カテゴリー「政策原論」の記事

2009/01/23

日本が危ない:歴史で学ぶ「日雇派遣」問題の本質 4

「派遣切り」をどう解決するかのいくつかのアイディア
 一部評論家などが主張するような「日雇派遣の禁止」、すなわち派遣業法の再改正によって、日雇やごく短期の派遣、そして製造・建設などの業種への派遣禁止をすることで、この問題が解決しえないことは、以上みてきたように明らかである。
 戦後日本は労働基準法など法や行政制度上の建前では、直接雇用を原則とし日雇労働を例外として、間接労働を認めない国であった。しかし、その実態は、戦前からの労働者供給事業そして請負制度が実質的に温存され、大企業の工場内でさえ「社外工」「臨時工」さらには社内のみ通用する符牒で区別される下請企業の労働者が多数存在する国であった。大企業正社員と下請企業社員では歴然とした賃金格差や待遇格差が存在したが、法の建前と整合性をとるため名目的に職務に差異を設けるなどして、それを労働行政が黙認するような国であった。
 日雇派遣の禁止は、その格差を解消するどころか、労働環境を再び「戦後改革の建前」へと押し戻してしまうだけであり、何らの解決にもならないことは、あまりに明らかである。

 では、この問題はどう解決されるべきだろうか。どれも決定的とは言えず、別の問題も新たに引き起こす可能性があることを予め断りつつ、次の2つを提案したい。

  1. 労働契約書面化義務化と解雇規制の導入
  2. 同一労働同一賃金原則の法制化と雇用保険制度の抜本改正

 現行法では、労働契約は書面によることを求められていない。そのため、ひとたび転勤や減給・解雇などの問題が生じると、そもそもどのような条件で雇用されていたかを客観的に証明することは相当に困難である。それが、使用者に対して労働者が弱い立場におかれる大きな原因の一つである。
労働の内容、就業場所、賃金、期間などを雇用開始時に契約書として取り交わすことで、多くの問題は予防できる。この書面化の義務づけが法制化できない最大の理由は大企業が反対しているからである。事後的解決を容易にすることで、不当解雇などが予防できることは疑いがない。
 解雇規制にも、大企業を含む多くの雇用者は反対である。戦後長い期間、労働者の安易な解雇は公共職業安定所などの行政指導で抑制されてきた。その法によらない事実上の規制が一気に撤廃されたのが「小泉改革」のことである。確かに行政機関による恣意的な規制は好ましくない。労働者保護の観点にたって、労働基準法などに明確に解雇要件を限定列挙するのが法治国家であろう。
 ただし、この2つの導入により、短期的には求人需要は大きく減少することは避けられない。容易に解雇できればこそ、企業は雇用に積極的になるという側面は決して否定できないからである。したがって、解雇が横行し求人ニーズが減少している時期に、このような法規制を導入することは実際問題として不可能である。
 ワークシェアリングの導入が経済団体から提起されている状況では、2点目の同一労働同一賃金原則の法制化と労働行政諸制度の抜本改正が現実的解決策として有力である。
 賃金総額の圧縮・労働時間あたりの雇用者数増加などの側面だけで、ワークシェアリングは検討されるべきものではない。日本における少子高齢化の進行と労働者数の長期的減少などを前提として、労働者の労働条件の多様化の視点で論じられるべき大きな課題なのである。
重要なのは「同一労働・同一賃金」の原則である。同じ仕事なら時給単価は同じでなくてはならない。いかにも当然に思えるが、それが実現していないのが日本の実情である。正社員と派遣社員が全く同じ仕事を一緒にしていても、手取総賃金(ボーナスや年金額などを含む)は大きく異なる。労働者自身も何となくそれが当然と思っている、それが日本である。
 確かにある仕事の価値を客観的に金額に換算するのは難しいが、同じ仕事をしているときに、それを「誰」が行おうが同じ金額を払うことは、さほど難しいことではない。「同一労働・同一賃金」とはそのような意味であって、存在するどの仕事とどの仕事が同じ価値を持つのかを決めることではない。
 ボーナスや年金などを含め、この原則が適用できるよう法規定を整備することは、さほど難しい作業ではない。すべてを時給換算し比較可能となるよう「標準的な換算方法」を明確にするだけだからである。
 むしろ、より直接的な問題として雇用保険制度を抜本改正することが重要である。いくつもの案が考えられるが、最も現実的なのは現在の日雇雇用保険の仕組みを洗練・整理して、すべての労働者に適用させるとのアイディアである。
 現在、月給・年俸などにより給料が支給されている場合は、各種手当・ボーナスなどを加えた総額を、総労働時間で除して時給換算する。そのように、労働形態に関わらず、すべての賃金を時給に統一したうえで、時給あたりの納入印紙額を決定し、納付済印紙額を労働者個人毎に交付する雇用保険カードに記録するのである。
納付は実際に印紙である必要はなく、現行の源泉徴収と同様に会社で一括納入も認める。
 いざ失業状態になれば、雇用保険カードに記録された印紙納入額に応じて、失業手当に日額と期間が決定する。年間30日労働した人も、何十年間も勤続した人も、単純に金額換算した労働価値に応じて給付を受けられれば良いのである。
雇用の形態別に保険制度を細分化するのが愚である。時代の変化とともに、雇用形態多様化し変化するたびに、制度が複雑化し無理が生じるのは避けられない。
そのようなシンプルなセーフティネットを整備し、「同一労働・同一賃金」を法に明文化し徹底することで、日雇派遣で顕在化した「労働をめぐる格差」は抜本的に解消できるはずである。

