カテゴリー「BraveLife」の記事

2012/09/29

BraveLife:モーツァルト!モーツァルト!Mozart !!!

学校を卒業して以来、クラッシック音楽とは無縁の生活を送ってきた。

学校の音楽の授業で聞いた楽曲に興味を感じなかった。基礎の基礎の音楽理論も、実際の生活で必要ではなかったし、なにしろ、わずか45分ほどの授業で聞くレコード(!!)の1楽章は、断片的で、全体を楽しみ・感動したことのない子どもには、その良さは少しも分からなかった。なによりも、アイドル歌手が全盛時代で、愛くるしい表情で、可愛らしい声で歌う、日本語の分かり易い歌詞がついた歌謡曲(!!)の魅力には、到底太刀打ちできなかった。

それ以来、何十年。機会があって、コンサートホールで交響曲を聞いた。モーツァルトだった。素晴らしかった。音色の豊富さと圧倒的な音量、数限りないメロディーとハーモニー。
とりあえず、図書館でCDを借りて、いろいろと聞いてみた。
よりによって、モーツァルトであるのが問題だった。この天才作曲家は多作であって、知られていて録音のあるものだけでも500曲以上がある。交響曲に限っても50曲以上もある。
すべてを納得いくまで聞くには、人生はあまりに短い。
ある高名な科学者は「死ぬとはどういうことですか?」と聞かれ、「モーツァルトを聞けなくなることです。」と答えたと言う。同感なのです。
その楽曲は美しく魅力的で幸福感に満ちている。無限ともいえる魅惑的なメロディーが次々と登場する。

言われ尽くされているがモーツァルトは「神の子」なのだと思う。

限られた人生で、すべてを堪能できないとなれば、何を聞けば良いのか?
交響曲を聞くのが良い。各楽器が最も美しい音色を奏でる音域で、別のメロディーを演奏しつつ、全体として統一のとれたハーモニーを生み出す。天才の技が最も感じられるのが交響曲だと思う。

モーツァルトに関してはオーケストラの違いは決定的ではないように思う。どの演奏も間違いなくモーツァルトそのもの。日本より欧米で人気のあるモーツァルトのk交響曲全集(10枚程度で50曲程度が収録)は、本当に安く手に入り、どれを選んでも決して後悔はしないと思います。

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2006/12/10

BraveLife:本田美奈子.「優しい世界」

優しい世界(初回限定盤)(DVD付)

本田美奈子.の未発表曲CDが発売された。
ブックレットに彼女の特徴ある筆跡の詩が書かれていた。
いつ、どんなきっかけで書いたものだろう。
素直な気持ちが美しい詩だと思う。


”ありがとう ”

今まで いっぱいの”ありがとう ”を
言ってきた。 色々な気持ちの
”ありがとう ”を...
ふと、”ありがとう ”と言っている時は、
どんな時だろうと考えてみた。
お誕生日プレゼントをもらった時...
突然の雨で雨宿りしていたら身知らぬ
人が傘を借してくれた時...
お母さんが、ご飯のおかわりを
よそってくれた時。
誰かに何かを教わった時...
誰かに助けてもらった時
誰かに命を救ってもらった時...
誰かに...  誰かに...
お嫁に行く時だって
私を生んでくれて ”ありがとう ”
私を育ててくれて ”ありがとう ”
今までお世話になりました と 両親に
”ありがとう ”と感謝の気持ちをのべる。
そうだ。 誰かや何かに感謝を
している時なんだ。 感謝、感謝.
当たり前の事の様に思えるけど、
心の感じ方や深さで 生き方まで変わって
しまいそうな ”ありがとう ”という言葉...
大切に 心から感謝しながら
人生を歩んで行きたいな
     ありがとうよ ありがとう
                   本田美奈子.



優しい世界(初回限定盤)(DVD付) 優しい世界(初回限定盤)(DVD付)

アーティスト:本田美奈子.
販売元:日本クラウン
発売日:2006/12/06
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2006/11/06

BraveLife:本田美奈子.あれから一年

wish(DVD付)

あれから一年。
生きるということを初めて真剣に考えた一年。
人はなぜ生きるのか。生きることに意味はあるのか。どう生きることが幸せなのか。後悔しない生き方とは。

一人のアーティストの死は、つぎつぎと考えるテーマを生みだしていく。

最終的な結論はまだでない。ただ、だれか他人に評価されてこそ「人生」に意味があるように思う。

古くローマ時代、最大の刑罰は死刑ではなかった。その人物の一切の記録を抹消することが最も厳しい刑であった。
善良なローマ市民は、自らの人生を記録し残した。子孫や将来の市民が、永遠に自らとその人生を記憶して、讃え、懐かしんでくれることを心から望んだ。

生きることの意味を知ることは、哲学や宗教の領域にある。
自らが死を迎える時、後悔だけはしたくないと思う。

時は偉大だ。限りなく深い悲しみを確実に過去のものとしていく。
わずか一年でも、傷みが大きく和らいだことを感じる。
その死の衝撃を思いだすために、昨年末に書いた追悼文を掲載しておこうと思う。

来年、彼女の死はさらに少し遠くなるのだろうか?

