での新自由主義的税制改革が継続されるのと同時に、旧来の「弱者救済」的税制優遇制度のうち、政治的影響力を強く持つ企業に対するものだけが復活した結果と言えるでしょう。

企業と国民個人を区分して考えて、企業=法人に対する弱者救済だけが復活しているということですか?

そうです。法人については、新自由主義的企業優遇と社会主義的企業保護が同時に実施されようとしています。
小泉改革における法人減税では、創業支援・投資減税・事業革新など競争力のある優良企業に対する税制面での優遇が本格的に行われました。一方で、不況時には必ず行われてきた、経営不振の企業に対する救済的な税制面での支援は大幅に縮小され、結果として戦後最大規模の企業倒産が「黙認」され続けました。言い方を変えれば新自由主義的経済政策で「負け組」企業は、計画的に消滅されられてきたわけです。
ところが、ここにきて、最近の景気回復基調に乗り切れない構造不況的な企業に対しての、税制優遇・助成が一斉に復活しつつあります。

その内容はどのようなものでしょうか?

「少子高齢化対策」「フリーター・ニート対策」「再チャレンジ政策」などの形を取りながら、企業に対する雇用助成金などの形での財政支援が強化されつつあります。税制においては、設備廃棄などの税制面での優遇措置の拡大が図られていますが、それは戦後不況期に必ず実施されてきたものです。
なかでも最も注目すべきものは、産業用設備機械全額の償却を認める制度変更でしょう。

具体的にはどのように変更されるのでしょうか?

減価償却期間が短縮され、しかも全額が償却されます。つまり、償却期間が経過すると実際には機械設備が稼働していても固定資産税が課税されなくなるのです。
あまり注目されていませんが、小泉改革以前でさえ行われたことのない、至って重大な制度変更なのです。それは、すべての企業に対する税制面での大規模な企業助成に他なりません。
現在は、企業が新規に設備を購入をしたり更新したりした場合、諸外国に比較して相対的に長い期間で税法上の償却が行われます。しかも、設備を実際に廃棄するまでの間ずっと5%が税法上は残存することとされ、固定資産税の課税対象となります。
今回の改正では、償却期間を短縮しただけでなく、全額が償却するように変更されました。

それが、どのように企業の減税となるのですか?

償却期間を短縮すると、1年あたりに企業が「経費」として売上げから控除する金額が増えます。それは、企業の新規設備投資や更新を促進する効果があり、基本的には小泉改革と同じ方向性を持つ「競争力のある企業をより強く」するものです。売上げから、より多くを経費として除くことができるわけですから、「勝ち組」企業にとっての法人税等の減税効果が生まれます。

一方、現在5%が残存する設備を全額を償却できるようにすると、「負け組」企業を保護する効果が生まれます。
企業が負担する税金は、利益に対するものとストックに対するものに大きくは区分されます。「負け組」企業は、赤字企業ですのでストックのみに課税されているといえるでしょう。
その最大のものが、固定資産税なのです。固定資産税は、企業の土地や建物のほか、設備にも課税されます。設備の全額償却を認めると、ほぼ全ての企業にとって減税となりますが、構造不況業種の大半を占める産業機械を多く必要とする製造業系企業にとって、より多くの減税効果を生み出すことになるわけです。

固定資産税が少なくなることで、どうなるのでしょう?

時代の変化に取り残された製造業の一企業を例にとりましょう。
外国との競争に敗れて売上げが低迷しているような企業にとって、新たな設備投資をすることはもちろん、旧式化した設備を廃棄することすら難しいことは少なくありません。
それでも、必要不可欠の経費、すなわち、従業員の給料や原材料の購入費・設備の維持費などを賄うだけの売上げがあれば、当面の倒産は回避できます。その大きな負担の一つが税金です。いわゆる赤字企業であれば法人税は非課税ですが、利益を生まなくなった老朽化した機械でも、廃棄しない限りは固定資産税は課税されるわけです。産業用設備・工作機械などは想像以上に高額なものです。わずか5%残存価格に対するものとはいえ、その固定資産税は想像以上に大きな金額です。それが全くなくなるわけですから、日々の運転資金にさえ苦労する「負け組」企業にとっての効果が絶大でしょう。
その結果、税負担ゆえに倒産をしたはずの中小零細企業が存続するケースが大幅に増加することになるのです。

経営不振の企業を助成することが悪いのでしょうか?

