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2007/07/29

07参院選:安倍総理は辞任せよ。

自由民主党の歴史的大敗が確実になった。

安倍総理は、党首としての責任をとり潔く辞任しなければならない。

この結果は参議院での敗北ではなく、安倍総理そしてその内閣への不信任にほかならない。

民主的な議論を軽視した強行採決の連続。
相次ぐ閣僚の不祥事。
リーダーとしての資質と能力の明らかな不足。

この結果を真摯に受け止められないなら、衆議院を解散すれば良い。
自民党は再び歴史的敗北をすることは間違いない。

安倍総理は辞任せよ。
敗軍の将、兵を語らずである。

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07参院選:あと1時間!

午後7時現在、投票したのは3人に1人。
何と前回とほとんど同じです。

まだ投票していない3人に2人の人達!

政治に関心はないのでしょうか?
「このままではいけない。」とか
「このままでいい。」とか

この先6年間も
今回わずか3人に1人が投票したことで選ばれた議員が「国民の代表」となってしまうことに疑問はないですか?

まだ間に合います。
投票しましょう。

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07参院選:投票に行こう!

いよいよ投票日です。
投票は義務ではなく、あくまで権利。

行使してこその権利。

数年に一度しかない貴重な権利行使をしましょう。

たった1票、されど1票。

投票にあたっては本ブログのバックナンバー記事もぜひご参考に。

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2007/07/28

07参院選:隠された争点「憲法改正」

年金記録問題がここまで大きくなるまで、安倍首相は憲法改正を参議院選挙の最大の争点とする考えだったようだ。
すなわち「戦後レジュームからの脱却」の象徴として「現行憲法の廃棄=自主憲法の制定」を前面に打ち出すことで、自由民主党結党以来の悲願の達成を願う「中道」から「右寄り」の国民の結集を図る戦略だったのだろう。

確かに自主憲法の制定を目標とする自由民主党が長期政権を継続するうちに、現行憲法の多くの条文は空文化し、今や自衛隊を合憲とする国民は半数を上回るとの調査さえある。

そのような国民総保守化の状況のなかで、あえて改憲を前面に押し出すことは、最大野党の民主党内部が「護憲」で一致できないことを考えると、選挙戦略としてなかなか秀逸なものと言うこともできる。

その戦略には前提がある。
まず内閣支持率が高いこと。
すなわち、安倍首相なら日本の閉塞状況を打破してくれるとの、小泉内閣初期の期待と同様の期待が高いことである。
改憲はその象徴であればよく、内容は選挙に大勝してからで良い、
そういう事である。

ところが、閣僚の相次ぐ不祥事と煮え切らない首相の態度、そして年金記録問題が原因で内閣支持率が急落した。
そうなると、そのような首相に国の一大事である改憲を白紙委任する国民などいるはずも無い。
従って憲法改正は選挙の争点からは消滅した。

しかし、改憲は今だ自由民主党の公約である。
ひとたび選挙に勝利すれば、たちまち憲法改正が国民に承認されたと称して、一気に与党の独走による憲法改正が行われることが危惧される。

憲法は、国の基本であり、他の公約と一括で「一政党」の意向ましてや「一政権」が改正を図るべき性質のものではない。
憲法を改正する必要があるのかを問う為には、まず現在の国政にいかなる重大な問題があるのか、その原因が憲法自身にあるのか、憲法の解釈運用にあるのか、もしくは憲法をないがしろにする現実の政治に問題があるのかを、民主的に討議し結論を出さなければならないのである。
そこで憲法を改正するのが適当であり、かつ憲法を改正する以外に方法がない場合こそ、憲法改正が国会で発議されるべきなのである。

日本の直面する問題とはなにか?
教育の荒廃。
それは憲法の条文の問題なのか? あるいは憲法の定める教育を実現していない政治の問題なのか?
戦争の放棄と軍備の不所有。
現実に半世紀以上続いている平和は憲法の条文が理由なのか?あるいは文理解釈上現行憲法と相容れない自衛隊の存在があったからなのか?
道徳の退廃。
権利を重んじ義務を軽んじた憲法の条文が問題なのか?では憲法に詳細に規程することで国民の道徳は向上するのか?ましてや憲法とはそのような目的で定められるものなのか。