*****************************
 追悼 本田美奈子
*****************************
2005年11月6日 本田美奈子 逝去。
まだ38才の若さだった。

遠い昔の恋人、遠い国で活躍していると聞いていた懐かしい人の突然の不幸を知らされたような、なんともいえない悲しみ。まだ38才の若さだった。
その無念を思うとき、どうしようもない、やり場のない悲しみを感じる。

彼女にとって、デビュー以来の20年は努力と挑戦の日々だった。
アイドルとして、ミュージカルスターとして、そしてクラシック歌手として。

彼女の将来には、未だ誰もなしえなかった素晴らしき成果があったに違いない。
彼女が自分で納得できるだけの結果をなし得なかったことが悲しい。
そして、多くの人に感動を与えたに違いないそれが永遠に失われたことが悲しい。
彼女が最後まで、生きることの努力を続けたことを知ることで、悲しみは一層深まる。

しかし、彼女の20年間の足跡が、
常人をして一生かかっても成し遂げられないほど素晴らしいものであったことが、
わずかにその悲しみを和らげてくれる。

80年代のアイドルのレコードやビデオの、ほとんど全てが廃盤となった今も、
彼女の素晴らしき楽曲のほとんどが販売されつづけている。

ミュージカルスター、そしてクラシック歌手、本田美奈子にとって、
アイドル時代は、決して過去のものでもなく、未熟な通過地点でさえなかったに違いない。
常に、その時々で自分のベストを尽くしてきた彼女にとって、
過去に後悔などなく、過去に成し得たことは、すべてはその時点での自らの到達点を示す、貴重な記念碑であったに違いない。

そんな彼女だからこそ、永遠に失われてしまった未来を嘆くより、
その20年に彼女が生み出した素晴らしき成果に、最大限の賞賛を送りたい。

今もDVDの鮮明な画像で楽しめるアイドル時代。
そのステージは、アイドルがアイドルであることを求められる時代にあって、
今見てもその完成度の高さに驚かされる。
抜群の歌唱力、ダイナミックでリズミカルなダンス。
今のミュージシャンが失った無垢な笑顔も眩しい。
武道館でのファーストコンサート。コーラスをつけず、バックダンサーもいない広いステージに、
心から楽しみ、ファンを楽しませるプロのミュージシャンの姿が既にある。
3年目、ロック色を強めたステージ。
「セクシーなアイドル本田美奈子」のレッテルが消え去った今、
改めて見るとどんなロックミュージシャンにも勝るとも劣らない素晴らしいステージ。
21世紀の今、アイドルはもちろんニューミュージック系のアーティストでさえ、
これだけのステージを行えるのは、ほんの数えるほどしかいない。

若い女性が音楽の才能を示すにはアイドルでなければならなかった80年代。
アイドルの枠に収まりきらない自らの才能と可能性に苦悩する、
早く生まれすぎたアーティストがここにいる。

アイドルの副業程度に思われたミュージカルへの転身。
アイドルとしての活動を一切休止して、発声法すら一から学びなおした真剣な挑戦であった。
生まれながらの優れた表現力に磨きをかけ、他の役者に一歩も劣ることのない素晴らしい演技。
彼女にとっての歌の意味を大きく広げた挑戦は、日本におけるミュージカルの位置づけを、
より多くの人に楽しめるものへと、明らかに変化させた。
彼女なくして、今の日本語ミュージカルの人気はなかったと断言できる。

彼女の90年代は、ミュージカルとともにあった。
彼女が新たな才能と可能性に挑戦しつづけた、第2ステージである。
代表作「ミスサイゴン」をはじめ彼女の舞台は残念ながらDVD化されていない。
その素晴らしい姿をもう一度見てみたい。

世間ではなぜと思われたクラシックへの再度の転身。
ミュージカルスターとして確かな位置を築いてきた彼女にとって、
歌そのものの魅力への追求の当然の帰結だったのだろう。
ミュージカルスターとして、その役を完璧に演じれば演じるほど、
与えられた言葉と与えられた感情しか許されないことに、もどかしさを感じたに違いない。
彼女にとって、ジャズであれボサノバであれあらゆるジャンルの歌唱を選択出来たはずである。
母国語である日本語で自由な歌唱ができるクラシック、
自分自身の言葉で、自分自身の心を伝えられることの魅力、れが彼女の選択だったのだろう。彼女自身が作詞した磨かれた一語一句には、彼女の心とメッセージが込められている。
残された2枚のアルバムの彼女の歌声の完成度は驚くほど高い。
澄みとおった繊細の歌声。
わずかな単語しか音律に乗せることのできない日本語の限界を感じさせない豊かな表現。
独自の閉鎖された世界にいる日本のクラシック界に、
新たな衝撃を与えるに十分すぎる彼女の歌声は、あまりに美しい。

彼女にとって、新たな歌の世界への挑戦は、自分自身への可能性への挑戦であると同時に、
彼女が愛する歌の魅力を、より多くの人々に知ってほしいとの願いからのものであったのだろう。
「元アイドル歌手・本田美奈子が」挑戦することで、
確実に新しい歌の世界に興味を持つ人々が増えた。
ミュージカル、クラシックいずれもすばらしい歌の世界でありながら、
多くの人には無縁であることが、彼女の挑戦の動機であったのに違いない。

