カテゴリー「日本が危ない」の記事

2009/01/23

日本が危ない:歴史で学ぶ「日雇派遣」問題の本質 4

「派遣切り」をどう解決するかのいくつかのアイディア
 一部評論家などが主張するような「日雇派遣の禁止」、すなわち派遣業法の再改正によって、日雇やごく短期の派遣、そして製造・建設などの業種への派遣禁止をすることで、この問題が解決しえないことは、以上みてきたように明らかである。
 戦後日本は労働基準法など法や行政制度上の建前では、直接雇用を原則とし日雇労働を例外として、間接労働を認めない国であった。しかし、その実態は、戦前からの労働者供給事業そして請負制度が実質的に温存され、大企業の工場内でさえ「社外工」「臨時工」さらには社内のみ通用する符牒で区別される下請企業の労働者が多数存在する国であった。大企業正社員と下請企業社員では歴然とした賃金格差や待遇格差が存在したが、法の建前と整合性をとるため名目的に職務に差異を設けるなどして、それを労働行政が黙認するような国であった。
 日雇派遣の禁止は、その格差を解消するどころか、労働環境を再び「戦後改革の建前」へと押し戻してしまうだけであり、何らの解決にもならないことは、あまりに明らかである。

 では、この問題はどう解決されるべきだろうか。どれも決定的とは言えず、別の問題も新たに引き起こす可能性があることを予め断りつつ、次の2つを提案したい。

  1. 労働契約書面化義務化と解雇規制の導入
  2. 同一労働同一賃金原則の法制化と雇用保険制度の抜本改正

 現行法では、労働契約は書面によることを求められていない。そのため、ひとたび転勤や減給・解雇などの問題が生じると、そもそもどのような条件で雇用されていたかを客観的に証明することは相当に困難である。それが、使用者に対して労働者が弱い立場におかれる大きな原因の一つである。
労働の内容、就業場所、賃金、期間などを雇用開始時に契約書として取り交わすことで、多くの問題は予防できる。この書面化の義務づけが法制化できない最大の理由は大企業が反対しているからである。事後的解決を容易にすることで、不当解雇などが予防できることは疑いがない。
 解雇規制にも、大企業を含む多くの雇用者は反対である。戦後長い期間、労働者の安易な解雇は公共職業安定所などの行政指導で抑制されてきた。その法によらない事実上の規制が一気に撤廃されたのが「小泉改革」のことである。確かに行政機関による恣意的な規制は好ましくない。労働者保護の観点にたって、労働基準法などに明確に解雇要件を限定列挙するのが法治国家であろう。
 ただし、この2つの導入により、短期的には求人需要は大きく減少することは避けられない。容易に解雇できればこそ、企業は雇用に積極的になるという側面は決して否定できないからである。したがって、解雇が横行し求人ニーズが減少している時期に、このような法規制を導入することは実際問題として不可能である。
 ワークシェアリングの導入が経済団体から提起されている状況では、2点目の同一労働同一賃金原則の法制化と労働行政諸制度の抜本改正が現実的解決策として有力である。
 賃金総額の圧縮・労働時間あたりの雇用者数増加などの側面だけで、ワークシェアリングは検討されるべきものではない。日本における少子高齢化の進行と労働者数の長期的減少などを前提として、労働者の労働条件の多様化の視点で論じられるべき大きな課題なのである。
重要なのは「同一労働・同一賃金」の原則である。同じ仕事なら時給単価は同じでなくてはならない。いかにも当然に思えるが、それが実現していないのが日本の実情である。正社員と派遣社員が全く同じ仕事を一緒にしていても、手取総賃金(ボーナスや年金額などを含む)は大きく異なる。労働者自身も何となくそれが当然と思っている、それが日本である。
 確かにある仕事の価値を客観的に金額に換算するのは難しいが、同じ仕事をしているときに、それを「誰」が行おうが同じ金額を払うことは、さほど難しいことではない。「同一労働・同一賃金」とはそのような意味であって、存在するどの仕事とどの仕事が同じ価値を持つのかを決めることではない。
 ボーナスや年金などを含め、この原則が適用できるよう法規定を整備することは、さほど難しい作業ではない。すべてを時給換算し比較可能となるよう「標準的な換算方法」を明確にするだけだからである。
 むしろ、より直接的な問題として雇用保険制度を抜本改正することが重要である。いくつもの案が考えられるが、最も現実的なのは現在の日雇雇用保険の仕組みを洗練・整理して、すべての労働者に適用させるとのアイディアである。
 現在、月給・年俸などにより給料が支給されている場合は、各種手当・ボーナスなどを加えた総額を、総労働時間で除して時給換算する。そのように、労働形態に関わらず、すべての賃金を時給に統一したうえで、時給あたりの納入印紙額を決定し、納付済印紙額を労働者個人毎に交付する雇用保険カードに記録するのである。
納付は実際に印紙である必要はなく、現行の源泉徴収と同様に会社で一括納入も認める。
 いざ失業状態になれば、雇用保険カードに記録された印紙納入額に応じて、失業手当に日額と期間が決定する。年間30日労働した人も、何十年間も勤続した人も、単純に金額換算した労働価値に応じて給付を受けられれば良いのである。
雇用の形態別に保険制度を細分化するのが愚である。時代の変化とともに、雇用形態多様化し変化するたびに、制度が複雑化し無理が生じるのは避けられない。
そのようなシンプルなセーフティネットを整備し、「同一労働・同一賃金」を法に明文化し徹底することで、日雇派遣で顕在化した「労働をめぐる格差」は抜本的に解消できるはずである。

