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2007/08/26

新献策十講:(独)国家政策立案機構を創設せよ

今回論じようとするのは公務員制度改革です。
単なる天下り規制や給与引き下げに矮小化されて報道される傾向にある公務員制度改革ですが、さまざまな立場から提案されている改革案を詳細に読んでみると遙かに大きな改革の提案がなされていることに気がつきます。

「民間に較べて高過ぎる給与を引き下げ、優遇されすぎている勤務条件を解消しろ」などと言う、一般国民受けを狙った提案は公務員制度改革の「真の狙い」の目くらましではないかと思えるほど、明治時代以来の官僚制度の解体を図るとしか思えないものが多々あります。

代表的な抜本的な改革事項は次のものです。
・各省庁別に事務次官を頂点としてピラミッド上に構築される「官僚機構=政策立案機構」を解体する。
・政策群の単位を「省庁別」から、より広い「分野別」に変更する。
・政策の実質的決定権者を官僚トップから政治家に変更する。
・メリットシステムにより基本的に終身雇用が保証されている公務員を、政治任用を前提とするスポット職員化する。

いずれも、東大を中心として養成される優秀な人材を中央官庁に集中し、「天下国家の重大事への対応=国家政策の立案実施」を一元的に高級官僚に担わせるという、明治以来の日本の官僚システムを抜本的に解体する提案です。

それら提案の背景には、英米型特に米国型の政策立案システムへの転換があるようです。
広く知られるように二大政党制が定着し、立法府と行政府の独立性が高い米国では、国家政策の立案は名実ともに立法府である連邦議会が担っています。ホワイトハウスを頂点とする行政機構は、大統領が政治任用する広範な高級官僚スタッフとメリットシステムにより終身雇用される一般職員から構成され、基本的に行政事務を実施する権限と責任のみがあり政策立案には関与しません。
具体的には、連邦議会で多数党に属する各連邦議会議員のスタッフが政策立案の実務を担います。それぞれの議員は出身や支持母体を背景とした得意分野を持ち、独自に政策を立案します。
各議員の政策立案スタッフは膨大です。法律的には臨時雇用と位置づけるべきスタッフも多く、外部シンクタンクや学術機関から政策を丸ごと「買い取る」ことも日常的に行われています。その費用は莫大ですが、任期中いかに多くの「政策」を実現したかが問われる米国議員にとって、それは本質的仕事そのものなのです。

わずか数人の公設秘書しか持たない日本の国会議員とは大きく異なります。与野党問わず、なぜ日本の議員に政策スタッフが不要なのか?
「国家のあらゆる政策は、霞ヶ関の官僚機構群が生み出している」それこそが答えなのです。

日本の政治システムを米国型に転換することは可能か?
答えは「可能」です。
では、それが望ましいか?
答えは「望ましいとは言えない」です。

米国では、大統領選挙があるたびに行政府のスタッフ、日本で言う高級官僚から中級官僚が一斉に交代します。そのため、政権交代の度に行政機関の責任者も交代し、行政の一貫性は極度に失われ責任は曖昧になります。見方を変えれば、行政の責任は公務員が負うのではなく、選挙に代表される政治過程を通じて政治家が負うものなのです。
日本に置き換えれば、年金記録紛失問題は事務官僚である厚生労働省の長官や局長が負うのではなく、政治家である大臣や副大臣、政務官が負うことになります。
必然的に責任の追及は、司法手続きに従い過去に遡って厳格に行われる必要があり、それが抑止力となって適正な行政執行を担保する仕組みなのです。これは、古代ローマ帝国の仕組みを援用しているものと言われています。
司法の独立性や迅速性が劣る日本において、そのような仕組みが有効に機能するかは疑問です。

もう一つの問題は、連邦議員がそれぞれの利害に従って立案する政策が、基本的には相互に独立しており政策相互間が十分に調整されていないことです。
あくまで相対的ではありますが、霞ヶ関の中央官僚群が立案する政策が各省庁間の擦り合わせ作業を通じて全体として高度に調整されているのに比して、米国では連邦議会での審議により「近視眼的」「現実的」に整合性をとるに過ぎないことがあります。
その結果として、政策効果が相殺されたり、無駄が生じたり、あるいは一貫性が失われるなどの弊害が大きくなることは問題です。