限りなく挑戦を続ける彼女が到達できたであろうことを思うと、
心から残念で、彼女の無念を思わずにはいられない。
しかし、わずか20年で彼女が成し遂げたことは驚くほど大きい。
その感動は、その想いを継ぐものを生み、新たな素晴らしき歌の世界が開かれていくに違いない。
彼女の生み出したものに、惜しみない賞賛を送ることで、せめてもの慰みとしたい。

彼女には永遠の眠りは似合わない。
生まれ変わってほしいと心から願う。
彼女の才能は、21世紀の今でこそもっと大きく花開くに違いないのだから。


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2006/07/31

BraveLife:本田美奈子は永遠に

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I LOVE YOU

LIFE~本田美奈子プレミアムベスト~(初回限定盤)(DVD付)

本田美奈子BOX

CD&DVD THE BEST 本田美奈子(DVD付)

ゴールデン☆ベスト

ミス・サイゴン

BEST

DISPA 1987

ドラマティック・フラッシュ

MINAKO/ザ・ヴァージンライヴ IN BUDOKAN

本田美奈子オフィシャルサイト

本田美奈子 そして 本田美奈子.

1967年7月31日 ー 2005年11月6日

愛すべき天使よ 永遠に。

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2006/05/19

BraveLife:ボブ・グリーン「書きつづける理由」

書きつづける理由 チーズバーガーズ4

「105円の本達」で紹介したこともあるボブ・グリーンのコラム集である。
ボブのコラムの特徴は着眼点の良さと切り口の見事さにあると思っていた。しかし、チーズバーガーシリーズ4作目にあたる本書では、ボブ自身の意見や主張がはっきりとは読み取れない少し毛色の違ったコラムが多い。40歳を迎えた彼が、心の内面や価値観・考え方について自分自身に問いかけるようなコラムである。
少し長いが、ある男の生き方を紹介した一編をご紹介したい。