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2009/01/21

日本が危ない:歴史で学ぶ「日雇派遣」問題の本質 2

戦前の労働環境
 
明治維新によって始った近代日本だが、労働環境に関しては江戸時代以来の歴史的背景による日本独特のものも少なくない。欧米の多くの国が産業革命後に、中世の停滞から突然急速に資本主義的経済制度に変化したのに対し、江戸期の日本は経済制度においては既に相当に商品経済が発展していたためである。
 資本論で単純化されるように、欧米各国においては「生産財」を独占する資本家と土地所有者、そして「労働力」以外をもたない労働者しかいない。資本家は「商品」を生産するための「資源」の一つとして「労働者」を必要とする。すなわち労働者も一つの「財」として「雇用」されるものであった。初期資本主義体制下にあって、労働者の保護立法や団結はこのような背景のもとに発展していったのである。
 日本においては、封建体制下にありながら商品生産と全国的流通が江戸時代に相当に発達していた。大小の商品生産者がいて、それを流通させる回船などが運行され、消費者に販売する商店も組織化されている。その各段階で労働力が必要とされ、実に多様な雇用関係が成立していたのである。
 その意味で、欧米の近代的労働法制は明治期にあって、すでに日本の労働環境に十分適合できなかったと言っても良い。例えば、奴隷的労働の象徴のように思われている芸伎・女郎や丁稚奉公だが、実は江戸時代的な法体系ではあるものの立派に「法の保護」を受けている。いずれも一定年限の労働により契約は終了し自由に身になる。しかも「雇用期間中」の解雇や懲罰などについても厳しい規制があった。そのような複雑な労働契約に、皮肉なことに明治維新後の近代法制は十分対応できなかったのである。
 明治維新後、戦前まで時代の進行とともに労働環境は急激に変化したが、日本的労働環境として特徴的なものの一つに「請負」「人夫供給」があげられるだろう。いずれも、工場や建設現場など労働者を必要とする所へ「労働者を供給する」事業である。労働者を必要に応じて提供することが「仕事」なのである。
「請負」は現在では「請負契約」として法的枠組みが明確化しているが、前近代から存在する「請負」の意味はより広い。ある人は何かの仕事をしてもらったり、何かを作ってもらったりする一切が「請負」に含まれる。現在の「委託」や「代理」をも含めるとイメージが近くなる。その「請負」を行う組織が「組」である。今でも建設関係の会社に残る呼称であるが、基本的には抽象的な法人ではなく「人の集合体」と考えたほうが実態に近い。
「人夫供給」も基本的には「組」が行う。熟練を要しない単純労働などが中心で「組」に所属する者を個人単位で提供する仕組みである。もちろん、組織だって作業する場合の統制は「組」が行うが、通常は供給を受けたものが直接指揮をしたようである。今で言う日雇派遣はこれに極めて近い。
 「組」は人の集合体で常にある組織である。従って「請負」仕事がないときなどは組の構成員の面倒は「組」がみる、これが基本である。従って仕事が少ない不況のときなども「組」に所属する労働者は、とりあえず食うには困らないのである。「組」にとって構成員である労働者こそが肝心であって、大きな「請負」仕事を受けたときや好景気のときに人手不足にならないように、通常は過剰な労働者を抱え込む必要があったからである。熟練した労働者はどの「組」にとっても大切な資源であって抱え込む価値があった。熟練労働者を育てるのには多くの金と時間が必要で、容易には調達できない貴重な「資源」そのものだからである。
 その「組請負」と「人夫供給」が、明治以降の工場生産現場や建築現場などに幅広く取り込まれたのである。
財閥系の大資本が建設する工場には数少ない社員がいるが、生産現場そのものは傘下の複数の「組」が「請負」をし、労働者を提供するわけである。同じ工場内で所属する「組」の異なる労働者が共同作業することも珍しくなかったようである。その労働者の直接の監督者が「組」の労働者であり、財閥系会社の正社員がその監督者達を統制する。請け負った「組」が更に傘下の「組」に仕事を下ろすこともある。そんな重層構造を、日本の近代工業の現場はその当初から持っていたのである。
 財閥系企業は機械設備などのみを自己調達し、労働力の調達は「組」に依存することで、景気変動によるリスクを低減することができた。逆に言えば景気動向によらず如何に安定的に「請負」を受けられるかが「組」の器量の見せ所であり、親会社への絶対的忠誠心や不況時の組の構成員の抱え込みなどが常態化する背景となった。
 戦後改革の視点から見れば、この構造は「間接雇用による中間搾取のための構造」に他ならない。ある生産物を作るために労働者に支払われる賃金は、「組」が請負うことで1段階減少し、下請けに出されることで更に減少するからである。
 戦後、法的には廃止された「組請負」や「人夫供給」であったが、その実態は事実上温存されたのである。それは、何より旧財閥系大企業が絶対的に必要としたからであり、戦後の極度に疲弊した日本経済にあって労働者自身も求めたことだからである。米軍占領下にあって、違法的な存在をどう存続させたのか?
その手段は至って単純である。官労使の「暗黙の合意」のもとで、書類上・形式上だけ全てが合法的に偽装されたのである。そして、その監督機関である労働基準監督署には極めて少数の職員しか配置されず、その法的権限の行使も限定的に制約されたのである。戦後から高度成長期にかけて、非合法な雇用関係は数限りなくあっても実質的な取り締まりは労働基準監督署しか出来ず(警察は基本的に労使関係など民事事件には介入できない)、その労働基準監督署の数は少なく係官はわずかであった。しかも、労働基準監督官には高度な中立性と公平性が求められ、労働者保護管的役割は与えられることはなかった。
今でもその基本は変わっていない。もし、貴方が賃金支払いなどで会社側とトラブルになったら最寄りの労働基準監督署に相談してみれば、そのことがすぐ実感できる。
まず、よほど運が良くなければ歩いていけるほど近くに労働基準監督署がない。そして相談は平日昼間しかできない。しかも、電話では誤解があるといけないとの理由で来庁するよう求められる。そのうえで、本当にそのような支払いの約束があったかの証明を用意するように求められる。書面による証拠がなければそこで終わり。貴方が慎重で書面を取り交わしていたとして、労働者である貴方に「違約」行為がなかったかが厳しく審査され、いよいよ会社に非があるとなれば「指導」となる。ただし、実名を明かさなければ「直接指導」は行えない。匿名の場合は内偵捜査が行われるが何ヶ月もかかるのが一般的で確証が得られなければ会社が処分を受けることはまずない。
すなわち、貴方が解雇され以後何の関わりもない状態にならない限り、労働基準監督署に期待できることはほとんどない。
それが、この国の労働行政の実態なのです。

次回は、日雇派遣が禁止された場合に予想される新たな労働問題を考えてみたい。

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日本が危ない:歴史で学ぶ「日雇派遣」問題の本質 3

労働者供給事業の不思議
 職業安定法第45条に「労働組合等が、労働大臣の許可を受けた場合は、無料の労働者供給事業を行うことができる」という不思議な規定がある。前条で労働者供給事業が全面的に禁止されているが、その唯一の例外を認めた条文である。戦後の労働環境改革の主眼は、間接雇用の禁止による直接雇用への一元化であったわけだが、なぜこのような例外規定が設けられたのか。
 ここには、理想や建前ではどうにもならない日本の必要悪としての伝統的雇用慣行があった。この規定の適用が想定されたのは、主として港湾・鉄道荷役と土木建設作業である。曲がりなりにも欧米諸国を模範として近代日本に定着した工場労働やオフィス労働には、実態はともかくとして間接雇用が不可欠であるとの「言い訳」は難しい。ところが、労働時間が不定期で天候などにも影響されて仕事量の変動が大きい労務作業については、いわゆる日雇労働者がどうしても必要であった。日雇労働者を商船会社や建設会社が直接雇用することは、素人が考えてもいかにも困難である。
 米軍の指令により間接雇用は廃止しなければならない、しかし直接雇用が難しい労役作業は現に存在し、しかもそれは戦後日本にとって不可欠な港湾作業や建設作業である。いかにも日本の秀才官僚が考えつきそうな「解決策」が職業安定法第45条である。
 この条文の目的とすることは、戦後合法化され民主化の一環として設立が奨励された労働組合が、新たに労働者供給事業を開始することを促進することではない。戦前から「組」により担われてきた港湾荷役・鉄道荷役・土木工事・建設工事などへの労働者の提供を「合法化」することを目的としているのである。
 その仕組みはこうである。従来「組」が労働組合として届け出るのである。労働者の自発的に結成する労働組合には、戦後に制定された労働組合法によって雇用者はもちろん行政も組織や運営につき関与できない。その理由は労働組合運動への不当な干渉を排除することにあったが、それを逆手にとるわけである。実質的な組の幹部を含め労働者を支配する側の者をも「労働者」としてしまうことで、「組」全体を「労働組合」とする。そうすることで、従来の支配関係も指揮命令系統もそっくり温存されたまま、合法的に港湾荷役などに労働者を従来どおりに派遣できるというわけである。
 この例外的労働形態として残存した日雇労働者のために、行政が用意したのが先に説明した日雇雇用保険(日雇労働求職者給付金)である。
日雇労働者には、いくつかの特徴がある。まず日々別の雇用主に雇用されるのが一般的である。就業場所が一定しない。雇用主においては労働者を特定する必要がない。などである。
 その結果、日雇雇用保険は、例外的に労働者が「個人」で加入する形となっている。すなわち、1日雇用されるたびに、雇用主が購入した印紙の交付を受けて保険料を納付するのである。その印紙を手帳に貼付しておくことで、いざ仕事がない時には日当がハローワークから支給される。
 通常の雇用保険(失業保険)は継続する雇用関係があることを前提として、保険料は労使が折半し、雇用者が一括して国に納付する。失業給付を受けるに際しても解雇等をした雇用主が離職票などを発行するなど、むしろ事業所単位に運営されている感があるのと対照的である。
 労働者供給事業を合法化したこの条文は一度も改正されることはなく、今も日雇労働者の雇用形態を合法化する根拠となっている。この戦後改革ですらアンタッチャブルであった分野に、新たな雇用形態として、労働者派遣法により合法化されたのが日雇派遣であると考えると分かり易い。
 したがって、日雇派遣労働者は、正規雇用者・非正規労働者はもちろん、通常の日雇労働者とも法的・行政制度的には異質な存在なのである。