どれをとっても一つ一つを丁寧に公平に幅広く民主的に議論し結論を出すべきものばかりである。
決して包括的に時の一政権・一内閣に白紙委任などすべきものではない。

安倍政権の憲法改正論議は幼稚で素朴ですらある。
この国のなにが問題であり、それをどうするべきであるかの明確なビジョン=提案が、まずなければならない。
憲法の条文を変えることで、現状が変わるわけではない。
どう変えるべきかの明確な国民的コンセンサスが先にあって、それが憲法の条文となるのである。

憲法は絶対王政時代の「国王の御触れ」ではないのである。
言い換えれば、民主国家における憲法とは、国が国民に命令するものではない。
主権者である国民が自らの共通の意志を将来に向け明文化し、国会・行政・司法のあり方を規定し、国民そして時の権力者の恣意的な権限行使を抑制するものである。

もし、憲法を改正したい、あるいは改正の必要があると時の権力者が考えるのであれば、まず行うべきことはなにか。
現行憲法下における具体的な問題点=課題を明示したうえで、広くそれを調査審議するための会議を設置することである。
有識者を中心に多様な利害関係を持つ国民各層を幅広く包含する委員が、客観的データと専門的知識により、その原因を探求することから始めなくてはならない。

その過程を通じて国民のコンセンサスが形成され、個々の問題の解決策が合意されるのである。
その結果として、憲法の特定の条文に原因があるなら、合意されたコンセンサスを法の専門家が新たな条文にして憲法の該当条文が改正されれば良いのである。

そのような民主国家における憲法の基本的意味され理解できない者に、憲法改正など行わせることはできない。(そう思うでしょ?)

近代国家としての日本は、これまで2つの憲法を持った。
一つは明治維新後相当期間の後に制定された大日本帝国憲法。
もう一つは、敗戦による占領下でその憲法を全面改正する形で制定された日本国憲法、すなわち現行憲法である。

この2つの全く異なる憲法には、意外にも共通する2つの特徴がある。

一つは、その短くない期間中に一回も部分改正すらされなかったこと。
それは憲法改正がいかに困難であるかということ、そして日本人は憲法条文の不備すら解釈でなんとかしてしまうと言う良く言えば「柔軟性」、悪く言えば「いい加減さ」があることを示している。

もう一つのより重要な共通点は、いずれもが広く国民的議論により誕生しなかったことである。

大日本帝国憲法は義務教育で習うとおり欽定憲法すなわち天皇が国民に相談などせず一方的に定めた憲法である。実際には、本来は憲法をも審議するべき帝国議会開設に先立って明治政府の要人が諸外国の憲法を調査して、その当時の平均水準の憲法をつくって、さっさと制定してしまったものである。
憲法制定は当時の状況下にあっても重要な政治課題であり、在野の政党や国民が多くの私案を作成して公表するなど、国民的議論の土壌はあった。
しかし、明治維新を成功させた明治政府は強権的一方的に憲法を定めて、以後一切憲法を議論する機会はなかったのである。これはその後の近代日本の民主主義の発展に決定的なダメージを与えた最初で最大の出来事だったと思う。
しかし、その皮肉な結果として、明治憲法は政党の党利党略に巻き込まれる事なく、一貫性のある体系化された構造を持つことができた。その条文相互は良く整合していて、様々な主張に妥協した形跡はない。