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2009/01/21

日本が危ない:歴史で学ぶ「日雇派遣」問題の本質 2

戦前の労働環境
 
明治維新によって始った近代日本だが、労働環境に関しては江戸時代以来の歴史的背景による日本独特のものも少なくない。欧米の多くの国が産業革命後に、中世の停滞から突然急速に資本主義的経済制度に変化したのに対し、江戸期の日本は経済制度においては既に相当に商品経済が発展していたためである。
 資本論で単純化されるように、欧米各国においては「生産財」を独占する資本家と土地所有者、そして「労働力」以外をもたない労働者しかいない。資本家は「商品」を生産するための「資源」の一つとして「労働者」を必要とする。すなわち労働者も一つの「財」として「雇用」されるものであった。初期資本主義体制下にあって、労働者の保護立法や団結はこのような背景のもとに発展していったのである。
 日本においては、封建体制下にありながら商品生産と全国的流通が江戸時代に相当に発達していた。大小の商品生産者がいて、それを流通させる回船などが運行され、消費者に販売する商店も組織化されている。その各段階で労働力が必要とされ、実に多様な雇用関係が成立していたのである。
 その意味で、欧米の近代的労働法制は明治期にあって、すでに日本の労働環境に十分適合できなかったと言っても良い。例えば、奴隷的労働の象徴のように思われている芸伎・女郎や丁稚奉公だが、実は江戸時代的な法体系ではあるものの立派に「法の保護」を受けている。いずれも一定年限の労働により契約は終了し自由に身になる。しかも「雇用期間中」の解雇や懲罰などについても厳しい規制があった。そのような複雑な労働契約に、皮肉なことに明治維新後の近代法制は十分対応できなかったのである。
 明治維新後、戦前まで時代の進行とともに労働環境は急激に変化したが、日本的労働環境として特徴的なものの一つに「請負」「人夫供給」があげられるだろう。いずれも、工場や建設現場など労働者を必要とする所へ「労働者を供給する」事業である。労働者を必要に応じて提供することが「仕事」なのである。
「請負」は現在では「請負契約」として法的枠組みが明確化しているが、前近代から存在する「請負」の意味はより広い。ある人は何かの仕事をしてもらったり、何かを作ってもらったりする一切が「請負」に含まれる。現在の「委託」や「代理」をも含めるとイメージが近くなる。その「請負」を行う組織が「組」である。今でも建設関係の会社に残る呼称であるが、基本的には抽象的な法人ではなく「人の集合体」と考えたほうが実態に近い。
「人夫供給」も基本的には「組」が行う。熟練を要しない単純労働などが中心で「組」に所属する者を個人単位で提供する仕組みである。もちろん、組織だって作業する場合の統制は「組」が行うが、通常は供給を受けたものが直接指揮をしたようである。今で言う日雇派遣はこれに極めて近い。
 「組」は人の集合体で常にある組織である。従って「請負」仕事がないときなどは組の構成員の面倒は「組」がみる、これが基本である。従って仕事が少ない不況のときなども「組」に所属する労働者は、とりあえず食うには困らないのである。「組」にとって構成員である労働者こそが肝心であって、大きな「請負」仕事を受けたときや好景気のときに人手不足にならないように、通常は過剰な労働者を抱え込む必要があったからである。熟練した労働者はどの「組」にとっても大切な資源であって抱え込む価値があった。熟練労働者を育てるのには多くの金と時間が必要で、容易には調達できない貴重な「資源」そのものだからである。