ここが解りにくいところですが、「負け組」企業は「市場から退出する」ことこそが、新自由主義的経済学では肝心とされるのです。一般の国民感情にも一致しないこともあって、この点については小泉改革進行時にも竹中大臣が意図的に説明を回避していたように思います。
新自由主義経済学では、公平な競争を通じて「勝ち組」を生み出すことで経済全体を豊かにするとします。それは、「負け組」を速やかに消滅させることと表裏一体なのです。
「負け組」企業が消滅することで、その資源や資金を「勝ち組」企業は格安で手に入れ「再利用」することができるのです。
競争力が低下した「負け組」企業が内部に抱え込んでいる貴重な資源を、より効率よく稼働させることが出来る「勝ち組」企業に転移させることで、経済全体が活性化するわけです。
具体的には、「負け組」企業が倒産することで、土地や事務所そして人が市場に放出されます。それを活力があり新規事業を積極的に展開している「勝ち組」企業が吸収していくわけです。遊休化していた工場が、国際競争力がある新たな工場としてフル稼働し、リストラされた社員は職業能力を身につけ直して、新興企業に今までに比して低賃金で再雇用されることが想定されているのです。

なるほど、「勝ち組」を増やす一方で「負け組」を救済すると、限りある「資源」の再利用が成立しないわけですね。

安部政権の「再チャレンジ政策」は、その意味でぎりぎりセーフですが、格差解消の為の「弱者救済」は新自由主義的発想とは矛盾していますね。

失業を防止するとか企業倒産を回避するとかの税制や施策を行うと、伸びゆく産業が必要とする人材を含む資源が絶対的に不足してしまうわけです。
資源が不足すれば価格が上昇するのは経済学の基本です。価格の上昇は、競争力を低下させ事業拡大を阻害します。その影響は、総量が一定の土地や、供給にタイムラグがあるオフィス床などに典型的に現れます。新規企業が業務を拡張すれば、当然に土地やオフィスが手狭になり需要が拡大します。一方でリストラなどで遊休化した工場や社屋を有する赤字企業は倒産しないので、それらが市場に出回らないわけです。限られた土地と建物に需要が集中し、価格は高騰してしまいます。
新自由主義的経済政策が一貫して行われていれば、土地価格やオフィス賃料が高騰することはないでしょうが、現在のような中途半端な政策運営では再びプチバブル的な価格上昇が生じることが不可避でしょう。
すでに都内の土地価格などが上昇傾向ですが、新自由主義的経済政策のもう一つの側面である規制緩和も後退している印象があります。規制緩和が徹底していれば、土地高度利用などの民間の工夫によって供給総量が増加し、価格上昇は回避されるはずですので、この面でも政策の後退があるようです。

固定資産税は市町村税ですが、この点はどうでしょう。

地方自治・地方分権といいながら、地方税の基本が国の法律によって詳細に決定されていることは、今後の重要な検討課題です。
今回の改正案で明らかなように、国と市町村の利害は相反するわけですが、市町村がその決定に関与することは現行制度では不可能です。
そもそも、固定資産税を市町村の中心的税目としたのは戦後のシャープ勧告に基づくものですが、その理由は固定資産への課税が非常に安定したものであり、直接多くの公共サービスを安定的に供給する責務のある市町村の財源として相応しいとされたからです。
国の政策誘導・特に税制面での措置が、国税ではなく地方税で行われることは疑問ですね。国税は国が、地方税は県・市町村が、政策全体の位置づけを踏まえて独自に課税内容や控除制度を自らの責任で決定するようにしなければいけません。

企業に対して新自由主義的優遇が継続される一方で、従来の弱者保護的税制が復活しているとの指摘ですが、「負け組」の国民個人への税制優遇は復活しないのでしょうか?