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2009/01/18

日本が危ない:歴史で学ぶ「日雇派遣」問題の本質 1

 年末の日比谷公園「年越し派遣村」で一躍注目を浴びた日雇派遣だが、大手マスコミの新聞報道はいつものことながら、一部の人気評論家の解説を読んでも、日雇派遣問題の本質がよく解っていないように思われる。
 解散が先送りとなり停滞する日本政治とシンクロして、硬い話題への情熱を失って久しい本ブログだが、派遣労働を巡る労働問題については、若干研究したこともあることから、今回は久々に硬く論じてみたい。

 歴史を振り返ることで物事の本質は理解できることが多い。日本の労働問題は、そのようなアプローチが最も効果的な分野の一つと言って良いだろう。
以下、日本の労働環境が大きく変化した3つの時期に区分して考えていきたい。

戦後民主改革による労働環境
 明治維新により幕をあけた近代日本の労働環境は、戦後の米軍による一連の民主改革により激変した。意外に思われるかもしれないが、戦後間もなくに形作られた労働環境を支える法体系や労働行政や雇用保険制度などは、50年を経た現在も驚くほど変わっていない。
 戦後改革の一貫した基本は、使用者(雇用者)と労働者に「介在するもの」の徹底的な排除にある。労働者は工場所有者などの雇用者が直接雇用すること、その徹底にあった。
 それはすなわち、労働者供給事業・労働者派遣事業・労働者紹介事業などの禁止を意味する。労働者を「商品」として、工場所有者など「資本の所有者」に提供することを禁止したのである。
 労働者を「商品」として第三者に「販売」「貸与」するような事業は、洋の東西を問わず広く存在してきた。最も有名なものをあげればアフリカからアメリカに奴隷を「販売」した奴隷商人をあげることができる。日本においても例外ではなく、江戸時代から「口入れ屋」などの職業紹介業者や「人買い」と呼ばれる労働者斡旋業者が数多く存在してきた。
 更には、戦時体制の強化により、労働者の離職・転職・就職の自由は極度に制限され、国の機関によってほぼ完全に統制されているのが、敗戦時の日本の状況であった。
 戦後改革により、労働者は原則として全て資本の所有者に直接雇用されるものだけに、少なくとも法的には整理された。その労働者が、雇用の形態により「正規労働者」と「非正規労働者」そして「日雇い労働者」に分類されたのである。
 正規労働者は労働基準法などが完全に適用される常用労働者であり、非正規労働者とは労働時間が短い・労働日数が少ないなど「常用」されているとは言いにくいあらゆる労働形態を含む、所謂パート・アルバイトと呼ばれる人々である。そして、日雇い労働者は後述する歴史的要因により、法的・制度的に別扱いとされた日々雇用される労働者である。
 労働基準法は労働環境の基本法であり、戦前の工場法などを拡充したものであり原則として全労働者に適用される。ただし、その水準は第一次大戦後まもなくのILO条約とほぼ同じであり、当時の欧米各国に比べて随分と見劣りするものであった。これが後々日本バッシングの要因となるが本論の趣旨とは関係ないので、ここでは詳述しない。常用雇用者は失業保険(現在の雇用保険)制度により保護される。概ねその3/4の労働を行う非常用雇用者も同様である。日雇い労働者には、別途日雇い労働者だけの別保険制度を作る。それが戦後の労働環境を維持してきた法制度である。では、常用雇用の3/4に満たない非常用雇用者はどうしたのか?民間職業紹介事業などが原則として一切禁止され、国の公共職業紹介所が労働仲介の一切を独占している状況下での強力な行政指導により、そのような短時間の雇用を使用者に対し基本的に認めなかったのである。すなわち、そのような労働者は「制度適用上は存在しない」それが建前として、ごく最近まで通用していたのである。日雇労働保険は、港湾労働や建設現場の作業員などに極めて限定的・例外的に適用され、一般の短時間労働者や臨時労働者には適用されることはない。この状況は今も同じである。
 最近の「日雇い切り」批判を受け、厚生労働省は日雇労働保険(正式には「日雇労働求職者給付金」)が日雇派遣労働者にも適用されるとの広報を始めている。ところが、実際には普通の日雇派遣労働者が、この給付金を受け取る可能性は限りなく小さい。まず、この保険の対象者となるためには日雇手帳の交付を受けなければならない。ところが、この取り扱いを行うハローワークは平成20年12月現在で全国でわずか6カ所だけなのである。

  1. 船橋(千葉県船橋市)
  2. 新宿(東京都新宿区)
  3. 名古屋中(名古屋市中村区)
  4. 大津(滋賀県大津市)
  5. 大阪東(大阪府大阪市中央区)
  6. 神戸(兵庫県神戸市中央区)

関心のある方ならすぐ分かるが、いずれも港湾労働者などが集中する地区にあって、近隣は独特の雰囲気がある。
もし日雇手帳の交付を受けたとすれば、1日雇用されるたびに雇用者(派遣労働者なら派遣会社)から証紙を一枚貼付してもらわなければならない。その枚数が直近2ヶ月で26枚あれば、職が得られなかった「その日」に上記6カ所のハローワークに早朝(ハローワークによって異なる)出頭することで、その日の昼前頃に給付金が支給される仕組みなのである。しかも、出頭時にはハローワークでは「通常の」日雇仕事の紹介を行う。これを拒否すれば当然に給付金は支給されない。
これでは、実質的に日雇派遣労働者が給付金を受けられる可能性はないわけである。

次回は、戦後改革によって禁止され消滅した「はずの」明治〜昭和戦前期の労働環境を検証してみたい。間接雇用と中間搾取の温床となった日本的労働環境は姿を変えて生き残ったのである。
その「原点」を知ることで、日雇派遣を禁止することで、どのような労働環境が出現するのかが明確になる。日雇派遣を禁止すれば、常用雇用が増加するとの認識はあまりに歴史を知らないがゆえの「幻想」に過ぎない。
戦前の亡霊を復活させないための「新たな雇用者への法規制」を伴わない限り、日雇派遣の禁止は、労働環境の戦前への回帰を生み出すだけである。
それは、誰も望まない結末のはずである。あるいは未だ戦後改革の幻想の中にいる旧労働官僚は、それを望んでいるかもしれないのだが。