 その「組請負」と「人夫供給」が、明治以降の工場生産現場や建築現場などに幅広く取り込まれたのである。
財閥系の大資本が建設する工場には数少ない社員がいるが、生産現場そのものは傘下の複数の「組」が「請負」をし、労働者を提供するわけである。同じ工場内で所属する「組」の異なる労働者が共同作業することも珍しくなかったようである。その労働者の直接の監督者が「組」の労働者であり、財閥系会社の正社員がその監督者達を統制する。請け負った「組」が更に傘下の「組」に仕事を下ろすこともある。そんな重層構造を、日本の近代工業の現場はその当初から持っていたのである。
 財閥系企業は機械設備などのみを自己調達し、労働力の調達は「組」に依存することで、景気変動によるリスクを低減することができた。逆に言えば景気動向によらず如何に安定的に「請負」を受けられるかが「組」の器量の見せ所であり、親会社への絶対的忠誠心や不況時の組の構成員の抱え込みなどが常態化する背景となった。
 戦後改革の視点から見れば、この構造は「間接雇用による中間搾取のための構造」に他ならない。ある生産物を作るために労働者に支払われる賃金は、「組」が請負うことで1段階減少し、下請けに出されることで更に減少するからである。
 戦後、法的には廃止された「組請負」や「人夫供給」であったが、その実態は事実上温存されたのである。それは、何より旧財閥系大企業が絶対的に必要としたからであり、戦後の極度に疲弊した日本経済にあって労働者自身も求めたことだからである。米軍占領下にあって、違法的な存在をどう存続させたのか?
その手段は至って単純である。官労使の「暗黙の合意」のもとで、書類上・形式上だけ全てが合法的に偽装されたのである。そして、その監督機関である労働基準監督署には極めて少数の職員しか配置されず、その法的権限の行使も限定的に制約されたのである。戦後から高度成長期にかけて、非合法な雇用関係は数限りなくあっても実質的な取り締まりは労働基準監督署しか出来ず(警察は基本的に労使関係など民事事件には介入できない)、その労働基準監督署の数は少なく係官はわずかであった。しかも、労働基準監督官には高度な中立性と公平性が求められ、労働者保護管的役割は与えられることはなかった。
今でもその基本は変わっていない。もし、貴方が賃金支払いなどで会社側とトラブルになったら最寄りの労働基準監督署に相談してみれば、そのことがすぐ実感できる。
まず、よほど運が良くなければ歩いていけるほど近くに労働基準監督署がない。そして相談は平日昼間しかできない。しかも、電話では誤解があるといけないとの理由で来庁するよう求められる。そのうえで、本当にそのような支払いの約束があったかの証明を用意するように求められる。書面による証拠がなければそこで終わり。貴方が慎重で書面を取り交わしていたとして、労働者である貴方に「違約」行為がなかったかが厳しく審査され、いよいよ会社に非があるとなれば「指導」となる。ただし、実名を明かさなければ「直接指導」は行えない。匿名の場合は内偵捜査が行われるが何ヶ月もかかるのが一般的で確証が得られなければ会社が処分を受けることはまずない。
すなわち、貴方が解雇され以後何の関わりもない状態にならない限り、労働基準監督署に期待できることはほとんどない。
それが、この国の労働行政の実態なのです。