累進課税の緩和を筆頭に、課税最低限、住宅取得控除、配偶者控除、老年控除、障害者控除など、小泉政権の税制改革により弱者保護税制は大幅に縮小され、国民個人への課税は著しく平準化されました。この変更は、金持ち優遇以外のなにものでもない相続税の縮小や投資減税などに特徴づけられる新自由主義的改正に他なりません。

その反面で、新自由主義的税制の本質である、租税全体の減税はほとんど行われませんでしたが、それは財務省が主張する財政再建路線との兼ね合いによるものです。本来の新自由主義的な税制改革であれば、すべての人に対して額の大小はあっても必ず減税が行われます。もちろん、高額所得者にはより大きな減税、低額所得者はもともと税負担が小さいので、それなりの減税となるわけですが。
安倍政権による揺り戻しにおいて、国民個人特に経済的弱者への優遇税制が全く復活していないのは事実です。その最大の理由は何といっても健全野党の不在にあるでしょう。

それは最大野党の民主党が労働者の利益を代表していないという意味ですか?

いろいろと問題の多かった55体制でしたが、「企業利益を代表する自由民主党」と「労働者利益を代表する社会党」という対立軸が存在した意味は大きかったのだと思います。与党としても、選挙という「労働者の審判」がある以上、労働者の利益を代表する野党の意見を無視することは困難だったと言うことです。
高度成長期にあって、終身雇用制の正社員が「労働者」の一般的で圧倒的であった当時、労働組合を通じて社会党に集約されてくる要望を、自由民主党が政治的妥協を演出しながら自らの政策に取り込むことは日常でした。それ以上に、国の各省庁が予算編成過程の段階で、巧みに労働者の要望を政策内に取り込んでいたこともあります。税制については、大蔵省が労働者、特に低所得者を中心とする税制優遇制度を充実してきたと言えるでしょう。
そのようにして、野党が代表する労働者の利益を、与党・行政が内部に取り込んでしまうことで、与野党の対決は決定的なものとはならず、政権交代が起こらないという世界的にも不思議な状況が半世紀近く続くことになったわけです。

それは、日本独特の現象といって良いでしょうか?

英米が特に典型的ですが、企業=使用者と労働者が、それぞれの利益を代表する政党を持つのことが一般的です。

イギリスの保守党・アメリカの共和党が使用者、同じく労働党と民主党が労働者の利益を主に代表するわけです。

相反する利害を、それぞれの別の政党が代表するのが世界的には普通ですし、そもそも政党というものが、本質的に利害集団ですので、相反する利害を取り込むことは通常はありません。日本においても政党はそうでしたが、官僚が政党間の利害を調整するということは、どの政治学の教科書にもない特異な現象でしょうね。
代議制議会がある以上、選挙で政策を争い、政権交代によって政策を選択するのが「王道」です。そのようにして政策の誤りなどを軌道修正していくわけです。

現在は民主党が野党第一党なわけですが?

日本の55体制では、官僚達が労使の利害調整を行っていたわけですが、圧倒的多数の標準的な労働者の利益は社会党が代表していました。
現在の民主党は、ある意味では社会党が衣替えしたものなのですが、その政策は与党のそれに近いものになっています。与野党対立の中心は、使用者と労働者の対立という側面は少なくイデオロギー的対立も小さなものです。自由民主党との違いは、目指す国家像や方法論の違いのみと言っても良いでしょう。

民主党の唯一絶対の支持基盤は労働組合ではなく、労働組合も民主党を全面的に支持支援しているとはいえません。

それは労働者の利益を代表する政党がないということですか?

そうです。「労働者」と言う言葉で総括される利益団体を代表する政党はありません。むしろ従来の「労働者」という集団自体が消滅したといったほうが正確でしょう。
「年功序列終身雇用の企業に勤め、妻は専業主婦で子供は二人」という高度成長期の典型的な労働者は、今や少数派に過ぎません。社会党が代表した労働者の利益とは、そのような数多い典型的な労働者の利益でした。企業の大小はあっても、労働者の利益は概ね共通で、扶養者控除・住宅取得控除の充実、課税最低限の引き上げや累進税制によって利益を受ける人々が「労働者」だったのです。
バブル景気意向の経済環境の変化は、終身雇用を崩壊させ就業形態を多様化しました。労働者の所得格差・資産格差も拡大しています。
「勝ち組」労働者にとって、累進税制の緩和や投資減税は利益が大きく、従来の「労働者」や「負け組」労働者とは明らかに利害が対立するようになっているのです。さらには、未婚や子供のいない世帯も多くなって、扶養控除などにメリットを感じない労働者も急増しています。
そのように労働者が多様化し、相互に対立する場合さえあることから、いわゆる「労働者共通の利益」が集約不能となっています。政党から見れば、労働者が「魅力的な支持母体」でなくなってしまったともいえるでしょう。