「牛追いの旅」
 人には誰にでも忘れられない人間がいる。
 あれは1970年のことだった。当時、グレート・ウェスタン・ランド&キャトルという会社が、ニューメキシコ州のグランツからコロラド州のパゴサ・スプリングズまで、砂漠を越えて七百頭のシャロレー牛を移動させていた。私は、それに同行する形で、牛追いの旅に出た。カウボーイたちはほとんどがプロの職人たちだった。つまりは、子供のころから馬に乗って生活の糧を稼いで来た、筋金入りの西部の男たちだった。
 だが、そのなかにひとりだけ、得体の知れない男がいた。ジョー・ヘンリーという名前の男で彼にはどことなく....人とちがうところがあった。
 黒髪で、驚くほど目鼻立ちが整っていた。彼はまだそのころ二十七歳だったが、いつも他人とのあいだに距離を置いているように私には思えた。牛追いの旅のあいだ、ほかの人間はみな火のまわりに集まって夕食を食べたが、ジョーはたいていひとりで黙々と食べていた。牛が休息をとっているあいだも、ほかの男たちはひとつ場所に集まって話をしていたが、ジョーは馬を降りて、ひとりでまわりの景色を眺めていた。
 彼はしょっちゅう、牛追いの旅の責任者だったロン・ワイルダーと口論していた。その牛追いの旅にはトラックが数台伴走していて、ワイルダーはジョーにそのなかの一台を運転するように命じていた。だがジョーにはそれが不満だった。彼は馬の背にまたがって、牛を追いたがっていた。
 ロン・ワイルダーが(牛の囲いを乗せた)トラックを運転するようにジョーにいうと、ジョーはいつもワイルダーにこういい返した。
「俺は馬に乗りたいんだ。金なんか欲しくない。給料なんか一銭もいらない。だが俺には馬だけは必要なんだ」
 ジョーがそういうのを聞いて、私はいつも不思議に思っていた。カウボーイたちはみな、主として金のために牛を追っている。馬に乗るかわりにトラックを運転したからといって、給料の額が変わるわけではない。
 だが、いっしょに牛追いの旅を続けているうちに、私はジョー・ヘンリーという人間を少しずつ理解するようになっていった。
 世の中にはなんでも自分でやってみないと気がすまない好奇心旺盛な人間がいるが、彼はまさしくそういうタイプの男だったのだ。彼の人生の目的は、毎日新しい体験をすることだった。彼は、ビールのコマーシャルに出てくるような男たちの白眉のごとき人物だったが、彼がそうした男たちとちがうのは、あくまでも彼が現実の世界の人間だということだった。
 ジョーはカウボーイではなかった。彼はただ、カウボーイの仕事を体験してみたかったから、牛追いの旅に出たにすぎなかった。
 彼は詩人であり、作詞家でもあった。アイオワ大学の創作科で修士号もとっていた。工事現場で働いたこともあったし、炭坑に勤めていたこともあった。プロのボクサーになろうとして修業をしていたこともあった。「ブラウン・アームズ・イン・ヒューストン」という、地元では大ヒットしたご当地ソングを作ったこともあった。彼が持っていたダッフル地のバッグには、二冊の厚いファイル・ホルダーが入っていて、そこには彼が書きためた詩が綴じてあった。彼はときどき、その詩を私に読ませてくれた。
 旅を続けていくうちに、私たちは友達になった。彼は、コロラドに着いたら、今度はヨーロッパへ行って、プロのホッケー選手になりたいといっていた。
 私たちは旅の途中で別れた。そして彼とはそれ以来一度も会わなかった。
 それからまたたく間に時が流れた。そして、数日前のある日の午後、コロラド州のウッディ・クリークから一通の手紙が私のもとに届いた。差出人は、ジョー・ヘンリーだった。
 あの牛追いの旅を終えたあと、彼がどこでなにをしていたのかをその手紙は教えてくれた。
 彼はその後、ジョン・デンヴァーのためにいくつか歌詞を書いていた。何人かの有名な作家が彼の書いた詩を本にできるように力を貸すと約束してくれたが、残念なことに、まだ実現の運びにはなっていなかった。
 彼はその手紙のなかで、私が彼のことを覚えているかどうかわからないが.....と書いていた。
 私はすぐに彼に電話をかけた。そして私はまず、彼がヨーロッパに渡ってホッケーのチームに入れたのかどうかをたずねた。
「もちろんだとも」と彼はいった。「あれからデンマークとスイスでプレーしたよ。おかげで身体のほうはメチャメチャさ。膝と鼻の手術を三回ずつやって、鼻と顔を合わせて九十針縫ったよ。だけど、それでも最高に面白かった。」
 現在の彼は作詞家としてはあまり成功していなかった。
「テレビのコマーシャル用になにか書かないかという誘いを何度か受けたことはあるんだ。これから一生遊んで暮らせるような金をくれるらしいんだが、俺にはそういう仕事はできない。俺には、人になにか物を売りつけたいなんて気はさらさらないからね。車や煙草やヨーグルトを売るために詞を書くのかと考えただけで、俺にはとてもできないと思っちまうんだ」
 そんな彼も、もう四十代になっているはずだった。
「四十二歳だよ。だが人生がそれほど変わったようには思えないね。俺はいまでも相変らず、絶対に妥協をしない頑固な男として通っているよ。俺の人生は、ほかの人間なら間髪入れずに飛びつくようなチャンスを棒に振りつづけてきた歴史だといってもいいかもしれない。」
「だが俺は、自分では自分のやりたいことをとことんやってきたつもりなんだ。結婚は一度もしなかった。いまでも相変らずその日暮らしで、いま持ってるのも、ジープが一台に、馬が三頭に、あとは身のまわりの品ぐらいのものさ。俺はいまでも、自分の好きなように人生を生きてるつもりだよ。」
 だがそのことは、四十二歳という年齢になっても、二十七歳のときと同じように素晴らしいことなのだろうか?みずからの好奇心を満足させるだけのためになんにでも進んでトライしてみることは、たしかに若いうちは素晴らしい人生かもしれない。だが、つぎにくる自分の人生の節目が五十歳で、同世代の人間はもういまの自分がやっているようなことをやっていないということがわかったときにも、それは素晴らしい人生なのだろうか。
「そのことは俺もよく考えるよ」と彼はいった。「以前俺は、冬場には人が住んだことがないといわれていた標高三千三百メートルの山のなかで生活してたことがある。そこには俺ひとりきりで、一日に三回は雪崩があった。俺はその生活がとても気に入ってたんだが、ときどきその雪崩を見ながら、人生について考えさせられることがあったよ」
「だが、俺が自分の将来を不安に思ったことがあったかっていえば、これまで本気で心配したことは一度もなかったといわざるをえない。俺はたぶんいまでも、一日を朝から晩まで自分の好きなように生きて、それからまた新しい一日を迎えてた時代にどっぷりと足をつけて生きているんだろうな。ほかの人間がもうそんなふうには生きてないってことは俺にだってよくわかってる。だが俺の人生はどうやらこれからもいまのまま一生かわりそうにはないよ」

書きつづける理由 チーズバーガーズ4
ボブ・グリーン 井上一馬[編・訳]
文芸春秋刊

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2006/04/22

BraveLife:ネビル・シュート「渚にて」

渚にて―人類最後の日

「渚にて」は、今から半世紀も前に書かれたSF小説である。
北半球が世界的規模の核戦争により壊滅した近未来が舞台である。
南半球のアフリカ・南米・ニュージーランドそしてオーストラリアには、直接核爆弾が投下されることはなく、徐々に南下する核汚染により人々は死滅するのを待っている。
オーストラリア・メルボルンは、事実上最後に滅亡が予想される都市である。
核戦争を生き延び、その軍港に寄港した米軍原子力潜水艦「スコーピオン号」、その艦長が主人公である。
長編の小説は、オーストラリアの連絡将校の家族と艦長の物語を中心として、ゆっくりと進んで行く。
交わされる紳士的で平凡な会話。核汚染により死滅することが確実であるのに、そのようなことが、まるでないかのごとく営まれている日常の平和な生活が、丁寧に描き込まれる。
核戦争による人類の終末をテーマにしているにも関わらず、先端兵器による壮烈な戦闘シーンも、核戦争の凄惨な情景もない、不思議な未来小説なのである。
「予告された死」こそがテーマである。
実感がないまま、確実に死を迎えることを告知されたら、社会はどうなり、人はどう行動するのか。ネビル・シュートは、その情景を見事に描き出している。
北の都市が次々と滅亡していくなか、その事実を信じようとせず、この都市そして自分には「そのようなこと」が起きるはずがないと人々は思う。
核汚染が近づいても、社会の動揺はごくごくわずかである。
キリスト教徒の国であるオーストラリアであればこその特殊性かもしれない。いよいよその時を迎えても、登場人物達はすべて立派で紳士的である。