次回は、日雇派遣が禁止された場合に予想される新たな労働問題を考えてみたい。

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日本が危ない:歴史で学ぶ「日雇派遣」問題の本質 3

労働者供給事業の不思議
 職業安定法第45条に「労働組合等が、労働大臣の許可を受けた場合は、無料の労働者供給事業を行うことができる」という不思議な規定がある。前条で労働者供給事業が全面的に禁止されているが、その唯一の例外を認めた条文である。戦後の労働環境改革の主眼は、間接雇用の禁止による直接雇用への一元化であったわけだが、なぜこのような例外規定が設けられたのか。
 ここには、理想や建前ではどうにもならない日本の必要悪としての伝統的雇用慣行があった。この規定の適用が想定されたのは、主として港湾・鉄道荷役と土木建設作業である。曲がりなりにも欧米諸国を模範として近代日本に定着した工場労働やオフィス労働には、実態はともかくとして間接雇用が不可欠であるとの「言い訳」は難しい。ところが、労働時間が不定期で天候などにも影響されて仕事量の変動が大きい労務作業については、いわゆる日雇労働者がどうしても必要であった。日雇労働者を商船会社や建設会社が直接雇用することは、素人が考えてもいかにも困難である。
 米軍の指令により間接雇用は廃止しなければならない、しかし直接雇用が難しい労役作業は現に存在し、しかもそれは戦後日本にとって不可欠な港湾作業や建設作業である。いかにも日本の秀才官僚が考えつきそうな「解決策」が職業安定法第45条である。
 この条文の目的とすることは、戦後合法化され民主化の一環として設立が奨励された労働組合が、新たに労働者供給事業を開始することを促進することではない。戦前から「組」により担われてきた港湾荷役・鉄道荷役・土木工事・建設工事などへの労働者の提供を「合法化」することを目的としているのである。
 その仕組みはこうである。従来「組」が労働組合として届け出るのである。労働者の自発的に結成する労働組合には、戦後に制定された労働組合法によって雇用者はもちろん行政も組織や運営につき関与できない。その理由は労働組合運動への不当な干渉を排除することにあったが、それを逆手にとるわけである。実質的な組の幹部を含め労働者を支配する側の者をも「労働者」としてしまうことで、「組」全体を「労働組合」とする。そうすることで、従来の支配関係も指揮命令系統もそっくり温存されたまま、合法的に港湾荷役などに労働者を従来どおりに派遣できるというわけである。
 この例外的労働形態として残存した日雇労働者のために、行政が用意したのが先に説明した日雇雇用保険(日雇労働求職者給付金)である。
日雇労働者には、いくつかの特徴がある。まず日々別の雇用主に雇用されるのが一般的である。就業場所が一定しない。雇用主においては労働者を特定する必要がない。などである。
 その結果、日雇雇用保険は、例外的に労働者が「個人」で加入する形となっている。すなわち、1日雇用されるたびに、雇用主が購入した印紙の交付を受けて保険料を納付するのである。その印紙を手帳に貼付しておくことで、いざ仕事がない時には日当がハローワークから支給される。
 通常の雇用保険(失業保険)は継続する雇用関係があることを前提として、保険料は労使が折半し、雇用者が一括して国に納付する。失業給付を受けるに際しても解雇等をした雇用主が離職票などを発行するなど、むしろ事業所単位に運営されている感があるのと対照的である。
 労働者供給事業を合法化したこの条文は一度も改正されることはなく、今も日雇労働者の雇用形態を合法化する根拠となっている。この戦後改革ですらアンタッチャブルであった分野に、新たな雇用形態として、労働者派遣法により合法化されたのが日雇派遣であると考えると分かり易い。
 したがって、日雇派遣労働者は、正規雇用者・非正規労働者はもちろん、通常の日雇労働者とも法的・行政制度的には異質な存在なのである。

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2009/01/18

日本が危ない:歴史で学ぶ「日雇派遣」問題の本質 1

 年末の日比谷公園「年越し派遣村」で一躍注目を浴びた日雇派遣だが、大手マスコミの新聞報道はいつものことながら、一部の人気評論家の解説を読んでも、日雇派遣問題の本質がよく解っていないように思われる。
 解散が先送りとなり停滞する日本政治とシンクロして、硬い話題への情熱を失って久しい本ブログだが、派遣労働を巡る労働問題については、若干研究したこともあることから、今回は久々に硬く論じてみたい。