労働組合の組織率も低下しつづけていますね。

その背景も同じですね。もともと日本の労働組合は戦後GHQの指導のもとに設立されたものが大半ですが、戦時中に組織されたある種の翼賛組織である社員会などが母体になったこともあって、企業別組合であることに特徴があります。
組合員も正社員が中心でしたから、年功序列・終身雇用制度が崩壊し、正社員が減少することで組合員数が減少し、組織そのものが弱体化しまいました。
従来の労働組合が重視したのが正社員の待遇改善であったこともあり、増加したパート労働者や契約社員・派遣社員などのニーズをうまく取り込めなかったこともあって、組合数・組織率とも低下しつづけています。この傾向は、同じく新自由主義的経済改革が行われた英米でも同じです。
税制改正が、法律改正の形で労使の利害を調整しつつ議会で決定されていく仕組みである以上、組織的に政治力を行使できる使用者=企業が有利なわけですね。

税制や政策に対する国民の不満は確実に増加している実感がありますが、なにか持って行き場がないイライラ感がありますね。

労働者全体の不満は確実に増大しているのですが、労働者毎に利害が異なる。さらには利害が対立しているわけです。
夫婦が共稼ぎか専業主婦かでも利害が異なる。子供がいるかどうかでも異なる。更には基本的な収入の大小によっても利害が一致しない。
例えば累進税制の強化は、年俸制で働くような「勝ち組」労働者は増税となるので反対、フリーターや契約社員などは賛成なわけです。配偶者控除は、専業主婦世帯は賛成ですが、共稼ぎや単身世帯は反対です。
利益が分散化する結果、どの集団も小さくなってしまい、しかも地域的にも分散化しているために、選挙区毎に当選者を決定していく選挙制度のもとでは、労働者の利益が集約できないわけです。では、比例区はどうかというと、全ての利益一元的に代表する政党自体がないため、投票が分散してしまうわけです。福祉政策は公明党・年金改革は共産党・雇用対策は自由民主党など、労働者の置かれた立場によって最良の政策が別の政党に代表されてしまうのです。
一方で、企業は業種や規模によって利害に多少の違いはあるものの、基本的には経営者団体によって総花的に利益を集約することができます。結果として「すべての企業に利益を、その負担は労働者が」という誠に都合のよい意見を、豊富な資金を背景に自由民主党=与党を通じてゴリ押しすることが可能な訳です。

まだまだ理想の税制まで話しは到達しませんが、随分と長くなってしまいましたね。続き次回ということでしょうか?

本当に長くなってしまいました。早く話しを進めたいのですが、この際一言触れておきたいことも思ったより多いものですね。
読者の皆様! もうしばらくおつきあいください。

「長ーい目でみてやってください。」(小松政夫風に)(笑)

と言う訳で、次回3回目を御期待ください。

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2007/02/01

政策対話編:税制改革について

第1回のテーマを税制改革とした理由はなんですか?

どの政策課題も、まだまだ論じられるべきことが多いのですが、税制改革については「個人増税・企業減税」という方向が既定方針化しつつあります。
ここで税調会長が交代したこともあって、十分な論議もないままに、財務省主導で詳細が決定されてしまう可能性が高くなっています。
今後の道州制議論なども考えると、その財政的裏付けである税制がどう改革されるべきかは、もっと広範な議論が必要と考えます。
特に最近の改革は、戦後日本の税制の骨格を基本から変えるような内容です。その抜本改革に対し国民的コンセンサスが形成されているのかが、まずは疑問です。
そんなことから、最初のテーマに選んでみました。

抜本的な改革であるなら、まずは税制の基本理念が重要ですね。

まさにそのとおりで、今回の税制改革案は既定の小泉改革路線を踏襲しているだけで、基本的な理念が今一つ明確ではありません。国民との対話にもう一つ積極的でなかった前政権の欠点ですね。
はっきりしているのは、企業減税を一層行い日本経済の国際競争力を強化すること。その不足分を個人所得税などの増税で賄うこと。所得税の累進構造を更に緩和して低所得者からより多くの税金を徴収すること。そして、暗黙の了解として消費税を相当程度増税して累積した財政赤字を解消することなどがあります。
その思想は、80年代のアメリカでマネタリスト経済学者が主唱して「レーガノミックス」と称された一連の経済改革と基本的には同一でしょう。

「レーガノミックス」とはどのような考え方で税制ではどんな政策が実行されたものですか?