ではどうするか?
霞ヶ関の中央官僚群を省庁毎に独立行政法人化することを提案します。
もちろん、中央省庁と言えども行政事務を実施するだけのセクション・職員は存在します。地域機関や地方公共団体に通達し連絡調整し統計資料を作成するような部門です。これらは分離して、本当の意味での中央行政府に再編成します。
中央官僚群の政策立案部門の割合を正確に把握した資料はないようです。しかし、そのアウトプットから推測するに霞ヶ関中央官僚群の8割以上は、実質的に政策スタッフと断言して良いでしょう。

まず、各省庁毎に政策スタッフと実務スタッフを区分します。各省庁の政策スタッフ群は現在の組織構成のまま、独立行政法人とし国家行政組織から分離独立させます。
独立行政法人のトップは、内閣が任命するのが良いでしょう。

独立行政法人は、国家レベルの各種の政策を立案し販売することです。
主な販売相手は、与党自民党・野党民主党です。将来的には発展途上国や欧米先進国に「政策パッケージ」を販売することも視野に入れることになります。
旧国鉄が民営化されて「新幹線システム」を世界を相手に販売していることをイメージすると解りやすいでしょう。
国家政策を販売し、その収益で「政策スタッフ=旧官僚」を雇用する構造です。

従来の各省庁大臣は実務スタッフが構成する「新省庁」のトップとなります。
その役割は、日本国の立場にたって「より良い国家政策」を「より廉価に」購入することです。購入費用とはすなわち国会で決定される予算に他なりません。安く買うことで税金の負担は小さくなります。
購入先は自由に選定できます。旧中央省庁である独立行政法人だけではなく、欧米のシンクタンクからも購入できます。そこには「競争」が発生します。

このように整理すると、現代日本の官僚システムの問題点がよく解ります。
国家が内部機構として政策立案スタッフを独占しています。その費用は公務員の人件費として税金で無条件で賄われています。与党は国家公務員である政策立案スタッフを独占的に利用して自らの政策立案に利用できます。
逆に言えば、国家政策立案スタッフである中央省庁の官僚は、自ら望ましいと思うところ政策を、与党の支持さえ得ていれば身分上の保証を得ながら、税金によって自由に立案し実施できると言うことです。

適正な「競争」は「より良い政策」を生み「より低廉な価格」を生みます。
国家機構そして政策における「新自由主義」の実現こそが、この提案の究極目標です。

最後にもう一度提案を整理します。
・中央省庁は、省庁別に独立行政法人にする。
・中央高級官僚は、一律に独立行政法人職員に移管する。
・各国会議員は政策スタッフを雇用し、国家政策を購入する主体となる。
・各国会議員は、予算編成過程を通じて自らの国家政策の実現を図る。
・政府=議員内閣は、予算により決定された国家政策を購入する主体となる。
・行政府は、政策実施を行うだけの機関にする。

すぐに忘れられてしまうでしょうが、「民主党が各省庁に局長級の官僚が法案の説明にくるよう要請」と最近の新聞記事に載りました。
現代日本の政策立案過程をよく表していますが、参議院第一党の政治意識としてはまことに心細い限りです。
官僚群に政策立案を独占させている限り、明治維新から一貫している「日本レジューム」からの脱却などできないことを認識していただきたいところです。

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2007/08/11

新献策十講:「国民の権利と自由の保護省」の創設

いわゆる小泉改革の影に隠れて注目されていないが、ここ10年間ほどの立法や行政の動向を改めて調べてみると、治安国家化が一貫して進行していることに気がつく。
一般の国民の側から見れば、憲法で保障された自由権や社会権が各種の新規立法や法律改正によって制限されているのである。
アメリカの911テロ後は全世界的傾向になりつつあるが、日本におけるそれは戦前への回帰を想像させるものも多く、安倍首相の言う「戦後レジュームからの脱却=戦前の統制国家への回帰」を多くの知識人に想起させる原因にもなっている。

「国民保護法」と言う名前の「戦時における国民の権利の制限法」を含む一連の非常法制の立法が代表的だが、ストーカー規制法・暴力団対策法・盗聴法そして共謀罪など一見すると特定の集団や罪状のみに限定されているように思われる自由制限法や行政への授権法も、簡単に対象者や罪状を拡大できる危ない立法である。これら一連の立法活動によって、主に警察機構内に整備されつつある治安警察の仕組みが、何かの切っ掛けで国民全体に対して猛威をふるい、戦前そのままの警察国家が再現しない保証はどこにもない。
特に時の為政者が国民の支持を失っても権力に固執するとき、警察力や軍事力を使った国民への政治的弾圧が強化されることは歴史の教えるところである。