 歴史を振り返ることで物事の本質は理解できることが多い。日本の労働問題は、そのようなアプローチが最も効果的な分野の一つと言って良いだろう。
以下、日本の労働環境が大きく変化した3つの時期に区分して考えていきたい。

戦後民主改革による労働環境
 明治維新により幕をあけた近代日本の労働環境は、戦後の米軍による一連の民主改革により激変した。意外に思われるかもしれないが、戦後間もなくに形作られた労働環境を支える法体系や労働行政や雇用保険制度などは、50年を経た現在も驚くほど変わっていない。
 戦後改革の一貫した基本は、使用者(雇用者)と労働者に「介在するもの」の徹底的な排除にある。労働者は工場所有者などの雇用者が直接雇用すること、その徹底にあった。
 それはすなわち、労働者供給事業・労働者派遣事業・労働者紹介事業などの禁止を意味する。労働者を「商品」として、工場所有者など「資本の所有者」に提供することを禁止したのである。
 労働者を「商品」として第三者に「販売」「貸与」するような事業は、洋の東西を問わず広く存在してきた。最も有名なものをあげればアフリカからアメリカに奴隷を「販売」した奴隷商人をあげることができる。日本においても例外ではなく、江戸時代から「口入れ屋」などの職業紹介業者や「人買い」と呼ばれる労働者斡旋業者が数多く存在してきた。
 更には、戦時体制の強化により、労働者の離職・転職・就職の自由は極度に制限され、国の機関によってほぼ完全に統制されているのが、敗戦時の日本の状況であった。
 戦後改革により、労働者は原則として全て資本の所有者に直接雇用されるものだけに、少なくとも法的には整理された。その労働者が、雇用の形態により「正規労働者」と「非正規労働者」そして「日雇い労働者」に分類されたのである。
 正規労働者は労働基準法などが完全に適用される常用労働者であり、非正規労働者とは労働時間が短い・労働日数が少ないなど「常用」されているとは言いにくいあらゆる労働形態を含む、所謂パート・アルバイトと呼ばれる人々である。そして、日雇い労働者は後述する歴史的要因により、法的・制度的に別扱いとされた日々雇用される労働者である。
 労働基準法は労働環境の基本法であり、戦前の工場法などを拡充したものであり原則として全労働者に適用される。ただし、その水準は第一次大戦後まもなくのILO条約とほぼ同じであり、当時の欧米各国に比べて随分と見劣りするものであった。これが後々日本バッシングの要因となるが本論の趣旨とは関係ないので、ここでは詳述しない。常用雇用者は失業保険(現在の雇用保険)制度により保護される。概ねその3/4の労働を行う非常用雇用者も同様である。日雇い労働者には、別途日雇い労働者だけの別保険制度を作る。それが戦後の労働環境を維持してきた法制度である。では、常用雇用の3/4に満たない非常用雇用者はどうしたのか?民間職業紹介事業などが原則として一切禁止され、国の公共職業紹介所が労働仲介の一切を独占している状況下での強力な行政指導により、そのような短時間の雇用を使用者に対し基本的に認めなかったのである。すなわち、そのような労働者は「制度適用上は存在しない」それが建前として、ごく最近まで通用していたのである。日雇労働保険は、港湾労働や建設現場の作業員などに極めて限定的・例外的に適用され、一般の短時間労働者や臨時労働者には適用されることはない。この状況は今も同じである。
 最近の「日雇い切り」批判を受け、厚生労働省は日雇労働保険(正式には「日雇労働求職者給付金」)が日雇派遣労働者にも適用されるとの広報を始めている。ところが、実際には普通の日雇派遣労働者が、この給付金を受け取る可能性は限りなく小さい。まず、この保険の対象者となるためには日雇手帳の交付を受けなければならない。ところが、この取り扱いを行うハローワークは平成20年12月現在で全国でわずか6カ所だけなのである。

  1. 船橋(千葉県船橋市)
  2. 新宿(東京都新宿区)
  3. 名古屋中(名古屋市中村区)
  4. 大津(滋賀県大津市)
  5. 大阪東(大阪府大阪市中央区)
  6. 神戸(兵庫県神戸市中央区)