日本国憲法の制定は、さらに皮肉である。
太平洋戦争に敗戦し、その軍国主義的国家体制を解体し民主国家を構築するため、新憲法は必要とされた。
それにも関わらず明治憲法下に育った日本国民にもはや、それを抜本的に再構築する知識階層は不在であった。占領下、日本の学者・政治家・官僚が作成した憲法改正案が現存している。それは明治憲法を字句修正した程度の幼稚なものでしかない。
明治国家の教育システムが鋳型どおりの人材を育て、その人材が政府行政の中核占めることで、日本人は自由な発想ができなくなったと言わざるを得ない。
結果として、日本の民主化と国家構造の抜本的変革を意図した現行憲法は、GHQが英文で作成した原案に沿って日本人の手によって定められることになったのである。
占領下の特殊な状況化で現行憲法は誕生した。原案は限られた者のみが密室で作成した。そこには、やはり幅広い国民の議論が入る余地はなかった。
結果として、現行憲法も綺麗に整合した体系を持つ20世紀に制定された憲法のうちでも最も先端的な内容のものとなった。
憲法改正は国会で審議されたが、対案が提出されることもなく、大きな字句修正すらされることなく、実質的な議論がないまま政府案が承認され、公布された。それは歴史的事実である。

それをもって「占領下でアメリカに押し付けられた憲法」とか「日本人自らの手による自主憲法が必要」と主張するのは自由である。
しかし、当初政府当局者が作成した明治憲法そのままの天皇主権を肯定する改正憲法案が、より望ましいものであったとは到底思えない。

その制定経緯から現行憲法を全否定して明治憲法を基本に新憲法を論じるべきとの主張がある。
愚かなことである。
明治憲法による戦前の日本を理想化する主張がある。
愚かなことである。

明治憲法を生み出し、明治憲法が育てた大日本帝国は、多くの国民の命を犠牲にして消滅した愚かな国家システムだからである。

現行憲法によって出発した戦後日本が、ここまで繁栄し平和を維持した事実がある。
もし現在の日本社会に問題があり、その解決の手段として憲法の改正が必要であるなら、出発点は今でなければならない。
その解決方策は未来に実現すべき理想像にこそ求められなければならない。

憲法は未来の理想像の法による具体化なのである。

その準備がないまま憲法改正を語ることは愚かである以上に無責任である。

国家の将来像、理想像を示さず、ただ憲法改正のみを公約にする愚かな政党に投票するわけにはいかない。

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2007/07/26

07参院選:隠された争点「大増税」

「行財政改革」そして「徹底的な歳出削減」が予想通り頓挫した現在、消費税率の引き上げはもちろんあらゆる増税策が選挙後実施されることはほぼ確実です。
唯一、増税が凍結される可能性は、与党=自由民主党が徹底的に選挙に負けた場合だけだと断言できます。

安倍政権発足直後の税制論議を覚えているでしょうか?
小泉政権の企業優遇・勝ち組優遇税制を基本的に踏襲して、法人税などの税率削減、投資促進優遇税制の延長、そして個人所得税の大幅増税と消費税率の引き上げが具体的に示されていました。

その後、参議院選挙への影響が危惧された結果、具体的な検討も増税を示唆する発言も徹底的に避けてきた結果、税制論議は今回の選挙の争点から忘れられてしまったかのようです。

国民生活に決定的に影響するにも関わらず、日本において税制を変更操作することは、毎回のように至って技術的に処理されてしまいます。
一たび関連法案が提案されれば、実質的な討論さえ行われないまま、財政当局の法案がそのまま可決されるのが通例です。
野党の反対も形だけの「審議拒否」「採決欠席」ばかり。
確かに技術論に偏りがちな税議論ですが、与野党議員の不勉強は目にあまるものがあります。

例えば地方への税源委譲に伴う「所得税減額、住民税増額」ですが、財政当局の「増減同額で総額は変わらない」との説明が、まったくの嘘であることさえ、議員の誰として解っていませんでした。
更に財政当局は「税源委譲による分は同額であり、増税となったのは定率減税が廃止されたため」と補足説明しますが、まさにその分を含めた税負担の増減こそが国民が知りたいことだとわかっているだけに、意図した悪意を感じるのです。