従来の平等主義を基本原則とする税制体系から、強者優遇による経済振興と波及効果を重視する考え方です。
その根本思想は「経済的強者の活力を促進し、国際経済における優位を確立することで、富を国内に蓄積する。豊かな経済活動が税収を増加させ、雇用を通じてその富は広く国民一般にも波及する。」ざっと言えばそんな考え方です。
税制について具体的に行われたのは、最高所得税率の大幅な引き下げ・累進構造の緩和・控除制度などの廃止による税構造の簡素化、そして新規投資や創業などに対する優遇税制などでしょうか。
それ以前のアメリカは、ニューディール政策以来の福祉国家志向が強くて、税制においても高額所得者から多くの税金を徴収して、財政を通じて経済弱者へ再配分するとの考え方が主流でした。
米民主党が伝統的にそのような政策を支持しているのですが、戦後は共和党・民主党とも程度の差はあっても、財政政策による平等社会の実現を志向していましたね。
別名「大きな政府論」とも言われますが、アメリカ経済の弱体化によって、貿易収支が悪化し、財政赤字が巨大化する原因ともなりました。

レーガン政権が発足して「強いアメリカ」政策が展開されましたが、軍事的な意味合いだけではなかったのですね。

軍事的にはタカ派で、経済的には「小さな政府論」でした。規制を緩和して、企業や個人の自由な活動と競争を促進するのが一番との考え方です。連邦政府や州政府の積極的な財政政策はもちろん、過剰な規制も有害との認識です。税負担は最小に、そして全ての人々や企業が公平に負担するとの考え方です。

「レーガノミックス」の結果、IT産業がアメリカにおいて急速に発展しクリントン時代に花開いたということですね。

共和党のレーガン政権が実施した自由主義的経済改革が、本来は社会主義的な傾向が強く平等主義的傾向が強い民主党のクリントン政権で全盛を迎えたのは何とも皮肉としか言えません。まさにクリントン政権の8年間は「レーガノミックスの収穫期」そのものだったと言えるでしょう。
レーガン政権時代の斜陽化したアメリカ経済。当時「双子の赤字」「三つ子の赤字」といわれた危機的状況は見事に解消し、クリントン政権はいたって健全な経済運営を行うことができました。

「レーガノミックス」の特徴を一言でいうとどうなりますか?

特に経済システムで顕著ですが「規制を撤廃し、健全な競争を促進し、強きものが生き残り、弱きものは去る」。今、日本で問題視されている格差社会を全面的に肯定する思想です。
強きものの豊かさが、結果として社会すべてを豊かにするというある種、資本主義の原点に帰ったようなところがあります。別名で新自由主義とも言われましたね。
小泉政権下で竹中さんが主導した規制緩和は「レーガノミックス」の日本版と言えるでしょう。

さて本題の税制なのですが、税制の理念とはどんなものでしょう?

大前提として、税制の役割について大きく二つの違った理念があることが重要です。
一つは伝統的な考え方で、国家は真に必要で不可欠なことだけを行うべきであって小さくあるべきだとの考え方です。税金の負担は出来るだけ小さくあるべきであり、国家の構成員が公平に負担すべきであると主張されます。「税金」とは、その構成員が国家から受ける利便への対価に他なりません。よって、国家の構成員(個人・法人)は所得の大小に関わらず同額を負担することが理想とします。さすがに現実には難しいので、所得に比例して負担することとなります。1億円の所得でも100万円の所得でも税率は同一10%などです。それでも、高額所得者は100倍も税金を払っていると考えるのが自由主義者なのです。
もう一つは20世紀に一般的になった考え方で、福祉国家化の思想的根拠となったものです。社会主義国家の成立などの影響も大きいのですが、社会の不平等、特に富の偏在は個人の責任ではなく、社会構造の問題だと考えます。
国家はその解決に積極的役割を果たすべきだと、その支持者は考えます。具体的には高額所得者からは多くの税金を徴収し、国や公共団体の福祉政策=財政支出によって低所得者へ配分するのです。
税金は富の再配分の重要な手段で、極めて高い最高税率と累進課税が行われます。先ほどの例で言えば、1億円の所得には70%の税率が課せられ7000万円が税金として国家に徴収されます。一方で100万円の所得しかなければ税金は0円。むしろ生活保護など様々な給付が国家からなされることでしょう。
このように、明らかに異なる理念があって、両立しないことを理解しておかなければなりません。

なるほど、そうなのですね。二つの理念は根本から違うようですが、その違いが生じる最大の理由は何でしょうか?