関心のある方ならすぐ分かるが、いずれも港湾労働者などが集中する地区にあって、近隣は独特の雰囲気がある。
もし日雇手帳の交付を受けたとすれば、1日雇用されるたびに雇用者(派遣労働者なら派遣会社)から証紙を一枚貼付してもらわなければならない。その枚数が直近2ヶ月で26枚あれば、職が得られなかった「その日」に上記6カ所のハローワークに早朝(ハローワークによって異なる)出頭することで、その日の昼前頃に給付金が支給される仕組みなのである。しかも、出頭時にはハローワークでは「通常の」日雇仕事の紹介を行う。これを拒否すれば当然に給付金は支給されない。
これでは、実質的に日雇派遣労働者が給付金を受けられる可能性はないわけである。

次回は、戦後改革によって禁止され消滅した「はずの」明治〜昭和戦前期の労働環境を検証してみたい。間接雇用と中間搾取の温床となった日本的労働環境は姿を変えて生き残ったのである。
その「原点」を知ることで、日雇派遣を禁止することで、どのような労働環境が出現するのかが明確になる。日雇派遣を禁止すれば、常用雇用が増加するとの認識はあまりに歴史を知らないがゆえの「幻想」に過ぎない。
戦前の亡霊を復活させないための「新たな雇用者への法規制」を伴わない限り、日雇派遣の禁止は、労働環境の戦前への回帰を生み出すだけである。
それは、誰も望まない結末のはずである。あるいは未だ戦後改革の幻想の中にいる旧労働官僚は、それを望んでいるかもしれないのだが。

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2007/08/26

新献策十講:(独)国家政策立案機構を創設せよ

今回論じようとするのは公務員制度改革です。
単なる天下り規制や給与引き下げに矮小化されて報道される傾向にある公務員制度改革ですが、さまざまな立場から提案されている改革案を詳細に読んでみると遙かに大きな改革の提案がなされていることに気がつきます。

「民間に較べて高過ぎる給与を引き下げ、優遇されすぎている勤務条件を解消しろ」などと言う、一般国民受けを狙った提案は公務員制度改革の「真の狙い」の目くらましではないかと思えるほど、明治時代以来の官僚制度の解体を図るとしか思えないものが多々あります。

代表的な抜本的な改革事項は次のものです。
・各省庁別に事務次官を頂点としてピラミッド上に構築される「官僚機構=政策立案機構」を解体する。
・政策群の単位を「省庁別」から、より広い「分野別」に変更する。
・政策の実質的決定権者を官僚トップから政治家に変更する。
・メリットシステムにより基本的に終身雇用が保証されている公務員を、政治任用を前提とするスポット職員化する。

いずれも、東大を中心として養成される優秀な人材を中央官庁に集中し、「天下国家の重大事への対応=国家政策の立案実施」を一元的に高級官僚に担わせるという、明治以来の日本の官僚システムを抜本的に解体する提案です。

それら提案の背景には、英米型特に米国型の政策立案システムへの転換があるようです。
広く知られるように二大政党制が定着し、立法府と行政府の独立性が高い米国では、国家政策の立案は名実ともに立法府である連邦議会が担っています。ホワイトハウスを頂点とする行政機構は、大統領が政治任用する広範な高級官僚スタッフとメリットシステムにより終身雇用される一般職員から構成され、基本的に行政事務を実施する権限と責任のみがあり政策立案には関与しません。
具体的には、連邦議会で多数党に属する各連邦議会議員のスタッフが政策立案の実務を担います。それぞれの議員は出身や支持母体を背景とした得意分野を持ち、独自に政策を立案します。
各議員の政策立案スタッフは膨大です。法律的には臨時雇用と位置づけるべきスタッフも多く、外部シンクタンクや学術機関から政策を丸ごと「買い取る」ことも日常的に行われています。その費用は莫大ですが、任期中いかに多くの「政策」を実現したかが問われる米国議員にとって、それは本質的仕事そのものなのです。