しかも、この税源委譲のドサクサに紛れて住民税制の基本が変更されたのに気がついたでしょうか?
戦後一貫して高度の累進構造となっていた所得税の最高税率が極めて大幅に引き下げられる一方で課税最低額が引き下げられて、所得税の累進構造が緩和されたのが小泉政権での税制改革の最大の特徴ですが、安倍政権下では住民税の累進構造が「廃止」されてしまいました。
これまで、所得に応じて複数の税率があったものが、今回改正で一律10%となり1億円の所得があっても400万円の所得であっても税率が同じになりました。
ほとんど話題にもならなかった変更ですが、格差拡大を是認した小泉政権でも実現できなかった徹底した「平等主義」がまったく技術論として実行されてしまったのです。
その結果、税源委譲による所得税・住民税の配分変更は、高額所得者はトータルで減税、低所得者はトータルで増税となったのです。

その他にも、相続税の低減や事業譲渡に関する特例などによって、高所得者・資産家・事業主は減税に、ごく普通のサラリーマンなどは増税になっています。

これら全ては小泉=竹中ラインの「富の集中による企業活力増加政策=自由主義的小さな政府」方針に沿った改革に他なりません。
結果として、日本はバブル崩壊後の長期不況から脱出の手がかりを掴むことに成功したことは素直に評価しなければなりません。
しかし、一方で戦後日本が築き上げた社会主義的でさえある経済的平等社会が崩壊し、所得格差の拡大による社会不安そして福祉制度など社会システムさえもが崩壊しつつあることに、もっと注目しなければならないはずです。

この時点でなお、企業減税を通じて企業の投資意欲と事業革新を促進する必要があるのか?そのために不足する財源を個人所得税の増税や消費税の引き上げで賄うべきなのか?真剣に考えなければなりません。

自由経済を推進尊重するアメリカ共和党の税制改革は参考になるでしょう。
基本的に企業や個人の自由な経済活動を尊重し政府等による規制を最小化することが、米保守政党=共和党の基本政策ですが、その税制は微妙に日本と異なります。
累進構造の否定は同一で、企業に対する課税の引き下げも同一です。しかし、個人に対する課税も同様に「減税」それが真の自由主義的税制なのです。
法人も個人も減税し、不足する財源はどうするのか?
その答えは福祉政策を中心とする徹底した歳出削減なのです。
そして、税負担が軽減された企業と個人が活発に金儲けをし「国際的に勝ち組」になることで税収も伸びる。
それが、本当の自由主義的経済政策なのです。

日本はどうでしょう?
企業を減税して企業活力を高める。歳出を拡大し、元気のない企業に対しては補助金などを交付する。既得権益化した福祉支出は削減できない。歳出削減が不可能なので当然行政組織の削減もできない。公務員の削減や人件費も削減できない。
財政は危機的状況なので、相対的に余裕があり経済活性化にあまり役立たない中堅以下のサラリーマンは増税する。直接の増税感が薄い消費税は当然増税する。
これが、政府=与党が支持する財務省の税政策なのです。

ごく普通のサラリーマンの皆さん。これで良いのですか?納得できますか?

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2007/07/24

07参院選:隠された争点「共謀罪の新設」

多くの善良な国民にとって無縁のように思われる「共謀罪の新設」ですが、平和で自由な戦後日本社会の決定的に変えてしまう怖れがある危険な仕組みです。

「言論表現の自由」「思想信条の自由」は現行憲法で絶対的に保障されているにも関わらず、現実の政治社会での各種立法により多くの制限が設けられてきたのは周知のとおりです。
デモ行進を制限する公安条例、団体を規制する破壊活動防止法、テレビ放送等を制限する放送法などによって、憲法が保障した自由権の多くが規制されているのが現在の日本です。
そのような日本でも、個人が何かを考えたり話し合ったりすることは基本的に規制されていません。