この差違は、人々の貧富がなぜ生じるのかについての基本的認識の違いから生じるものです。
資本主義的思想においては、それは人の能力、主に努力の差により生じると考えます。富める者は成功者であり、尊敬すべき目標とすべき人物に他なりません。
富 は成功の証であり肯定すべきものなのです。もちろん、富める者が篤志家となり社会貢献をするこ とは道徳的に称賛すべきことです。アメリカの経済的成功者達は、病院や図書館、公共施設などを争うように寄附しています。でもそれが決して法的義務だとは考えません。ましてや、税金として徴収し国家によりそれらが建設されることが適当だとは決して考えないのです。
人や企業は存在することで国家から便益を受けます。それは富の大小とは基本的には関係がありません。従って、すべての人や企業は同じ額を負担するのが公平だと考えるのです。
社会主義的思想においては、特に貧困は本人の能力や努力で生じるのではなく、社会構造によって生じると考えます。貧困の主な原因は、富める者による搾取なの です。結果として、富める者は悪であり、過剰な富は国家により回収し、貧しい者に配分することこそが正義と考えるのです。従って税制は高度に累進的なものになり、所謂 「資本家」の資産に対する課税も懲罰的傾向が強くなります。共産社会を理想としつつも、資本主義国家において次善の策として税制と財政による富の再配分を 行うことが指向されるのです。

見方によれば、歴史的経過による違いとも言えるでしょうか?

そうですね。産業革命以降の資本主義隆盛期は自由主義国家論が一般的です。国家の役割は最小に。「夜警国家論」が一般的でした。その結果として、社会不安が生じるほど貧富の差が激しくなってしまったわけです。
そこに共産主義論・社会主義論が労働者階層に普及し、ロシアで革命が成功する。それに対応する形で、資本主義国家においても福祉政策が取り入れ、20世紀に福祉国家化が進行した。
簡単に言うとそんなところでしょうか。

19世紀と20世紀では、資本主義国でも国家理念が変化したと言うことですか?

20世紀型の福祉国家とは、富める者から国家が多くの税を徴収し、国などの財政を通じて貧しい者へ配分することを「善」とし肯定します。
一方で、19世紀型とも言うべき初期資本主義においては、国家は必要最小限のことしかしません。
財政・税は極力小さいことが「善」です。税は、すべての国民が公平に納めるべきもので、国家による所得の再配分を否定します。
アメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権以降、20世紀型福祉国家の再見直しが行われていると言うことができます。
見方によっては、19世紀型資本主義への「先祖帰り」とも言えるでしょう。

日本についても同様なのでしょうか?

明治維新以降、戦前までの日本は19世紀的自由主義的傾向が強い国でした。ただ、官僚主導で産業誘導が行われたりと若干欧米とは違った歴史を歩んでいます。特に、太平洋戦争前の国家総動員体制が整備される過程でむしろ主要産業が国家統制されるなど社会主義的傾向が極端に強まって、戦後まで影響していることは特徴的です。
戦後の日本はその意味で、スタート時点から社会主義的政策が実施しやすい経済構造となっていて、それを基盤として20世紀的福祉国家を徹底的に追求した国でした。
所得税は高度に累進的で最高税率は70%を超え、譲与税や相続税も極めて高い水準でした。総中流国家は税制と財政政策により意図的に実現されたと言って過言ではないでしょう。

その流れを踏まえると、小泉政権による税制改革とはどのようなものだったのですか?

派手な規制緩和路線の陰に隠れて目立たなかったのですが、小泉政権の期間に行われた税制改革は一貫して反福祉国家的でした。
高額所得者や資産家、企業に対する税金が巧みに引き下げられる一方で、中低所得者に対する実質税率は据え置き又は引き上げられています。さらに、それらに対する福祉的財政支出を切りつめることで、税制と財政を利用した所得再配分機能は徹底的に縮小されたと言って良いでしょう。
その意味で、小泉改革とは新自由主義的改革で、レーガン政権やサッチャー政権の改革と同一の考え方に基づくと言えるでしょう。

政権が変わって改革の方向に変化はあるのでしょうか?