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2008/10/15

日本が危ない:森永卓郎「役所のマインドコントロールから脱け出せ!」

このようなブログを開設していると、自然と政治評論や経済評論を良く読むようになる。
欠かさずチェックしているサイトの一つが日経BP「SAFETY JAPAN」である。
様々なジャンルの一流の筆者によるコラムが掲載されていて、今の日本を多面的に理解できる希少で貴重なサイトである。

中でもお気に入りのコラムニストが森永卓郎氏である。もともと頭も良くてユニークな視点で物事を見ることができる秀才なのだが、その親近感溢れる容姿と語り口で、テレビでも大人気の評論家である。

その2008年10月10日に掲載されたコラム「役所のマインドコントロールから脱け出せ!」を読んで驚いた。

このブログで2008年5月21日と6月29日に掲載した年金全額税方式試算を取り上げたコラムと、着眼点などがそっくりだったからである。

日本が危ない:年金税方式試算を読み解く
http://bigbrother.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_f482.html

日本が危ない:年金税方式試算の偽装〜政府よ!おまえもか〜http://bigbrother.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_a80a.html

両方のコラムに共通するのは、

  • 官僚は資料を「意図」を持ってつくる。
  • オリジナルの資料は公表するが、容易に見つけられないように工夫する。
  • 「意図」に沿うようにデータを加工するが、その旨をすぐに判らないようにしつつもハッキリと注記する。
  • マスコミメディアは役所の資料を鵜呑みにする広報機関に成り下がっている。
  • 役所(官僚)は国民を欺く「悪」である。

このブログでは厚生労働省の年金全額税方式試算を題材としたが、森永氏は財務省の課税最低限国際比較と同じ厚生労働省の世代別年金給付の将来シミュレーションを例にとっている。

もし森永氏が「すばらしき新世界」のコラムに触発されて、今回のコラムを書かれたのだとすれば、そんな素晴らしいことはない。
名もなきブログの片隅で、ごくわずかの読者しか知ることのなかった「官僚の悪意ある偽装」、森永氏の言葉によれば「役所のマインドコントロール」が、比べものにならないほど多くの国民の知るところとなるからである。

もし森永氏が「すばらしき新世界」のコラムなど知ることなく、今回のコラムを書かれたのだとすれば、更に素晴らしいことである。まさにネットコラムニスト冥利に尽きると言える。
一流大学を出て、ばらしい経歴を持つ評論家と、同じ着眼点を持ち、官僚の欺瞞を断罪したことが証明されたからである。
批評・評論をするものにとって、読者の反応、事実の錯誤の有無そして批評の正しさは最も気になることである。直接、世間の評価が定着している方から評価されるのはもちろんだが、同一内容の評論がなされることは同様の喜びにほかならない。

今回の喜びを糧にして、世俗の楽しみの多い横浜に転居してから滞りがちであった「すばらしき新世界」を頻繁に更新していきたいと心に誓ったのである。





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2008/06/29

日本が危ない:年金税方式試算を読み解く

何かと忙しくしていたら、前回更新から一月以上が経過してしまった。
厚生労働省が、年金を税方式にした場合に消費税が大幅にアップされるという「悪意ある」シミュレーションを公表した結果、基礎年金を税方式にするべきとの世論は、ほぼ壊滅状況である。
まさに、厚生労働官僚が意図したとおりの結果に、老練な官僚組織のしたたかさと官庁発表資料を伝達するだけの「御用機関」に成り下がってしまったマスコミ機関の危機を改めて認識したところである。

もちろん、森永卓郎氏など多くの政策ウォッチャーが、この試算の意図などを正しく認識し、ブログや評論などで指摘しているが、主要新聞紙面に掲載されるインパクトは強力で、多くの国民は当初の新聞記事によって「年金は税方式にすると負担が増える」との印象のみが残ってしまっているに違いない。
本来、有能な記者が揃っている大手新聞社である。週末の特集面などでキチンと自社が報道した記事の検証を行い公表することは、可能であり「社会の公器」であるなら当然の責務であると自覚してほしい。

さて、前置きが長くなったが厚生労働省がHPで公表している年金税方式試算、正式には「社会保障国民会議における検討に資するために行う公的年金制度に関する定量的なシミュレーション」を読み解いてみたい。
表紙を入れて71ページに及ぶ資料であるが、じっくりと読めば半日から1日で十分読み込むことができる。(今回のアップが大幅に遅れたのは単なる怠慢と反省するしかない)

ぜひ、資料を参照しながら、このブログをお読みいただきたいが厚生労働省HPでこの資料を見つけ出すのは予想どおり容易ではない。
上のリンクをクリックすれば直接PDF資料がご覧いただけるが、自ら探すなら厚生労働省HPで右上の検索欄に「年金 試算」と入力すると最初に表示される。

読者の皆さんの手元に資料があるとの前提で、シミュレーション結果に隠された秘密を見ていこう。

まず重要なのは資料は「抜粋」でも「要約」でもなく全文を公表することである。それによって、官僚が都合の良い部分のみを公表しているとの誤解を回避できる。しかも、一般の国民がポイントとなる点を容易に発見できなくなる利点もある。

次に、最初にシミュレーションの前提、制約事項、仮定した事項、結果の解釈についての限界など、シミュレーションが調査結果などとは違い「ある前提」での限られた「試算」であることを詳しく、しかも解りにくく明示することである。

そして、直接には本題と関係ない試算も行って分量を増やすことで、ポイントが解りにくくすることである。
今回のポイントは「現行方式」と「税方式」の比較にある。表題からもわかるように、それ以外の比較を行うことで、焦点が拡散するとともに、本来は税方式への変更とは関係ない要素までもが税方式の欠点のように誤解される。
年金にかかる国民負担が増大するのは現行方式でも税方式でも同一である。別論でも指摘したように団塊世代が年金受給世代になることの必然であって、いずれの方法によっても現行水準を維持する以上不可避である。このシミュレーションに頻繁に登場する右上がりのグラフは、税方式とは一切関係しないが、ざっと見た印象では「税方式は年を追って負担が増加する」とのイメージを持つのに十分である。

官僚の悪意の具体例を一つ指摘してみよう。
前回指摘したとおり、税方式により国民の負担が急増するほぼ唯一理由は、現行方式で年金財源の半分を負担している「事業主=企業=雇用主」の負担が「0=負担なし」になっていることにある。
71ページの資料で、試算の前提として「官僚が任意に仮定した」そのことが明示されているページは、ただの1ページである。
しかも「事業主負担が廃止され、全額を国民が負担する」などとは表示されない。

14ページにはこう記されている
「③平成21年度から基礎年金のため保険料徴収を完全に廃止し、一斉に税財源に切り替える。」
「税方式移行に伴って国庫負担割合2分の1を超えて追加的に必要になる財源規模を仮に消費税率換算するとどの程度になるかを示す。」
これだけである。

これが、年金財源の半分を負担している「事業主=企業」の負担をなくすことを示していることを直ちに理解できる国民がどれほどいるのか?
このシミュレーションが、その前提で消費税率が試算したものであることを理解できる国民がどれほどいるのか?