共謀罪とは何か?
簡単に言えば、ある犯罪を「話し合うこと」を犯罪とするものです。
法案によれば3年以上の罪を2人以上が話し合うことが犯罪になります。

現行刑法では、話し合うことは犯罪ではありません。
例えば、ある人物を殺す方法を話し合っても、誰かを誘拐しようと話し合っても罪にはなりません。
その犯罪を実行しようとしたり、道具を揃えるなど準備をして、はじめて未遂罪に問われる仕組みとなっているのです。
もちろん話し合っている時点で罪として逮捕できれば、犯罪の予防に効果的であることは明らかです。
では、なぜ「話し合い=共謀」を罪としないのか?
それは犯罪予防の効果より、冤罪による弊害のほうが大きいことが歴史的に明らかになっているからに他ならないからなのです。

具体例をあげましょう。
犯罪に着手したり準備すれば「証拠=物証」が残ります。それは冤罪を防ぐためには重要です。
ところが「話し合い=共謀」にはその基本的性質ゆえに「物証」が残りません。証拠は「ある場所である人々が犯罪を相談していた」と言う証言だけなのです。
証言は不確かです。そして捏造は容易です。多くの無実の人々が、そんな証言だけで犯罪に問われ弾圧されてきたのが人類の歴史なのです。
その反省にたって、厳格な犯罪要件と裁判手続きが作られてきました。

古くは中世の魔女裁判、最近ではナチスドイツや軍国主義下の日本などで、為政者に反対する者を弾圧するため「証言による犯罪」が多用されたのです。

共謀罪が新設されても、何の犯罪を犯すつもりがなければ問題ないと多くの人々は考えるかもしれません。
しかし、現実には誰でもが共謀罪で逮捕される可能性があるのです。
その理由は、何を犯罪としどんな量刑とするかは為政者=政府=与党が時として恣意的に決めることが出来るからです。
犯罪とは殺人や傷害など明確なものばかりではありません。
例えば戦前の日本では、天皇の悪口を言えば不敬罪、天皇制国家や私有財産制を否定すれば治安維持法違反として重罰に処せられました。

もし、国会で多数を占める政党が「国歌を歌わないこと」や「神社に参拝しないこと」を3年以上の罪とする法律を作ったら(あまりに非現実的な例えですが)、国歌を歌わないことを話し合ったり、神社参拝をしないことを話し合うことは、共謀罪で罰せられることになってしまうのです。
より現実的な例では、国民年金の掛金やNHK受信料を支払わないことを話し合うことが共謀罪で罰せられるかもしれません。
つまり、時の政府の方針や決定に従わないことばかりか、従わないべきだと論じることだけでも犯罪になってしまうのが、共謀罪の真の危険性なのです。

しかも、共謀罪は政府や警察によって容易に捏造され冤罪をつくる危険性を本質的に持っています。
原発に反対する環境保護団体、ホワイトカラーエグゼンプションに反対する労働組合、国旗国歌を敬わない教員団体など、現行法では取り締まれない者に対して、なんらかの犯罪を共謀したと「言いがかり」をつけて幹部を逮捕することがないとは言えません。なにしろ物証のない段階で殺人犯人と思われる人物を別件逮捕してしまうのが常套化している国なのですから。

例え冤罪でも逮捕されてしまうと、その無実を立証するのが困難なのが共謀罪の怖さです。
警察の「複数の協力者」が綿密な打合せによって、辻褄のあった「共謀の事実」を証言したとき、それが「架空で事実無根」であることを反証することは、ほぼ不可能です。
なにしろ、共謀罪を立証するには「特定な時に特定の場所で話し合いがあった」ことの「証言」があれば足りますが、もともとない共謀の事実を「なかった」と証明することは全く困難だからです。
証言の矛盾を突く、アリバイを証明するなど反証の方法は限られます。しかも、事前に警察が「その時、その場所で話し合いがあった」ことを知っていた場合、「その犯罪を話し合っていない」ことは証明する方法はほぼ皆無でしょう。

国際テロ対策を口実に、そんな危険な共謀罪を新設する政府=与党の真の意図を疑わずにはいられません。
国際テロへの対応であれば、まずテロ犯罪のみを対象とする罪を新設し量刑を重罰化したうえで、その罪名に限定して共謀を罰する規程を整備すれば足りるからです。
何の事実がなくても、あらゆる個人や団体を恣意的に犯罪者として逮捕できる仕組みを作ってしまいたい。それが共謀罪新設の真の目的でないと言えるのでしょうか?