多くの人にとって「死」は突然である。そして「予告された死」は日本人にとってあまりに残酷に思われる。
平安期末そして幕末に世の終わりを確信した民衆が、一種の暴動を引き起こした日本人である。日本人の多くにとって、死は恐怖であり平静さを失うに十分すぎるからである。

しかし、「死」はすべての人にとって、いずれ直面する不可避の出来事なのである。事実、自殺を罪悪視するキリスト教以前のヨーロッパ、ギリシャなどの都市国家において、知識人の多くは「死すべき時」を自ら決定し自殺するのが通常だったと言う。

静かで深くそして暖かい「渚にて」を読みながら、そんなことを考えてみることも必要だと思うのである。


渚にて―人類最後の日 渚にて―人類最後の日

著者:井上 勇,ネビル・シュート
販売元:東京創元社
Amazon.co.jpで詳細を確認する


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2006/04/02

BraveLife:中島らも「わが葬儀」

固いおとうふ

中島らも、コピーライター、コラムニスト、小説家、劇団主宰、その他多芸多才。
2004年7月24日、酒に酔って頭部を強打し死去、享年52歳。
まことに彼らしい死様と言わざるを得ない。

ユーモア溢れる独特のコラムに今もファンは多い。
時とともに彼のコラムの読者が減ってしまうのを残念に思う。
数多い著書の一冊「固いおとうふ」に自らの死を語った一編がある。
あえて引用させていただくことで、より多くの人に改めて中島らもを知っていただきたい。


わが葬儀

 僕は自分が三十五歳で死ぬものと決めてかかっていた。知人にそう言われたのと、易者にそう言われたのがきっかけになっての思いこみだった。永年の睡眠薬中毒とブロン中毒、それに深酒。こうしたご乱行の蓄積があったから、三十五歳で死ぬのは当たり前のように思われた。
 当の三十五歳になってみると、きっちりとアルコール性肝炎で倒れた。これで自分は死ぬと覚悟をきめて入院したのだが、人間の体というのはいやしいくらい回復力のあるもので、めきめきと元気になり、五十日間入院してから退院した。このへんのいきさつは『今夜、すべてのバーで』(講談社)にほぼノンフィクションで書いてある。
 今、四十四歳で、あれから約十年たったわけだ。その十年間にいろいろと病気をしたが、今はかなり元気に暮らしている。
 さて、ではいつ死ぬのか、再予測になるわけだが、どうも五十五、六くらいが怪しいのではないか、と思う。先に述べたように、二十代三十代でムチャをしているので、そのツケがどこかに出て、そう長生きはしないように思うのだ。
 五十六歳のある日。朝からどうも頭が激しく痛む。ラジオの出演があるので、ムリをして放送局へ。ラジオが終った後、トイレにたつ。大きい方をすませた後、手を洗っていると、急にクラクラッとなって床に倒れてしまう。脳こうそくである。救急車の車中でそのままあの世へ。
 ま、そんなことではないかと思うのだ。
 もし、この五十六歳を乗り越えたら自分は長生きするだろう。いつも杖を手に町内をうろつき、子供を見たら杖をふりかざして、わーっと追いかける。そういうきらわれもののじじいになるだろう。
 そして、八十六歳でノドのガンで死ぬ。
 晩年は、もう書きものなんかしない。毎日二合くらいの昼酒を飲んで、いい気持ちになったところで町内の見まわりに。
 話は変わるが、この前、モンゴルの遊牧民に関する本をたくさん読んだ。遊牧民たちの羊のほふり方には独特のノウハウがある。ノドのあたりを小さく切開して、そこから手を突っ込んで首の動脈をひきちぎってしまうのである。こうすれば羊は苦しまずにすむ。
 殺したあとの羊は頭から足首まで、徹底的に利用する。血まで無駄にせず使ってしまう。
 僕の死体も、できればそういう風に使ってほしいものだ。目玉、内蔵、せきずい、使えるところはみんな他の人のために使ってほしい。残った部分はミンチにして海に投げ込み、魚のエサにしてほしい。
 お墓はいらない。金がムダである。
 僕という存在の喪失が、しばらくの間人々の間に影を落とし、やがてその影が薄れていって、僕はほんとうの「無」になる。そういうのがいい。

中島らも公式ホームページ

固いおとうふ 固いおとうふ

著者:中島 らも
販売元:双葉社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2006/03/18

BraveLife:本田美奈子.のメッセージ

LIFE~本田美奈子プレミアムベスト~(初回限定盤)(DVD付)