これが典型的な「官僚の悪意 = 明示する隠蔽(形容矛盾!)」だと言うことをよく覚えておかなければならない。

そのうえでシミュレーションで現行方式を図示するときは必ず事業主負担は明示し試算を示すときは全てを消費税としていく。

負担の増減額を示すときは、事業主負担がないことを「企業」として別図にハッキリと示し、決して隠蔽も省略もしない。それにも関わらず、その図示していることのポイントを示すコメントには一切触れない。

それにより、シミュレーション結果を資料から読み解くことなく記事を書く大手新聞社の記者は、官僚の意図したとおりの記事を「意識することなく」書いてしまう、そんな仕組みになっている。

ずいぶんと長くなってしまったが、他の官僚作成の資料などにも共通する「悪意ある」特徴を最後に指摘しておこう。

・結果に影響しない、または結果の正当性を証明するための、前提を変更したシミュレーションはできるだけ多く行う。読者が経過ではなく結果を早く知りたくなるよう暗黙のうちに誘導する。

・結果を解りやすくするためグラフや図表を多用する。グラフは公平に客観的に作る。その際、前提条件などは改めて付記しない。グラフの読解に集中することで、大事が前提を忘れてくれることを期待する。

・グラフそのものを読解する必要がないよう簡潔にハッキリとコメントを付す。試算の意図に沿うことは断定的に、隠したいことには触れない。グラフを読解して疑問を感じても手間をかけないと、その意味するところが容易には解らないようにしておく。

・結論はハッキリ断定的に示す。ただしその結論に多くの解釈が可能であることを詳細に幅広く抽象的に示しておく。

・比較の区分は「結論」沿うように意図的に行う。今回試算でいえば「標準的な勤労者世帯」には一般的に高額所得者と思われるような者を含め、「低所得世帯」を極めて所得が低い世帯に限定することで、一般サラリーマン世帯の負担が試算以上に増える印象と低所得者イジメの印象を生み出している。

その手法は実に悪質で、多くの政治家が実に簡単に官僚に手玉にとられるのは尤もだと実感する。
概ねこんな感じで作られた資料を配られ、丁重で流れるような官僚の説明を受けて、国会で法案に賛成するのが、多くの国会議員である。
あの悪法そのものの後期高齢者医療制度の導入時、与党国会議員の誰もが、その問題点に気付かなかったことは、ごく当然のことだと思う。
東大出身のエリート官僚の頭脳にとって「選挙に当選しただけ」の国会議員を誤解させることなど子供を騙すより簡単なことに違いない。

このシミュレーション読解に際して、直接は関係ないが驚くべき事実を知った。
「税方式により生活保護受給者が減少する」との検証シミュレーション資料である。
平成18年度時点で全生活保護受給者数は147万人。
そのうち65歳以上の受給者が約59万人で、しかもそのうち31万人が無年金だと言う。

生活保護を受けている国民の1/3以上、約4割が高齢者とは!
この数字は驚愕である。
小泉改革を通じて、生活保護はセーフティーネットであり、再チャレンジにより健全な市民生活への復帰が可能であるような印象が流布されてきた。
しかし、普通のサラーリーマンでさえ定年退職を迎えて再就職に苦労する65歳である。
この40%の生活保護受給者が自らの収入で生活を支えられるようになる可能性は限りなく低いに違いない。
しかも半分以上が何の年金も受給していないとは!
国民年金制度が創設され「国民皆年金」となったと政府が公言して久しいが、現実は多くの無年金者が存在していて、善良な納税者が負担する生活保護費を受給して生活している事実。
しかも、近年の年金納付率の低下を考えると、その数が減る可能性が限りなく低く、むしろ数十年後には急増するに違いないこと。

日本が危ない! この国の根幹が崩れてしまっていることを示す事実をまた一つ知ってしまったのである。






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2008/05/21

日本が危ない:年金税方式試算の偽装〜政府よ!おまえもか〜

政府が基礎年金を社会保険方式に変えて税方式にした場合の試算を公表した。
いかにも突然の感じがするこの発表は、社会保険方式を維持したい意図があまりに明白すぎる。
これは「政治的意図」を超えて「偽装」と呼ぶべき悪意がある。
善良な国民をある目的を持って騙すのは犯罪である。「政府が国民を騙す」日本が太平洋戦争の敗戦で学んだ最大の教訓は、もはや失われてしまった。
日本が危ない。だが、どうすれば良いのか。真剣に考えないといけない。

具体的に「偽装」を検証しなければならないが、厚生労働省HPで公開されている資料は、それを挫くかのように詳細で多くの仮定のうえに試算されている。詳細に読み解くには相応の知識と根気が必要であり、現時点では十分には把握できていないのは事実である。
しかし、ごく単純に考えてもいくつもの疑問が生じる。まずは、その指摘をしてみたい。

厚生労働省の記者クラブに提供されたであろう発表資料は、通常ごく要約され簡単に新聞記事にできるようポイントのみが記されたものである。つまり、この記 事を書いた記者は実際の試算結果を詳細に読むことなく、官僚が「特定の意図」のもと要約したコメントをそのまま記事にしていることが大半である。なにし ろ、発表後数時間で記事を入稿するためには、数十枚以上にびっしり記載された報告など読む時間などないのだから。

まず認識すべきは、「現状と同一の年金給付をする」ことを前提として試算するなら、「それに必要な費用の総額」は「必ず同一」でなければならないことである。
年金給付の総額が増減しないのに、それに必要な費用が増減することはないのである。
今回試算は、国民一人ひとりの基礎年金額が同一との前提なのだから、費用の徴収方法がなんであれ、費用が増加することは決してない。
すなわち「税方式にすると負担が増える」ことはないのである。
試算の「偽装」により、そう誤解させられているのである。
試算の結果、一般国民の負担が増加するとの誤解を生じるのは、いくつかの偽装が巧みに組み合わされているためである。
試算そのものが誤っているのではなく、誤解を生じるように加工されているのである。
したがって、じっくりと「正しく」読めば、それが誤解だとわかるようになっている。それが、霞ヶ関の官僚の常套手段であり、責任回避能力である。
明晰で優れた頭脳は、もっと有意義で建設的なことに活用してほしいと心から思う。

「全額を税方式にすると、現状と比較して大幅に国民の負担が増える」

この解説の最大の問題点は、税方式にした場合の負担を「現時点」の負担と比較していることにある。同一時点での「税方式」と「保険方式」を比較するなら意味があるが、時点が異なるものを比較する意味はない。将来の国民の負担が増えることは事実だが、それは「保険方式」でも同様である。すなわち、税方式にした場合の試算であるとの先入観が、将来国民の年金に関する負担が増えるという事実の原因を、税方式に変更したためと誤解させているのである。
年金に関する国民の負担が増えるのは、年金受給者が増えるためである。それは税方式でも保険方式でも変わらない。

「一般サラリーマン世帯の負担は保険方式の場合より高くなる」

この解説の意味するところは複数の要素が複合している。一つはサラリーマンの負担は所得により増減しているがそれを平均にしていることである。現在の社会保険料負担に上限が設けられていることから、相対的に高所得のサラリーマンの負担は増加し、低所得のサラリーマンの負担は軽くなっているはずだが、それを平均化することで大多数を占める「低所得のサラリーマン」の負担も高くなるように誤解させている可能性が高い。消費税は累進制も逆進性もないので、高所得で高消費の国民が上限なく納税する。すなわち、消費税方式にすれば負担が増加するのは高所得者のはずである。
もう一つはサラリーマン以外の世帯の負担である。自営業者などが対象の現在の国民年金は定額制である。その納付率は低く減免者も多い。そもそも所得補足率が低いため、実際の所得と国が承知している所得が大きく違っている。国民年金加入世帯の実負担額は大きく増加するはずであるが、それこそが税方式移行の最大の利点であり効果にほかならない。それでこそ社会的公平が確保できるのである。
もう一つある。