わずか数人の公設秘書しか持たない日本の国会議員とは大きく異なります。与野党問わず、なぜ日本の議員に政策スタッフが不要なのか?
「国家のあらゆる政策は、霞ヶ関の官僚機構群が生み出している」それこそが答えなのです。

日本の政治システムを米国型に転換することは可能か?
答えは「可能」です。
では、それが望ましいか?
答えは「望ましいとは言えない」です。

米国では、大統領選挙があるたびに行政府のスタッフ、日本で言う高級官僚から中級官僚が一斉に交代します。そのため、政権交代の度に行政機関の責任者も交代し、行政の一貫性は極度に失われ責任は曖昧になります。見方を変えれば、行政の責任は公務員が負うのではなく、選挙に代表される政治過程を通じて政治家が負うものなのです。
日本に置き換えれば、年金記録紛失問題は事務官僚である厚生労働省の長官や局長が負うのではなく、政治家である大臣や副大臣、政務官が負うことになります。
必然的に責任の追及は、司法手続きに従い過去に遡って厳格に行われる必要があり、それが抑止力となって適正な行政執行を担保する仕組みなのです。これは、古代ローマ帝国の仕組みを援用しているものと言われています。
司法の独立性や迅速性が劣る日本において、そのような仕組みが有効に機能するかは疑問です。

もう一つの問題は、連邦議員がそれぞれの利害に従って立案する政策が、基本的には相互に独立しており政策相互間が十分に調整されていないことです。
あくまで相対的ではありますが、霞ヶ関の中央官僚群が立案する政策が各省庁間の擦り合わせ作業を通じて全体として高度に調整されているのに比して、米国では連邦議会での審議により「近視眼的」「現実的」に整合性をとるに過ぎないことがあります。
その結果として、政策効果が相殺されたり、無駄が生じたり、あるいは一貫性が失われるなどの弊害が大きくなることは問題です。

ではどうするか?
霞ヶ関の中央官僚群を省庁毎に独立行政法人化することを提案します。
もちろん、中央省庁と言えども行政事務を実施するだけのセクション・職員は存在します。地域機関や地方公共団体に通達し連絡調整し統計資料を作成するような部門です。これらは分離して、本当の意味での中央行政府に再編成します。
中央官僚群の政策立案部門の割合を正確に把握した資料はないようです。しかし、そのアウトプットから推測するに霞ヶ関中央官僚群の8割以上は、実質的に政策スタッフと断言して良いでしょう。

まず、各省庁毎に政策スタッフと実務スタッフを区分します。各省庁の政策スタッフ群は現在の組織構成のまま、独立行政法人とし国家行政組織から分離独立させます。
独立行政法人のトップは、内閣が任命するのが良いでしょう。

独立行政法人は、国家レベルの各種の政策を立案し販売することです。
主な販売相手は、与党自民党・野党民主党です。将来的には発展途上国や欧米先進国に「政策パッケージ」を販売することも視野に入れることになります。
旧国鉄が民営化されて「新幹線システム」を世界を相手に販売していることをイメージすると解りやすいでしょう。
国家政策を販売し、その収益で「政策スタッフ=旧官僚」を雇用する構造です。

従来の各省庁大臣は実務スタッフが構成する「新省庁」のトップとなります。
その役割は、日本国の立場にたって「より良い国家政策」を「より廉価に」購入することです。購入費用とはすなわち国会で決定される予算に他なりません。安く買うことで税金の負担は小さくなります。
購入先は自由に選定できます。旧中央省庁である独立行政法人だけではなく、欧米のシンクタンクからも購入できます。そこには「競争」が発生します。

このように整理すると、現代日本の官僚システムの問題点がよく解ります。
国家が内部機構として政策立案スタッフを独占しています。その費用は公務員の人件費として税金で無条件で賄われています。与党は国家公務員である政策立案スタッフを独占的に利用して自らの政策立案に利用できます。
逆に言えば、国家政策立案スタッフである中央省庁の官僚は、自ら望ましいと思うところ政策を、与党の支持さえ得ていれば身分上の保証を得ながら、税金によって自由に立案し実施できると言うことです。