2005年11月6日、歌手・本田美奈子.が白血病で亡くなった。
38歳。その若すぎる死は、あまりに悲しく衝撃的であった。

公式ホームページには、病状が一時好転した7月の本人の音声メッセージが今も公開されている。彼女が亡くなった今、そのメッセージを改めて聞くのはあまりに辛い。
同じくホームページに掲載されている彼女が書いたメッセージをご紹介したい。



2005/5/11 応援してくださっている皆様へ

早いもので、入院してからもうすぐ4ヶ月になろうとしていま
す。皆様に御心配、そして、御迷惑をおかけして申し訳あ
りません。
まさかこんな事になるなんて・・・
自分自身未だに夢を見ている様で信じられません。
でも、これは現実!!現実を受け入れて、病気と戦わなくて
はいけない!と思っていても涙が止まらないのです。
”泣きたい時には泣きましょう”
私の歌『ジュピター』の詞のとおり、泣きたいときは我慢しな
いで泣いています。
そんな私を、いつも優しい笑顔で、病気、そして、心まで治
して下さる、病院の先生方、ナースの方々がいます。
今は全てをお任せして、移植をする事になりました。
怖くないと言ったら”ウソ”になりますが、デビューして20
年!!色々なチャレンジをしてきて、全力で頑張ってチャレ
ンジした後には、新しい自分や輝いている自分が待ってい
てくれました。
そう考えれば、移植もチャレンジすれば、きっと、輝く健康
な自分が待っていてくれる。そう信じています。
1日も早く治して元気な姿でステージにたてる様、頑張り
ます。
皆様からの暖かい心の込もったメッセージ、沢山ありがとう
ございます。私にとって、何よりも支えです。
きっと、きっと、元気な姿で皆さんのもとへ帰ります。
きっと・・・きっと・・・
待っていてくださいね。

いっぱいの愛をありがとうございます。
心を込めて・・・

本田美奈子.





AVE MARIA

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2006/02/18

BraveLife:スティーブ・ジョブズの卒業祝賀スピーチ

このカテゴリーの説明は難しいのです。
「充実した人生を生きる。」とか「我が人生に悔いなし」とか。
その答えが見つからないのです。
妙に気ばかり焦る今日この頃なのです。

アップルコンピューター創業者のスティーブ・ジョブズのスピーチを紹介することで、テーマの説明とさせていただきたいと思います。
話題になったので、すでにお読みになった方も多いと思います。
ちょっと長いですが、一気に掲載させていただきます。
2005年6月、スタンフォード大学の卒業式でのスピーチです。

****************************
ジョブズの卒業祝賀スピーチ
2005年6月12日、スタンフォード大学
****************************

 PART 1 BIRTH

 ありがとう。
世界有数の最高学府を卒業される皆さんと、本日こうして晴れの門出に同席でき大変光栄です。
実を言うと私は大学を出たことがないので、これが今までで最も大学卒業に近い経験ということになります。

 本日は皆さんに私自身の人生から得たストーリーを3つ紹介します。
それだけです。
どうってことないですよね、たった3つです。
最初の話は、点と点を繋ぐというお話です。

 私はリード大学を半年で退学しました。
が、本当にやめてしまうまで18ヶ月かそこらはまだ大学に居残って授業を聴講していました。
じゃあ、なぜ辞めたんだ?ということになるんですけども、それは私が生まれる前の話に遡ります。

 私の生みの母親は若い未婚の院生で、私のことは生まれたらすぐ養子に出すと決めていました。
育ての親は大卒でなくては、そう彼女は固く思い定めていたので、ある弁護士の夫婦が出産と同時に私を養子として引き取ることで手筈はすべて整っていたんですね。
ところがいざ私がポンと出てしまうと最後のギリギリの土壇場になってやっぱり女の子が欲しいということになってしまった。
で、養子縁組待ちのリストに名前が載っていた今の両親のところに夜も遅い時間に電話が行ったんです。
「予定外の男の赤ちゃんが生まれてしまったんですけど、欲しいですか?」。
彼らは「もちろん」と答えました。

 しかし、これは生みの母親も後で知ったことなんですが、二人のうち母親の方は大学なんか一度だって出ていないし父親に至っては高校もロクに出ていないわけです。
そうと知った生みの母親は養子縁組の最終書類にサインを拒みました。
そうして何ヶ月かが経って今の親が将来私を大学に行かせると約束したので、さすがの母親も態度を和らげた、といういきさつがありました。

               ◆◇◆

 PART 2 COLLEGE DROP-OUT

 こうして私の人生はスタートしました。
やがて17年後、私は本当に大学に入るわけなんだけど、何も考えずにスタンフォード並みに学費の高いカレッジを選んでしまったもんだから労働者階級の親の稼ぎはすべて大学の学費に消えていくんですね。
そうして6ヶ月も過ぎた頃には、私はもうそこに何の価値も見出せなくなっていた。
自分が人生で何がやりたいのか私には全く分からなかったし、それを見つける手助けをどう大学がしてくれるのかも全く分からない。
なのに自分はここにいて、親が生涯かけて貯めた金を残らず使い果たしている。
だから退学を決めた。
全てのことはうまく行くと信じてね。