「税方式にした場合、全額を消費税とすると税率は18%になる」

この試算の最大の悪意は、税方式への変更の前提として全額を消費税としていることにある。すなわち、企業の年金負担額をゼロにしてしまっていることである。
現行の社会保険方式では、原則として年金の費用は労使折半である。将来の年金受給者である国民が負担する保険料と同額を使用者である企業が負担する。自営業者の国民年金では、同額を国が負担する仕組みである。(現状は1/3)
年金の財源は、労働者である国民が半分、使用者である企業が半分、それが現在の仕組みである。それを全額を国民が負担し、企業が一切負担しないのであれば、国民の負担が倍増するのがしごく当然である。
企業の年金負担が一切廃止されることは試算の大前提であるのに、よくよく注意しないとわからないほどに、他の仮定に紛れるようにしか説明されていない。当然に、記者向けの資料にもほとんどコメントされていないのだろう。この重大な事実を記事にしているのは、ごく一部の有能な記者がいる新聞だけである。
年金制度が、歴史的に企業年金として発展して来た歴史から、年金は労使折半が合意された前提である。それを踏まえて税方式も検討するのが当然であろう。
すなわち消費税を「国民の負担」と考えるなら、現在の企業負担額と同額は法人税の増税で賄われなくてはならない。
将来の消費税額を試算するためには、「将来の年金給付額 - 年金財源分法人税の増税」を、総消費額で除すべきなのである。
いつのまにか企業の年金費用負担義務を免除してしまい、すべてを国民だけの負担としてしまうのは「偽装」以外の何ものでもない。

また、消費税率は全品目が同一税率である必要もない。食料品や医薬品など必需品と贅沢品は別税率であっても全く問題がない。消費税の逆進性を問題にするとき、複数税率が可能であることを忘れてはいけない。高額所得者特有の消費パターンがある。正しく税率を設定すれば、消費税にも累進性を持たせることは十分可能である。
それにより、一般サラリーマン世帯の負担を低減することは十分可能である。


「税方式にすると未加入者が得をする」

よく見かける議論だが、根本的に間違った認識である。年金は現行方式でも加入者に経済的権利を与えているものではない。ひたすら年金掛金を払いつづけても支給年齢前に死亡してしまえば年金は一切支給されることはない。もちろん相続されることもない。逆にぎりぎりの加入年数でも長生きすれば掛金よりはるかに多くの年金が給付される。法律が改正すれば年金額を増減させることも一切問題はない。そもそも、福祉国家・日本では原因が何であれ経済的に困窮した国民は国家の責任で生存することが憲法で保証せれている。すなわち、年金見未加入者が生活に困れば、善良な国民が納めた税金で生活保護費が支給されるのである。
もし税方式に移行するのであれば、現行保険方式はその時点で「清算」する。それが正しい姿である。その時点までに支払った掛け金に応じて、残余財産を分配する。それを徹底すれば良いだけである。未加入者には一切の払い戻しはない。真面目に掛金を払ってきた国民には公平に残余財産を分配する、それだけである。
もし、現行年金制度を清算して掛金総額より少ない払い戻ししかないとしたら。それは、すでに現行年金制度が崩壊していた証明にしか過ぎない。そのツケはいずれ国民に回るのだから、早くに清算することこそが最大の解決策なのである。将来支払うべき年金財源がない。それがバレルのが怖くて厚生労働省が税方式への移行を必死で拒否している可能性は高い。


「現行方式(保険方式)のほうが税方式より国民の負担が低い」

今回試算を見て(ほとんどの人は報道された記事やニュースを見て)、多くの国民が誤解するであろう結論であるが、実際の試算資料には、そのようなことは全く書かれていない。
この試算は、税方式の場合の負担額などを試算したもので、現行方式の場合の試算と比較できるようには整理されていない。いくつか比較したものも含まれているが、例えば年金未納率などが現実的でないほど高く設定されているなどして、公平に比較ができるようにはなっていない。
国民が納得できるような前提・仮定のもとで現行方式での同様の試算をすれば、結論はほとんど同様に国民の負担が激増する結果になるはずである。
なぜなら、最初に指摘したように給付総額が同一なら費用総額も同一だからである。
労使折半の年金負担を、労働者だけの負担にして、国民の年金負担額が増えないわけがない。


「税方式はダメ」すなわち「現行方式が良い」

こんな誤解を生じさせる「偽装」を国が行う。
日本はひどい国だと言わざるを得ない。
だが、そのひどい国を作ったのが主権者である国民自身なのだと、まず認識しなければならない。
そうすれば、それを抜本的に正す権利が国民にあるのだと理解することができる。

官僚は敵ではない。
僕(しもべ)である。
主(あるじ)は僕に使われてはならないのである。

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2008/04/28

日本が危ない:暫定税率再議決・だれが賛成するかを記憶せよ

あのあまりに無責任な安倍首相の辞任騒ぎに呆れて、すっかり政治的関心を失っていました。
このブロクが「現実逃避」をするうちに、年金がなくなり舛添大臣は逆ギレするわ、居座り福井総裁の後任は決まらないわ、後期高齢者(ひどい呼び名です)の医療保険は分離されるわと日本はほぼ「無政府状態」です。

小泉政権期にあれほど国民の意識を集中させた北朝鮮やら中国問題は、今や関心外。「内政の失敗は国難の演出で国民の目をそらすことができる。」との政治学の基礎が実証されています。日本をとりまく国際環境も内政の課題も変わっていないのに、政治家と大手マスコミの「演出」次第で、世界に誇る高学歴の日本国民は愚かにも簡単に「誘導」されてしまうのです。国民の一人として実に情けない次第なのです。

さて、ここのところの話題は道路特定財源としてのガソリン等の暫定税率です。
ガソリンが下がれば国民は喜ぶ。再び上げれば自民党政権は国民の支持を失い、民主党政権が誕生する。とのある意味、非常に単純な理屈で昨年度末に暫定税率を裏付ける法律が失効したわけです。
ガソリンが安くなって確かに国民はそこそこ嬉しがっていますが、そこは高学歴の日本国民。
「朝三暮四」「朝令暮改」など学校で習った古い格言を思いだしてしまうのです。
しかも地方の国民にとっては、ガソリンの暫定税率消滅によるメリットより、道路特定財源からの見返りのほうが大きいのでは?との生活感による直感があるのでしょう。
民主党が期待するほどガソリン税暫定税率への国民の反発は盛り上がっていないのです。