ではどうすべきか?
国民の立場に立って、不当に国民に義務が課されたり、憲法が保護する権利が制限されたりすることがないようにし、新たな社会情勢の変化に対応し国民の権利を保護し拡充することを目的とする国家機関を創設するべきである。
仮に「国民の権利と自由の保護省」と名付けるこの機関の使命は
・国民の権利と義務に関して違憲立法や法律に基づかない侵害行為がなされないように常時活動すること
・憲法が保障する国民の自由権、社会権を実現するため、具体的な立法を行うこと
・新たに必要が生じた国民の自由と権利を立法により保障すること
にある。

すでにお気づきの方もあると思うが、それを行政権に属する一省庁とすることには法体系上問題があるだろう。
最も望ましいのは、国会に直属する司法権の一部も有した行政委員会であろう。もちろん独立した事務局を有し、委員は公選されることが望ましい。

行政委員会制度が根付くことなく形骸化している現状では、最高裁判所の付属機関とする選択や、会計検査院と同様の独立性の高い行政組織とすることもやむを得ないようにも思われる。

憲法の建前に関わらず、現代日本の実質的立法は中央省庁が分野毎に行っている。国会は、あくまで各省庁が立案した「法律案」を承認するかしないか(実際はほとんどを承認しているのだが)を決めているだけである。
その最大の問題点は、各省庁がそれぞれ特定の利益集団や省庁そのものの利益を最大化するために法律を立案していることにある。
経済産業省や国土交通省が立法の目的としているところは比較的解りやすいだろう。財務省や防衛省そして警察庁も目的を持って法律案を作る。
そこに問題があるのである。

財務省は歳入を最大化するため立法する。そのため、国民への増税は当然である。防衛省は国家の安全を確保したい。そのためにスパイ防止法を作るべきであり、自衛隊が自由に私有地を使い、協力しない国民を取り締まりたい。
警察庁は、治安に責任がある。犯罪を犯すかもしれない国民を早く捕まえて犯罪を防止したい。できれば犯罪の範囲を広げて警察官も増員したい。

そのような勝手の思惑が積み重なって、声なき国民の権利が制限され義務が増やされていくのである。

それを防ぐためには、積極的に「声なき国民」の権利を保護することを目的とする省を新設することが近道である。
いかに国民の権利を保護し拡充するかが「国民の権利と自由の保護省」の省益であり、評価基準である。
有能な「国民の権利と自由の保護省」の官僚は、自らの出世のためにも最大限の努力をするはずである。
その活動の結果は劇的であるに違いない。なにしろ、省益を支える利益団体は投票権を持つすべての国民なのだから。

自由民主党の支持基盤は財界・産業界・商工団体など幅広い。
民主党の支持基盤は一般に今やわずかな国民しか加入しない労働組合と言われている。
もし参議院第一党である民主党が、その躍進を実現させた幅広い国民の期待に応えて、真の「国民的支持を基盤とする政党」に成長するためには「国民の権利と自由の保護省」の創設を提案し実現するべきである。

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2007/08/08

新献策十講:自由教育法の制定

安倍首相のもう一つのこだわりが教育である。
極めて乱暴な強行採決の連続で教育基本法が改正されたのは記憶に新しい。
では何をどう変えたのか? 実質的な討論もなかったことで、改正内容の全体像さえ国民の多くは知ることもないままである。
何が問題で、何を理想の教育とするか。
その基本認識さえコンセンサスが得られないまま、文部官僚主導で作成された改正法に未来はない。
何しろ戦後半世紀、今日の教育の荒廃を招いた当事者が立案したのである。
「泥縄」どころか「泥棒本人に自らを縛る縄を綯わせた」のである。
当事者として確かな教育システムを構築できなかった文部官僚に教育の理想は語れない。

教育の理想像、理想の教育システムを明確に提示することは、現時点で優先順位の高い魅力的な政策課題である。

教育については、自由と選択をその基本原則としたい。
今回放棄された「ゆとり教育」の失敗の本質は、「ゆとり」の内容までをも統制しようとした現在の画一的で中央集権的な教育システムそのものにある。
教育そして学習は、本来的に国民の自由権に属するものであることを再認識しなければならない。