権力者に安易に「道具」を与えてはいけない。
それが歴史が教える教訓です。

自由で平和な日本を愛する人々なら、共謀罪の新設は断固拒否しなければいけません。

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2007/07/22

07参院選:隠された争点「ホワイトカラーエグゼンプション導入」

「残業代ゼロ法案」としてマスコミに大々的に取り上げられたホワイトカラーエグゼンプション導入。労働基準法の改正として政府=自民党が導入を図っている新しい労働の仕組みです。
参議院選挙で争点化することを避けて法案採決が見送られましたが、次回国会に再提出されることが確実視されています。

ホワイトカラーエグゼンプションとは何か?
「残業代ゼロ」では不正確ですが、日本語化されていないことからも明らかなように従来の日本の労働法制では想定されていない米国直輸入の制度です。

現行の日本の労働法制では、労働者は1日あたりの労働時間が8時間に制限されています。それを超えることは原則として禁止されていますが、一定の条件のもとで割り増し賃金を払うことで、それ以上の時間働かせることが出来ることとされています。

ホワイトカラーエグゼンプション制度とは、その制限をなくしてしまう仕組みなのです。
「ある一定の労働の成果」に対して「一定の対価=賃金」を払うことを「使用者=経営者」と「労働者=サラリーマン」が「合意=契約」することで、労働者は労働時間に関する保護や制限を一切受けなくなる仕組みなのです。

具体的に考えてみましょう。
あるセールスマンがいます。月あたりある商品を100個売ることを条件に月給30万円で雇用契約を結んだと仮定します。
ホワイトカラーエグゼンプションが適用されると、そのセールスマンは月に何日出勤するかも、何時間働くかも一切の制約を受けません。月100個のノルマさえ果たせば例えば7日だけ働いて、あとは遊んでいても良いのです。
一方でノルマが果たせなければヒタスラ働き続けるしかありません。休日も夜間もなく商品を売り続けなければなりません。何しろノルマを果たせなければ雇用契約を破棄=クビになるわけですから。

ちょっと考えると真面目で有能な労働者にとっては何の問題もなく、むしろ望ましい感じさえする仕組みです。
残業代ゼロなのは無能力で怠惰な労働者だけなのですから。

しかし、よく考えてみると有能な労働者にとっても決して問題がないとは言えないことに気がつきます。
例えば、ノルマがどんどん引き上げられて行ったらどうでしょう? 
7日で達成できるノルマをあまりに低い目標だったと会社は考えて、次回の契約時には3倍のノルマが課される事は容易に想像できます。
あるいは、賃金が引き下げられるかもしれません。
何しろ7日しか働いた実績がないのですから。

法案を提出した厚生労働省は対等な立場で労使が交渉するのだから、そのような一方的なことは起きないと説明します。
しかし、実際に有能な労働者ができる選択は「条件の引き下げに応じる」か「その仕事を辞める」だけしかないのです。

それは労使関係が基本的に不平等であることの当然の結果なのです。
今や古びてしまったマルクス経済学の用語で説明すれば、使用者=資本家が生産手段を独占して少数なのに対して、自らの労働力以外になんの資源ももたない労働者=無産階級は多数いるからに他なりません。
そのような条件下では平等で公平な交渉は決して成立しないのです。現在の労働者保護法制はそのような不平等を前提として歴史的に労働者が獲得してきた貴重な権利と言ってよいものです。