 そりゃ当時はかなり怖かったですよ。
ただ、今こうして振り返ってみると、あれは人生最良の決断だったと思えます。
だって退学した瞬間から興味のない必修科目はもう採る必要がないから、そういうのは止めてしまって、その分もっともっと面白そうなクラスを聴講しにいけるんですからね。

 夢物語とは無縁の暮らしでした。
寮に自分の持ち部屋がないから夜は友達の部屋の床に寝泊りさせてもらってたし、コーラの瓶を店に返すと5セント玉がもらえるんだけど、あれを貯めて食費に充てたりね。
日曜の夜はいつも7マイル(11.2km)歩いて街を抜けると、ハーレクリシュナ寺院でやっとまともなメシにありつける、これが無茶苦茶旨くてね。

 しかし、こうして自分の興味と直感の赴くまま当時身につけたことの多くは、あとになって値札がつけられないぐらい価値のあるものだって分かってきたんだね。

 ひとつ具体的な話をしてみましょう。

               ◆◇◆

 PART 3 CONNECTING DOTS

 リード大学は、当時としてはおそらく国内最高水準のカリグラフィ教育を提供する大学でした。
キャンパスのそれこそ至るところ、ポスター1枚から戸棚のひとつひとつに貼るラベルの1枚1枚まで美しい手書きのカリグラフィ(飾り文字)が施されていました。
私は退学した身。
もう普通のクラスには出なくていい。
そこでとりあえずカリグラフィのクラスを採って、どうやったらそれができるのか勉強してみることに決めたんです。
 セリフをやってサンセリフの書体もやって、あとは活字の組み合わせに応じて字間を調整する手法を学んだり、素晴らしいフォントを実現するためには何が必要かを学んだり。
それは美しく、歴史があり、科学では判別できない微妙なアートの要素を持つ世界で、いざ始めてみると私はすっかり夢中になってしまったんですね。

 こういったことは、どれも生きていく上で何ら実践の役に立ちそうのないものばかりです。
だけど、それから10年経って最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計する段になって、この時の経験が丸ごと私の中に蘇ってきたんですね。
で、僕たちはその全てをマックの設計に組み込んだ。
そうして完成したのは、美しいフォント機能を備えた世界初のコンピュータでした。

 もし私が大学であのコースひとつ寄り道していなかったら、マックには複数書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、
ウィンドウズはマックの単なるパクリに過ぎないので、
パソコン全体で見回してもそうした機能を備えたパソコンは地上に1台として存在しなかったことになります。

 もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、あのカリグラフィのクラスにはドロップイン(寄り道)していなかった。
そして、パソコンには今あるような素晴らしいフォントが搭載されていなかった。

 もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。
だけど10年後振り返ってみると、これほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。
もう一度言います。
未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。
だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。
自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。
点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。
結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。
信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。

               ◆◇◆

 PART 4 FIRED FROM APPLE

 2番目の話は、愛と敗北にまつわるお話です。
 私は幸運でした。
自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができた。
実家のガレージでウォズとアップルを始めたのは、私が二十歳の時でした。
がむしゃらに働いて10年後、アップルはガレージの我々たった二人の会社から従業員4千人以上の20億ドル企業になりました。
そうして自分たちが出しうる最高の作品、マッキントッシュを発表してたった1年後、30回目の誕生日を迎えたその矢先に私は会社を、クビになったんです。

 自分が始めた会社だろ?どうしたらクビになるんだ?と思われるかもしれませんが、要するにこういうことです。
アップルが大きくなったので私の右腕として会社を動かせる非常に有能な人間を雇った。
そして最初の1年かそこらはうまく行った。
けど互いの将来ビジョンにやがて亀裂が生じ始め、最後は物別れに終わってしまった。
いざ決裂する段階になって取締役会議が彼に味方したので、齢30にして会社を追い出されたと、そういうことです。
しかも私が会社を放逐されたことは当時大分騒がれたので、世の中の誰もが知っていた。

 自分が社会人生命の全てをかけて打ち込んできたものが消えたんですから、私はもうズタズタでした。
数ヶ月はどうしたらいいのか本当に分からなかった。
自分のせいで前の世代から受け継いだ起業家たちの業績が地に落ちた、
自分は自分に渡されたバトンを落としてしまったんだ、そう感じました。
このように最悪のかたちで全てを台無しにしてしまったことを詫びようと、デイヴィッド・パッカードとボブ・ノイスにも会いました。
知る人ぞ知る著名な落伍者となったことで一時はシリコンヴァレーを離れることも考えたほどです。

 ところが、そうこうしているうちに少しずつ私の中で何かが見え始めてきたんです。
私はまだ自分のやった仕事が好きでした。
アップルでのイザコザはその気持ちをいささかも変えなかった。
振られても、まだ好きなんですね。
だからもう一度、一から出直してみることに決めたんです。

 その時は分からなかったのですが、やがてアップルをクビになったことは自分の人生最良の出来事だったのだ、ということが分かってきました。
成功者であることの重み、それがビギナーであることの軽さに代わった。
そして、あらゆる物事に対して前ほど自信も持てなくなった代わりに、自由になれたことで私はまた一つ、自分の人生で最もクリエイティブな時代の絶頂期に足を踏み出すことができたんですね。

 それに続く5年のうちに私はNeXTという会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性と恋に落ち、彼女は私の妻になりました。

 ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映画「トイ・ストーリー」を創り、今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオです。

 思いがけない方向に物事が運び、NeXTはアップルが買収し、私はアップルに復帰。
NeXTで開発した技術は現在アップルが進める企業再生努力の中心にあります。
ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。

 アップルをクビになっていなかったらこうした事は何ひとつ起こらなかった、私にはそう断言できます。
そりゃひどい味の薬でしたよ。
でも患者にはそれが必要なんだろうね。
人生には時としてレンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こるものなのです。
だけど、信念を放り投げちゃいけない。
私が挫けずにやってこれたのはただ一つ、自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。
皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。
それは仕事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを占めていくだろうけど自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ一つ、自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかない。
そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ一つ、好きなことを仕事にすることなんですね。
まだ見つかってないなら探し続ければいい。
落ち着いてしまっちゃ駄目です。
心の問題と一緒でそういうのは見つかるとすぐピンとくるものだし、素晴らしい恋愛と同じで年を重ねるごとにどんどんどんどん良くなっていく。
だから探し続けること。
落ち着いてしまってはいけない。

               ◆◇◆

 PART 5 ABOUT DEATH

 3つ目は、死に関するお話です。

 私は17才の時、こんなような言葉をどこかで読みました。
確かこうです。
「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。
それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。
そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。
「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。
それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。

 自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。
これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。
何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。
そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。
自分もいつかは死ぬ。
そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。
 君たちはもう素っ裸なんです。
自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。

               ◆◇◆

PART 6 DIAGNOSED WITH CANCER

 今から1年ほど前、私は癌と診断されました。
朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。
私はその時まで、すい臓が何かも知らなかった。
 医師たちは私に言いました。
これは治療不能な癌の種別である、ほぼ断定していいと。
生きて3ヶ月から6ヶ月、それ以上の寿命は望めないだろう、と。
主治医は家に帰って仕事を片付けるよう、私に助言しました。
これは医師の世界では「死に支度をしろ」という意味のコード(符牒)です。
 それはつまり、子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことがあるのなら思いつく限り全て、なんとか今のうちに伝えておけ、ということです。
たった数ヶ月でね。
それはつまり自分の家族がなるべく楽な気持ちで対処できるよう万事しっかりケリをつけろ、ということです。
それはつまり、さよならを告げる、ということです。
 私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。
そしてその日の夕方遅く、バイオプシー(生検)を受け、喉から内視鏡を突っ込んで中を診てもらったんですね。
内視鏡は胃を通って腸内に入り、そこから医師たちはすい臓に針で穴を開け腫瘍の細胞を幾つか採取しました。
私は鎮静剤を服用していたのでよく分からなかったんですが、その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、顕微鏡を覗いた医師が私の細胞を見た途端、急に泣き出したんだそうです。
何故ならそれは、すい臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍で、手術で直せる、そう分かったからなんです。
こうして私は手術を受け、ありがたいことに今も元気です。
 これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験ということになります。
この先何十年かは、これ以上近い経験はないものと願いたいですけどね。

 以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。
でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を持って君たちに言えることなんだが、誰も死にたい人なんていないんだよね。
天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。
にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。
 かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。

そしてそれは、そうあるべきことだから、そういうことになっているんですよ。
何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。
それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。
今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことだ。
しかしいつか遠くない将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。
とてもドラマチックな言い草で済まんけど、でもそれが紛れもない真実なんです。

 君たちの時間は限られている。
だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。
ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。
それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。
その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。
自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。
だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。

               ◆◇◆

 PART 7 STAY HUNGRY, STAY FOOLISH

 私が若い頃、"The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)"というとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。
 それはスチュアート・ブランドという男がここからそう遠くないメンローパークで製作したもので、彼の詩的なタッチが誌面を実に生き生きしたものに仕上げていました。

時代は60年代後半。パソコンやデスクトップ印刷がまだ普及する前の話ですから、媒体は全てタイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作っていた。
だけど、それはまるでグーグルが出る35年前の時代に遡って出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと偉大な概念がそれこそページの端から溢れ返っている、そんな印刷物でした。
 スチュアートと彼のチームはこの”The Whole Earth Catalogue”の発行を何度か重ね、コースを一通り走り切ってしまうと最終号を出した。
それが70年代半ば。
私はちょうど今の君たちと同じ年頃でした。

 最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎道の写真が1枚ありました。
君が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そんな田舎道の写真です。
写真の下にはこんな言葉が書かれていました。

「Stay hungry, stay foolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」。

それが断筆する彼らが最後に残した、お別れのメッセージでした。

「Stay hungry, stay foolish.」 

それからというもの私は常に自分自身そうありたいと願い続けてきた。
そして今、卒業して新たな人生に踏み出す君たちに、それを願って止みません。

Stay hungry, stay foolish.

ご清聴ありがとうございました。

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The Stanford University Commencement address by
Steve Jobs
CEO, Apple Computer
CEO, Pixar Animation Studios

スタンフォード公式URL&録画映像
http://news-service.stanford.edu/news/2005/june15/videos/51.html
http://news-service.stanford.edu/news/2005/june15/jobs-061505.html
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