普段なにげなく使っている「義務教育」とは何か?
「誰の」「誰に対する」「義務」なのか?
「義務」に対応する「権利」とは何かを考えてみたことがあるだろうか。

日本において「義務教育」は明治維新から間もなく開始された歴史の古い制度である。戦前においては「義務教育」も無料ではなく、多くの貧しい国民にとってその学費の負担は相当のものであった。
しかも、自らの子供を学校に通学されることは国民の「義務」であった。
通学させないものは、犯罪として処罰の対象にさえなったのである。
「義務教育」とは国(正確には市町村)が設置する小学校に、子供を通学させる義務を国民が負うことに他ならないのである。

では義務教育導入前、江戸時代の国民の就学率は低かったのか?
経済的にも裕福になり、商品経済が発展していた江戸末期において、国民の就学率は高い。特に江戸や大阪での就学率は驚くほど高かったのである。
幕府が強制するまでもなく、庶民は自らの稼ぎと必要に応じて子供を寺小屋や手習い師匠に通わせた。江戸の教育は「読み書き算盤」と言われるように実学そのものである。子供は教育を受けることで、確実に良い生涯を送れる可能性が高まるのである。

明治維新後、導入された国による「義務教育」は不評であった。全国画一に実施される教育は地域の実状を反映せず、子供が将来つく職業を考慮しない。「農民の子に教育はいらない」少し前まで聞かれた言葉である。その一言が明治以降の義務教育を象徴している。農民にとって教育は必要である。作物を育て売り捌くには様々な知識と経験が必要だからである。職業毎に必要な知識は異なる。
それを無視し一方的に国家が必要とする知識を教えるだけの教育は、当初から国民自身には必要とされなかったものである。
当時の国家が必要とした知識とは何か?
将来国の中核を担う官僚を選別するための知識のための知識。共通の日本語を話す均質な国民。勃興する企業が必要とする最低限の読み書きができる従順な国民。上官の命令が理解でき命令書が読める従順な兵士。
そんな「国民」を育てるのが「義務教育」の役割だった。

戦後も義務教育は残った。
一旦は市町村教育委員会に分割され自由化された義務教育は、独立回復後早々と戦前の画一的で中央集権的な仕組みに戻されたのである。
戦後教育の歩みは不幸である。
基本理念は常に混乱し、国民的コンセンサスは一度も成立したことがないと断言できる。
事実としての義務教育は、高度成長期に大量に必要とされた均質なホワイトカラー労働者とブルーカラー労働者を量産し続けたのである。
均質で無個性で非創造的な国民は、戦後義務教育の成果にほかならない。

教育をどうすべきか?
結論は、国・地方公共団体はその過程から「全面撤退」することである。
教育機関や教育内容は国民の自由に任せるべきなのである。自由に任せさえすれば、時代に即して企業や社会が必要とする人材を育成するための多様なプログラムが多くの民間企業により提供されるのである。

国はなにをするべきか?
まずは国家自身が必要とする人材を育成するための高等教育機関を設置する。明治維新後まもなく創設された帝国大学の再興である。
それから各種職業が必要とする技能の認定、すなわち国家資格の認定である。社会や企業が必要とする人材像を明確に定義し、試験を行い資格を付与する。これを的確に行えば、教育の過程に国家が関与する必要はない。自動車運転免許が国家試験により与えられるにも関わらず、その教育は民間に任されているのと同じである。
試験に合格できない悪質な民間教育機関は自然に淘汰される。それが自由経済の原理である。
経済的理由で教育を受けられない国民への援助は重要である。国家の責任で基金を創設し、憲法が保障する教育権を実現するための無利子貸付制度や奨学金制度を創設するのである。
教育は国民一人ひとりが、より豊かで充実した人生を生きるための自己投資である。国家のための人材育成ではない。国民自らの成長が教育の目的なのである。