使用者にとって、代わりの労働者を見つけることは容易なのに対し、労働者にとって現在の職を失う不利益は大きく、次の職が見つかる保証はありません。
ましてや終身雇用が定着し自由で健全な求人求職市場の形成が遅れている日本で、失業することは多くの労働者にとってあまりに大きなリスクなのです。
住宅ローンが残っている、子供の学費がかかるなど、ほとんどの労働者が自由に失業することができないのが日本の現状なのです。

結果として、ホワイトカラーエグゼンプションの導入により多くの労働者の労働条件は限りなく引き下げられていくわけです。

そのような抜本的な労働制度の変更を、経営者の意向だけに沿って安易に導入しようとしてしまう政府=与党を労働者は信頼してはいけないはずです。

誰が労働者の利益を代表しているか、それが重要なのです。

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2007/07/21

07参院選:隠された争点の連載を開始します。

年金記録問題ばかりが注目されている2007年参議院議員選挙ですが、この選挙の結果によって方針が大きく変化することが確実な(政府=自民党によって)「隠され争点」がいくつもあります。
いずれも今後の国民生活に大きな影響をあたえることが確実な重要な争点ばかりです。
これから投票日までの間、とりあげた争点をご自身でじっくりと考えていただきたいと思います。
「それで良い」と思われれば与党=自民党に。「これはダメだ」と思われれば野党に。
特定の政党の立場を代弁するつもりはありません。これから掲載する記事を参考にご自身の判断で「最良の選択」をしていただきたいと考えます。
それぞれの立場からの意見、ご指摘など自由に「コメント」「トラックバック」ください。

参議院選挙は国の根幹と基本方針を選択する貴重な機会です。
卑近の課題やスキャンダルなどに惑わされることなく、参政権を行使してください。
「すばらしき新世界」運営者からのお願いです。

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2007/07/13

BraveBook:杉浦日向子「隠居の日向ぼっこ」

隠居の日向ぼっこ

いままでにも何回かご紹介した杉浦日向子得意の江戸エッセイ。
「隠居」のキーワードで検索したところ、たまたま見つけた一冊です。

内容は「隠居」とはほとんど関係ありませんでした。(笑)

自作の江戸をテーマとした漫画とイラストに、思いつくまま軽妙なエッセイを添えています。
若くして隠居し、江戸時代さながらに人生50年を待たず旅立ってしまった著者の良い意味で「力の抜けた」円熟のエッセイ集です。

隠居の日向ぼっこ 隠居の日向ぼっこ

著者:杉浦 日向子
販売元:新潮社
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2007/07/06

BraveBook:太田空真「「ご隠居」という生き方」

「ご隠居」という生き方

この一冊は「ご隠居万歳」「ご隠居最高」とでも言うべき「ご隠居」本です。
著者の太田空真氏は、前回ご紹介した「ご隠居のすすめ」著者の木村尚三郎氏より一回り以上若い所謂「団塊世代」です。
発行は1999年。約10年ほど前になります。
「ご隠居」の素晴らしさなどを自らの体験談などを交えて綴っていることは、多くの「ご隠居本」と同様です。
まだまだ「ご隠居」が観念的でしかない50歳前後に書き上げたものだけに「夢」が大きく歳をとることの「悲しみ」がやや抽象的なのが気になるところです。

この一冊を読むと「団塊世代」特有の人生観のようなものを感じます。
一世代上や一世代下の世代とは違った独特さがあります。
盛んに「ご隠居」の素晴らしさを綴る、その視点があくまで「自己中心的」なのです。
そこには「世間の為」も「みんなの為」も「日本の為」も「人類の為」もありません。
あくまで、自分自身の楽しみや満足のために「どう余生を有意義にするか」のみが関心事なのです。

それは著者だけの特徴ではないように思われます。
この世代の知り合いと話すとき、なにか気になっていたことが、まさにその点にあることに、ようやく気がつかされました。

そんな「自己中」(自己中心主義)の「ご隠居」ばかりが増えてしまうとき、まさに日本は滅びるに違いないと思うのです。

「ご隠居」という生き方 「ご隠居」という生き方

著者:太田 空真,隠居研究会
販売元:飛鳥新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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