でも、この30日。自民党は2/3の多数をもって暫定税率復活のための再議決方針を決定しています。
この決定は二つの意味で国民を馬鹿にしているのです。
一つは現在衆議院の自民党の圧倒的多数は、小泉政権「郵政民営化選挙」の結果であり、年金や道路特定財源への国民の意思表示の結果ではないことです。日本の議院制度において各議員は任期中の白紙委任を受けているのではありません。常に選挙民の総意を代表することを求められているのです。それにも関わらず党幹部が党議拘束(各議員の自由な投票を認めない仕組み)におり賛成を強制するのは民主主義の否定だからです。
もう一つは各議員が地元選挙民に対して、その意思を確認する努力を怠っていることです。
なぜ暫定税率が必要なのか。暫定税率とそれによる施策により各選挙民=各国民一人ひとりが経済的になにを失いなにを得ているのかを説明する努力をしている国会議員はほとんどいません。
選挙区から選出される国会議員は、その選挙民に対して、自らの判断とその根拠を常に説明する義務があるはずです。その認識さえないままに「党が決めたままに」「派閥の長が言うままに」行動するだけの議員など不要なのです。

皆さんは自らの選挙区から、国会議員として何党の誰が選出されているかを知っているでしょうか? あるいは選挙期間以外でその議員がどう行動しどの法案に賛成し反対したかを知っているでしょうか?
地方の有力者の一族などごく一部の国民以外にとって、国会議員は日々の生活でほぼ無縁な存在のような気がするのは、私だけではないと思います。

衆議院選挙はほぼ確実にまもなく実施されます。
そのとき誰に投票するべきかを選挙民である国民は、常に考えておくべきだと考えます。

今回のガソリン税暫定税率復活の再議決の際の投票行動をよく覚えておきましょう。
あるいは、今日・明日に自らの選挙区が選出している国会議員に対して、自らの考えを伝えましょう。地元選挙事務所や永田町の議員会館事務所に電話やファックスで連絡してみましょう。
その時、ただの一有権者がどのような対応をうけるのか。自ら体験しておくことをお薦めします。その対応でその議員が一人ひとりの有権者を見て考えて行動しているか。一部有力者や企業を見て仕事をしているかがわかるはずです。

IT時代。多くの国会議員はHPを持つようになっています。しかし、コメントを受け付けたりメールアドレスを公開している議員はごく少数です。メールを送ってみてもまず返信はありません。たとえあっても「ご意見ありがとうございます」程度の返事しかないのが普通です。そのような関係は有権者と議員の関係として不適当だと思うのです。
それを変えることができるのは有権者一人ひとりの行動だけなのです。

あなたの選挙区の国会議員に意見を伝えましょう。
意見に対する対応をよく覚えておきましょう。
あなたの選挙区の国会議員がどう投票するかをよく覚えておきましょう。
次の選挙。その記憶によりあなたの選挙区の国会議員に対して意思表示をしましょう。

480人の国会議員はこちらで調べることができます。
電話で、ファックスで、メールで、ブログで、そして訪問して
あなたの意見を伝えましょう。

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2007/09/12

日本が危ない:安倍首相辞任、その無責任さを危惧する

安倍首相が突然辞任した。

参議院選挙の大敗後、政権に固執し1ヶ月もの国政の空白を作った責任を放棄して。

衆参与野党逆転の国会の運営を打開する何らの交渉も準備も行わないまま、民主党小沢党首に会談を拒否されたと、子供のような理由で。

テロ特措法を国際公約であり職責を賭して継続を図ると宣言しながら、具体的に何の努力もしないままで。

テロ特措法を参議院が否決した時、衆議院で強行再議決した時、あらゆる努力の結果廃案になった時、解散総選挙も辞任の時期も十分あるこの時期に。

安倍首相の「責任」という言葉の使用法には、常に違和感があった。
日本語の単語としての意味が根本的にわかっていない、そんな違和感である。

戦前のレジュームで育った日本人は「責任」の意味がわかっていた。
重職にある者が責任を認めることとは、すなわち「死」を意味していた。
欧米人が驚嘆し恐怖した「切腹=腹切り」の美学である。

安倍首相の辞任は、その対極である「無責任」そのものである。

戦前のレジュームが「責任」を尊び死を持って責任をとることを「美」とする哲学であったなら、「無責任」を生み育んだのは戦後レジュームに他ならない。

「戦後レジュームからの脱却」を公約として誕生した安倍首相が、戦後レジューム最大の欠陥である「無責任」それの具現者であったことの衝撃は大きい。
戦後レジュームの60年間が育てた、これからの日本を支える若き人材が同様な「無責任」さを持っていることを確信するからである。
自らが責任を負うことを嫌い批評・批判するばかりの人々、責任の意味がわからず責任のとり方も知らない人々の国。そんな日本に未来はあるのか?

最後に、戦後レジュームで育った若者達のために「責任」の意味を辞書で確認しておかなければならないだろう。
(大辞泉から)
1 立場上当然負わなければならない任務や義務。
2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。
(大辞林から)
1 自分が引き受けて行わなければならない任務。義務。
2 自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。

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2006/11/03

日本が危ない:献策十講「国民が誇りに思う素晴らしき国へ」

政治は夢である。
政治とは「夢」である。そして、政治家とは「夢の伝道師」であるべきである。
日本人が政治を語る時、「政治」と「行政」が混同されているように思う。政治家自身が、「政治」を「行政」と誤解しているようでもある。
国民そして国家自身の課題や問題を着実に解消していくのは「行政」である。行政の役割は、科学的合理性に基づいて最も良い政策を立案し実行することにある。

もちろん、英米に代表されるように政治がそれを行う国もある。政治家や政党のスタッフが政策立案の実務を担い、行政官は政治が決定した政策の実行のみに責任を負う国である。そのような国では、政治は全ての政策に直接の責任を負う。国民は、選挙による政党の選択を通じて、政策を選択する。

日本は事情が違う。日本の政治家の最大の役割は「夢」語ることにあった。具体的な政策は優秀な官僚群に「丸投げ」してしまい、大きな夢を語ることこそが大物政治家の条件であった。
もちろん、官僚から転身した政治家も多い。具体的政策にも精通ている彼らも、選挙においては「政策」ではなく「夢」を語ってきた。
古代中国の英雄豪傑の政治的伝統を隠然と引き継ぐ日本。大物政治家の条件は、政治を「夢としての政(まつりごと)」として語り、民衆に夢を見させることにあった。

最近になって政策を論じる若手政治家も増えてきた。それに影響されたのか、あるいはアメリカの大統領選の公開討論に影響されたのか。日本の総理総裁となる人物のテレビ討論は「政策」を論じるのみであった。それも必要ではある。しかし、現代国家にとって「政策」は、あらゆる領域を網羅する複雑なシステムそのものである。税制一つを独立して論じることは表面的には可能だが、その政策変更の影響は実に広範である。その全体を理解することなく、それを安易に論じることは無謀なことであり、結果的に極めて無責任なことなのである。そのことは、行政が造る総合計画を見れば良くわかる。あらゆることが相互に関連する結果、行政の計画は常に総花的であり総論的であり留保事項に覆われている。
そのごく一部を抽出して、政治的課題として論じることには、実はほとんど意味はない。
報道するマスコミの論調はともかく、自民党総裁選や党首討論の論議に国民が無関心である本当の理由はそこにある。
古き時代を知る世代はもちろん、若い世代もまた、夢を語る政治家を待ち望んでいるのである。
若さの特権の一つは「夢」を見ることが出来ることにある。ケネディやブレアなど、新しい世代の若いリーダーが誕生したとき、国民はその「夢」に共鳴し共感したのである。夢見る若き指導者と現実に精通した老練な支持者が、新しい時代を拓くのである。そのどちらが欠けてもいけない。両方が必要なのである。民主党の前原前党首の誕生、そして今回の安倍総理の誕生にも、国民の熱狂がないのが気にかかる。若きリーダーに国民が期待するものが決定的に欠けているからである。
現代日本の政治を見る時、悲しいことに「夢」を語るリーダーの不在は厳然たる事実なのである。