最後に自由教育法の骨格を示しておきたい。
・自由教育法を定め、教育基本法等の既存法は一切廃止する。
・教育の原則は国民の自己実現にあることを明確にする。
・就学義務を廃止し、一切の教育は国民の自由とすることを明確にする。
・文部科学省及び都道府県教育委員会を廃止する。
・義務教育小中学校は廃止し全面的に民営化する。
・高等学校以上の高等教育機関は原則として廃止し一部を独立行政法人化する。
・私立学校に関する全ての規制を撤廃し、設置者・教育内容とも自由とする。
・国、地方公共団体が自らの必要に応じて学校を設置運営できることを明確にする。
・職業等に関する国家資格を整理統合し、資格認定制度を一元化する。
・国立学習援助基金を創設し、だれもが教育に必要な資金の援助を得られるようにする。
・中長期的な教育課題や標準的な教育カリキュラムを明らかにするため、中央教育会議を創設する。
・悪質な教育機関を監視処分する行政委員会として、市町村教育委員会を再構築する。
・教育委員会を公選制に復帰する。

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2007/08/05

新献策十講:憲法改正手続法の制定

前回は勢いがついてしまい、論旨が解り難くなってしまい反省しています。
要するに野党がただ反対するだけでは日本は良くならないので、政策の提案や人材を広く求めて自民案=官僚案よりも「民意」を反映した具体的政策を作り上げなさいと言うことです。
その裏返しとして、政治を良くしたいと願うのなら積極的に具体的な政策案を出すべきなのです。
それが「商売として成り立つ」なら、それは良いことだと思います。
政党がそれぞれに政策立案能力を持つならば、あの巨大な霞ヶ関の官僚群は不要になるわけですから。

と言うことで、最初の献策として選んだのは安倍首相が固執する憲法改正への対応策です。

国民の多くはいろいろな立場から憲法を考えています。結果として、現在のままで良いと思うのは少数派であり「護憲=憲法を改正しない」は魅力的な政策でないことは明らかです。
しかし、それが直ちに「憲法を改正すべきである。」とはなりません。
何をどう改正するかが明らかではないからです。
「憲法は議論すべきである」これが前提となります。

安倍首相が目ざす憲法改正とはなにか?
どうやらそれは全文一括改正で、基本的には戦前への回帰を目ざすもののようです。
具体的に民主的な論議が深まらないまま、時の政権党の意向で憲法改正が行われることは避けるべきであることは明らかです。
政権党が交代する毎に国の基本となる憲法が改正されるべきではありません。
少なくとも歴史的常識では、憲法とは権力者と民衆、言い換えれば支配者と被支配者との基本契約なのですから。

憲法の改正とは、必ずしも全文一括改正を意味しません。
むしろ、特定の条文のみの改正するほうが一般的でしょう。
あるいはアメリカのように新たな課題に対応して修正条文を追加する方法もあります。

では憲法を改正するには、どうすれば良いか。
現行憲法には発議と国民投票のわずかな手続き規程しかありません。
安倍首相が国民投票法の制定にこだわったのはそのためです。

様々な立場から国民が現行憲法に不備があると考えています。
それを議論することが望ましいとするなら、野党は議論の枠組みを作る提案をするべきです。
具体的には「憲法改正手続法」を超党派で提案すべきです。

憲法をどうすべきかを民主的に公平に議論する。
改正発議のための前提条件を定める。
国民投票の枠組みを定めるのが「憲法改正手続法」です。

具体的な主な内容は次のとおりです。
・憲法改正の発議には、国会に憲法調査委員会を設置しなければならない。
・憲法調査委員会の委員は、国会議員の互選で選ぶ。
・憲法調査委員会の委員は、国民の直接投票により信任されなければならない。
・憲法調査委員会には、有識者等で構成する専門委員会を設置する。
・専門委員会委員は、国会で承認されなければならない。
・専門委員会は公聴会を開催しなければならない。
・憲法改正の発議は個別の条文毎にしなければならない。
・憲法改正が発議された場合は、国民投票に先立ち憲法改正会議を設置する。
・憲法改正会議のメンバーは公選により選出する。
・憲法改正会議が国民投票の実施を決定する。
・国民投票は個別の条文毎に実施する。

すなわち、党利党略の影響を極力排除し、国民が改正作業に直接関与できるようにすることが重要なのです。
憲法の改正という重要な政治判断を慎重にするため、個別条文毎に審査し決定することは必要であり重要なことです。

代議士はあくまで一般的に国民を代表するに過ぎないものだとの原則に則り、憲法改正を民主的にすすめる手続きを定めることは、多くの国民の支持を受けるでしょう。
それに反対するものは「どさくさに紛れて都合よく国民の権利を制限し義務を強制する」国民の敵であることを自ら明らかにすることになります。