小泉政権による税制改革の重大な方向転換は、未だに国民に、更には政治家にも十分理解されていないように思われます。
税収の総額そのものをまず縮小する。そのうえで、新自由主義「公平」を実現する改革がです。
格差拡大を前提としつつ「新たな自由主義国家としての豊かで活力ある日本」を築く。それが小泉改革の目標でした。
ところが、戦後半世紀続いた「平等な社会主義的福祉国家としての日本」を、税制と財政政策によって実現するのだとの認識が、国民や政治家の間では未だに一般的であるような印象があります。
例をあげれば、公平な競争の結果として倒産に瀕している中小企業があれば、政府保証による低利運転資金の融資を行うべきだとなる。それには、税金か国債発行が必要となるわけです。
そんなことはしない。倒産すべきは倒産させる。それが小泉改革の本質です。
能力が不足して失業する国民がいる。生活保護で最低限の生活の面倒は見るが、あとは自助努力で何とかしろ。それが小泉改革です。
それを「再チャレンジ政策」で救済すべきだとする。そのためには、税金によって施設を作り補助金を交付する必要がある。明らかに小泉改革と逆のベクトルを持っています。
全体の方向は一貫して同じで、小泉政権時代だけが別の理念で別の方向性を持っていたのだ言うほうが適当かもしれません。

小泉政権の改革は国民の広範な理解と支持を受けていたと、一般には言われていますが、そうではないと?

支持されていたことは事実ですが、理解されていたかは正直のところ疑問もあります。厳しい経済状況のなかで国民がある程度の負担と我慢が必要との共通理解はあったように思いますが、景気回復までのことと思っていたのではないでしょうか。
繰り返しになりますが、小泉改革すなわち新自由主義の考え方では、国家が国民の政策や貧富(格差)解消に積極的役割を果たすことはありません。「勝ち組」と「負け組」は自由な競争によって決定し、国家がそれに関与することは「悪」なのです。従って「負け組」を国家が救済することはありえないことなのです。「負け組」はただ消え去るのみ。それが嫌なら自助努力あるのみです。
ニートが増えた。子供が少ない。子育てが大変だ。と言っては、国家=政府の責任を追求し政策対応を求めるのは、小泉改革の本質を理解していないと言わざるを得ないでしょう。
小泉改革が目指していたのは、自由な競争を促進して「勝ち組」を造り出す。「勝ち組」が勝ち続け「負け組」を吸収することで、最終的に全体が豊かになることです。まさに、80年代「レーガノミックス」でアメリカが行い成功した改革と同じものなのです。

確かに企業の活力を高め、国際経済のなかで「勝ち組」にならなければ、最終的には国民も豊かにならないと言う考え方はもっともだと思うところもあります。だからと言って国民に増税して企業を減税すると言うのは、なんとなく納得がいかない気がしますが?

そうですね。本来、企業減税と個人増税は別問題です。財務省による悪意ある議論のすりかえと言っても良いでしょう。
「レーガノミックス」的競争促進とは、企業と個人の関係では基本的にありません。
具体的に言えば、「勝ち組企業」に対する優遇税制と累進課税緩和を行う。一方で「負け組企業」に対する延命治療的な優遇控除や補助金を削減する。それでも良いわけです。
「負け組企業」への補助金や控除を廃止することで、財政支出が削減され、当然その財源も不要となる。その余剰財源で「勝ち組企業」を応援すれば良いわけです。
それが、長く「福祉国家」をしてきた日本の官僚においては、自らの利権との関係もあって「負け組企業」を負けさせるわけにはいかない。と考えるわけです。
結果として、延命治療的な補助金は削減できない、ではどこから取るかとなると、利権に関係しない庶民からとなるわけです。

なるほど。いよいよ現在の税制改革の問題点の核心にせまってきたようですが、随分と長くなってしまいました。この続きは次回にしましょうか?

そうですね。なにぶんにも対談相手が自分自身と言うことで話が多少脱線しても非難されない(笑)。「対談」の暴走が止まらない(笑)

普通なら「それはどうですか?」と言われるような暴論でも納得されてしまうとか(笑)。

次回こそ、今議論すべき税制改革の問題点を話したいと思います。

よろしくお願いします。

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