夢の本質
安倍総理の「美しき国」は夢ではないのか。残念ながら、それは夢ではない。小泉内閣の「構造改革」や「骨太の方針」と同様に、単なる国家の基本政策体系に過ぎない。言い換えれば、行政システムとしての日本国がここ暫くこんな方針で政策を実施していきますと言っているだけである。国民が望むものを具体化したものでさえなく、既存の国家システムが許容できる範囲での「想定の範囲内の」政策オプションが総花的に記述されたものである。

夢とは何か。それが重要である。
夢とは「絵に描いた餅」のことではない。もちろん、荒唐無稽な戯言でもない。政治における夢とは、国民が顕在的・潜在的に欲している状況を具体化したビジョンである。
様々な制約のなかで現実と妥協をしてしまえば「夢」ではなく、具体性に欠けたり実現性が低ければやはり「夢」ではない。広く国民が望む夢を「夢」として示すことは、凡人には難しい、やはり優れた資質にめぐまれた一部の者にしか出来えないことなのである。

明治の夢、それは「殖産興業」「富国強兵」「不平等条約の解消」「欧米列強と並ぶ近代国家化」「脱亜入欧」など多様であって一貫性が感じられる。政治的スローガンや標語でもあるため、特定の一政治家の夢とは言い難いところはあるが、誰か一人が描いた夢が共有されたものに違いない。幕末の混乱と危機を実感した国民が、徳川300年の遅れを一気に取り戻そうとした気概を今も感じることができる。
昭和の夢「亜細亜の盟主」「世界の一等国」「大東亜共栄圏」。
歴史的評価はともかくとして、当時の国民の感情はそれを支持した。あまりに悲惨な太平洋戦争の敗北を知っている現代人にとって、尊大で侵略的で無謀な構想であり夢である。しかし、日清・日露両戦争に勝利し、経済的にも軍事的にも西欧並みに発展した昭和初期。日本人は政治的混乱の極地にあった中国に代わって、アジアのリーダーでなった日本を誇りに思っていた。政治はそれを具体化し、軍もまたその期待に支えられていたと言ってよい。その意味で、太平洋戦争が国民の意志を無視した一部軍部の独断独走であったとの評価は誤りである。
そして戦後。「所得倍増計画」「アジア初の東京オリンピック」「アジア初の大阪万博」「全国総合開発計画」「国土改造計画」。戦災から逞しく復興した日本を誇りに思う国民が、その事実を具体的に確認できるイベントが政治の描いた「夢」にほかならなかった。

日本において政治が夢を失い、国民が夢を見なくなったのはいつからか。それは若者が大人になったことを意味するのか。
誤解してはいけない。国民や国は生物としての人間とは違うのである。常に新しい国民が生まれ加わる国家は、健全である限り夢を見続ける必要がある。4年に一度の大統領選挙は、若きアメリカ国家が自らの「夢」を確認し選択する重要な政治的行事である。一時は老大国と呼ばれた大英帝国は、一人の若き指導者の誕生により、見事に再生した。遥かに長い歴史を持つ中国においても、政治の夢は活力の源である。
国が夢を失ったとき、衰退は始まる。政治家が夢を語らなくなったとき、国民は政治に興味を失うのである。

夢、愛、誇り
夢のある国とは、そこに住む国民が誇りに思う国であり、愛すべき国である。
国家は、それ自身が存在することに意義があるのではない。国家は、国民一人ひとりが「夢」を実現する「手段」に過ぎない。
天皇制国家主義の影響か、国家自体が独立した存在であり、国民は国家のためにあると考える傾向は未だに根強く残っているように思われる。
愛国心教育論議を見る時、それを強く感じる。愛国心、国を愛する心。言葉の定義はともかく、国自体があり、それに対置された若しくは従属する国民が存在するがごときである。
人を愛する。ごく自然な人の行為である。では、人を愛することは教育すべきことか。ましてや社会が強制するべきことか。そう考えれば、愛国心論議の不可思議さがわかる。人は自然に愛すべきものを愛す。人は愛されたいと思う時、それを相手方に強制するのではなく、自ら愛されるべき存在に変えるのである。相手の気持ちを考え、好意を持たれるよう努力するのである。
国においても、それは全く同様でなければならない。愛は教育や強制ではなく、努力により獲得されるべきものなのだから。
夢多き人を人は愛す。その夢を共有することに人は大きな満足を覚える。そして、その愛を独占したとき人はある種の誇りを感じる。国家が夢を語るとは、つきつめるとそういうことなのである。

政治は夢を描けるか
国民が誇りに思い愛を感じる日本を創造することは、政治の最大の課題である。そのために新たに描かれ語られる夢は何であろう。
現在の国家システムが直面している課題や問題の処方箋を総花的に描くことでないことははっきりしている。それは夢ではなく、単なる政策に過ぎない。

「世界のどの国より優れた工業製品を作り出す勤勉で有能な国民が住む国」政治が多くを語らないにも関わらず、多くの国民が日本を誇りに思う大きな理由の一つである。
「狭い国土が無惨に開発され、自然が破壊され汚染され、国民の安全で健康な生活が犠牲にされている国」国民が日本を卑下し情けなく思う大きな理由の一つである。

「巨額の貿易黒字を有し、高い所得を得て電気製品などがあふれる生活が一般庶民でも実現している世界有数の豊かな国」国民はもちろん、諸外国がイメージする日本である。
「仕事優先で家庭生活の犠牲は当たり前であり、高くて狭い家に住み一年中、満足に休暇も取らず通勤地獄に苦しむ生活」国民の多くが一般にイメージする日本である。

あきらかに相反することが、実は同じ政策選択の結果生じている例である。夢とは、ある種の単純化である。多数の官僚そして官僚組織がシステム化して個別に対応するのが政策群であるなら、夢はもっと大きなビジョンである。

「自然豊かな美しい国土に、経済的にも精神的にも恵まれた豊かな生活が営める国」例えば、このようなビジョンが夢である。それを優秀な官僚が、現実に実現するための政策群として立案実行して、その夢が実現するのである。

「所得を今の2倍にして、経済的に豊かな国民生活を実現する。」有名な池田内閣の所得倍増計画である。このビジョンは、当時の国際環境や日本産業の状況から充分実現可能であることを前提としていて、現に実現した。単なる政策群の実行結果にすぎないものが、国民の夢となりビジョンとなった貴重な例である。
この例でわかるように、独創的でも荒唐無稽でなくとも夢は創造できる。

何が実現可能であり、どう実現すれば良いのかを明確に理解していることは大前提なのである。そのうえで、国民が期待していることを具体的なビジョンにすることが夢の創造なのである。
今の政治家の言動は評論家のようであり医者のようである。ここに問題があり、こんな状況である。そのためにはこんなことをしなければならない。政治家は、そのようなことばかり語っていてはいけないのである。
不治の病を患った患者に対してさえ、生きる望みと闘病生活に望む勇気を与えてこその名医である。
政治家は「名医」でならなければならない。
国民に壮大な夢を語り、国民が愛し誇りに思う国を描く。官僚群を巧みに使いそれを確実に実現していく。

政治家とはそうあってほしいものである。

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