真に国民のための改正を目ざす者であるなら、国民との議論を恐れないものです。
それが現在の愚かな国民には理解できないと例え考えていても、議論を避け強引に決定することは、民主主義国家では決して認められないことは明確です。
憲法改正手続法案を提案することは、誰が国民の意志を考えているかを明らかにする上で極めて有効な手段なのです。

憲法改正手続法案を参議院で議決する。

衆議院での法案審議を通じて安倍首相の憲法改正の内容と手順を国民の目に明らかにする。それが国民のためのものなら法案は成立するはずです。

その過程を国民が好意的に受け止めるなら、超党派で民主的議論を深めることです。
ただ「憲法改正反対」では国民の圧倒的支持を受けることはないのですから。

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新献策十講:政策献策のすすめ

参議院で与野党逆転が実現した。
すなわち政府自民党が衆議院で法案を通過させても、参議院が否決すれば法律は成立しない。
この状況は土井党首時代の社会党にもあった。それは消費税反対の国民世論が実現したものだった。
しかし、衆参両院の多数党が異なる状況は、多くの国民の期待に反して政治的には何ものをも生むことはできなかった。
衆議院での採決、参議院での否決。
従来と同様に立案される法律案に対し、野党は対案を立案する能力を持たず、ただ反対をするばかり。
衆議院が優先するものは、無意味な両院協議会を経て与党案が成立。
与野党の話し合いと協議の土壌は生まれず、いたずらに国政の停滞を招いただけであった。
不安定な連立政権と政界の再編。
しかし、基本的な政策の転換はなく、あの特異な小泉政権に至って政治主導の政策転換が初めて実現した。

その根本的原因は政治=政党の政策立案能力の欠如にある。
与党=自由民主党の政策とは、国家官僚組織が生み出すものにほかならない。
与党が代表する支持母体の利害を巧みに取り入れつつ、国家の政策を立案し法案化するのが霞ヶ関国家官僚の本質的役割なのである。

国家官僚による政策立案の独占。
それこそが、明治維新いや徳川幕藩体制から一貫した日本の政治システムの特徴なのである。

異なる理念や利害に基づく複数の政策案から、より良いものを民主的手続きで選ぶ。
それが少なくとも西欧諸国が目指した理想の政治であり、議会制民主主義である。
それにも関わらず日本だけは、国家官僚=行政府が政策立案を独占する特異なシステムのもとにある。

参議院で第一党となった民主党、そして衆議院第一党の自由民主党とも、この状況下で行うべきことは、独自の政策立案機能を徹底的に強化することである。

政策立案とは、緻密で複雑で難しくしかも技術的な作業である。
調査や統計に基づく緻密な分析、国民や利益団体の潜在的ニーズの発見や調整、最大多数が是とする具体的法案の作成。
霞ヶ関の優秀な人材が大挙して分野毎に分担して日夜行っている作業に他ならない。
わずか数人の政策秘書や政党スタッフが、片手間に行える作業ではない。

ではどうするか?
外部機関やスタッフを活用するべきである。
民間シンクタンクが主たる受け皿となる。大学の実践的学者を活用するのも良いだろう。
長く政策立案を国家が独占した結果、日本におけるこの分野は未発達であることは否定できない。それならば、欧米を中心に多数ある政策立案を専門とするシンクタンクを活用すれば良い。これは国家の安全を云々する問題とは異なる。「何をしたいのか」が明確であれば、客観的データをもとに技術論的に政策は立案できるからである。

野党が早くそれに気づき、国家官僚が作り上げる与党案に反対するだけでなく、評価に値する対案を提出できるようになれば「政治は変わる。」
将来的、長期的には内部スタッフを充実することも必要である。
しかし、まずは「金で片がつく」ことは「金で方をつけて」、参議院第一党に相応しい国民が歓迎する一派な「政策群」を作り上げる必要があるのである。

政策を買うことは、欧米特にアメリカでは当たり前のように行われている。
特定の政策分野毎にマニフェストそのものを購入し、専門家を雇用する。
まずはそれで良いのである。
国家官僚が、税金という潤沢な資金と多数の優秀な人材を動員して作りあげる政策群は、一般の国民が考えるより「遙かに良く出来ている」からである。
戦後日本の成功はそれの否定することが出来ない証拠である。

その対案を作ることは、従って至って困難な課題である。
議会に属すべき法律立案機能であるから、参議院の法案作成スタッフを大増員することも一つの方法ではある。しかし、行財政改革が国民に支持される状況で、それは難しい。
まずは、政党が自らの資金を使って外部シンクタンクから望ましい政策とスタッフを調達するのが良い。

献策は現代アメリカでも古代中国でも、新しい政権が生まれる度に行われてきた。
「すばらしき新世界」でも次回から微力ながら、国民が望むであろう政策群をアイディア段階のものも含め提示してみたいと思う。

法案化などには、費用と人材が必要である。
与野党問わず、それを提供していただけるなら、自ら手掛けてみたい気持ちはある。(政策の購入や「召し抱え」の希望があればコメント欄にご記入ください。)

本来、アイディアも重要な売りものだが、ここは日本の将来のため無料で公開するので、各政党関係者の方に自由にご活用いただきたい。

いずれにせよ、広く在野の人材、そして政策案を募ることこそが必要であり重要であることを認識しなければならない。

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2007/08/04

政策原論:権力に執着するリーダーを危惧する

参議院選挙の大敗にも関わらず安倍首相の続投が決まった。

確かに法律論から言えば衆議院の意志で首相は決定され、参議院の意志に優越する。
従って「参議院選挙の敗北=退陣」とならないことは明らかである。
議員内閣制ゆえの制約として、国民の意志は代議士を選ぶことで間接的にしか示されないことも、もどかしさの理由である。

しかし、前首相が獲得した「支持」を基盤とする衆議院の自民党圧勝と、自らへの「不支持」が表明された直近の参議院選挙での自民党惨敗は、単なる法律論を超えたところで理解されなければならない。
いやむしろ、リーダーが積極的にその意味を理解して行動しなければならない。
参議院議員選挙への国民の投票が、何に対する意思表示なのか敏感に感じ取れない時、権力は独善化し国民から遊離する。
それはすなわちリーダーによる民主主義の否定(無理解?)の始まりに他ならない。

選挙の大勢が判明するや安倍首相は何の躊躇いもなく続投を表明した。
選挙の敗北の責任が自らにあると認めながら、選挙結果を受け止め政権を維持し政策を推進すると発言した。
いかなる論理構成をもって、その結論がでるのか?
選挙速報の実況解説をしていた、時の権力者に遠慮しがちな政治評論家でさえ、戸惑いを隠せない様子であった。

推測するに安倍首相はこう考えたのだろう。
「自分は小泉首相の正統な後継者として衆参両院で圧倒的支持で選ばれた首相である。これまで推進した政策は、頑迷な野党の反対はあったが国民の意志の結果である衆議院の支持のもと相当程度法案化した。憲法改正など今後推進すべき重要な政策もある。今回の敗北は、自分への不信任ではなく、大臣の不祥事やまさにこれから改革しようとしている国家官僚の怠慢の結果にほかならない。国民は愚かで自分が行おうとする重要なことにではなく、目先の些末なことで反対票を投じたにすぎない。真に重要なことを行おうとすれば反対はある。それを乗り越えた時、愚かな国民は初めてその意味を知り感謝する。その大切なことが唯一わかっている自分は、潜在的に国民の支持を受けるに値する。従って退陣をする必要など一切ない。」

本当であれば実に独善的で貴族主義的で鼻持ちのならない論理である。
首相自らが論理的に語らず、マスコミも評論家も論理的背景を問わない「平和なる日本」では、首相の真意は残念ながら不明なままである。

いかなる論理によるにせよ、安倍首相の政権=権力への執着は異常である。
正義さえそこにあれば、権力の正統性まで犠牲にしかねない愚かさがある。

政治的リーダーが、自らの権力に執着することは危険である。
それは独裁への誘惑と表裏一体のものである。
権力に執着したリーダーは、あらゆる手段による政敵の排除、選挙制度の変更(ゲリマンダー)、民主主義的活動の抑圧を図る。
洋の東西を問わず、過去何回も繰り返された愚かで悲しい歴史である。

独裁の芽は小さなうちに徹底的に摘まなければならない。
参議院選挙に勝利した野党がまず取り組まなければならないのは、それである。

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