適正な「競争」は「より良い政策」を生み「より低廉な価格」を生みます。
国家機構そして政策における「新自由主義」の実現こそが、この提案の究極目標です。

最後にもう一度提案を整理します。
・中央省庁は、省庁別に独立行政法人にする。
・中央高級官僚は、一律に独立行政法人職員に移管する。
・各国会議員は政策スタッフを雇用し、国家政策を購入する主体となる。
・各国会議員は、予算編成過程を通じて自らの国家政策の実現を図る。
・政府=議員内閣は、予算により決定された国家政策を購入する主体となる。
・行政府は、政策実施を行うだけの機関にする。

すぐに忘れられてしまうでしょうが、「民主党が各省庁に局長級の官僚が法案の説明にくるよう要請」と最近の新聞記事に載りました。
現代日本の政策立案過程をよく表していますが、参議院第一党の政治意識としてはまことに心細い限りです。
官僚群に政策立案を独占させている限り、明治維新から一貫している「日本レジューム」からの脱却などできないことを認識していただきたいところです。

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2007/08/11

新献策十講:「国民の権利と自由の保護省」の創設

いわゆる小泉改革の影に隠れて注目されていないが、ここ10年間ほどの立法や行政の動向を改めて調べてみると、治安国家化が一貫して進行していることに気がつく。
一般の国民の側から見れば、憲法で保障された自由権や社会権が各種の新規立法や法律改正によって制限されているのである。
アメリカの911テロ後は全世界的傾向になりつつあるが、日本におけるそれは戦前への回帰を想像させるものも多く、安倍首相の言う「戦後レジュームからの脱却=戦前の統制国家への回帰」を多くの知識人に想起させる原因にもなっている。

「国民保護法」と言う名前の「戦時における国民の権利の制限法」を含む一連の非常法制の立法が代表的だが、ストーカー規制法・暴力団対策法・盗聴法そして共謀罪など一見すると特定の集団や罪状のみに限定されているように思われる自由制限法や行政への授権法も、簡単に対象者や罪状を拡大できる危ない立法である。これら一連の立法活動によって、主に警察機構内に整備されつつある治安警察の仕組みが、何かの切っ掛けで国民全体に対して猛威をふるい、戦前そのままの警察国家が再現しない保証はどこにもない。
特に時の為政者が国民の支持を失っても権力に固執するとき、警察力や軍事力を使った国民への政治的弾圧が強化されることは歴史の教えるところである。

ではどうすべきか?
国民の立場に立って、不当に国民に義務が課されたり、憲法が保護する権利が制限されたりすることがないようにし、新たな社会情勢の変化に対応し国民の権利を保護し拡充することを目的とする国家機関を創設するべきである。
仮に「国民の権利と自由の保護省」と名付けるこの機関の使命は
・国民の権利と義務に関して違憲立法や法律に基づかない侵害行為がなされないように常時活動すること
・憲法が保障する国民の自由権、社会権を実現するため、具体的な立法を行うこと
・新たに必要が生じた国民の自由と権利を立法により保障すること
にある。

すでにお気づきの方もあると思うが、それを行政権に属する一省庁とすることには法体系上問題があるだろう。
最も望ましいのは、国会に直属する司法権の一部も有した行政委員会であろう。もちろん独立した事務局を有し、委員は公選されることが望ましい。

行政委員会制度が根付くことなく形骸化している現状では、最高裁判所の付属機関とする選択や、会計検査院と同様の独立性の高い行政組織とすることもやむを得ないようにも思われる。

憲法の建前に関わらず、現代日本の実質的立法は中央省庁が分野毎に行っている。国会は、あくまで各省庁が立案した「法律案」を承認するかしないか(実際はほとんどを承認しているのだが)を決めているだけである。
その最大の問題点は、各省庁がそれぞれ特定の利益集団や省庁そのものの利益を最大化するために法律を立案していることにある。
経済産業省や国土交通省が立法の目的としているところは比較的解りやすいだろう。財務省や防衛省そして警察庁も目的を持って法律案を作る。
そこに問題があるのである。

財務省は歳入を最大化するため立法する。そのため、国民への増税は当然である。防衛省は国家の安全を確保したい。そのためにスパイ防止法を作るべきであり、自衛隊が自由に私有地を使い、協力しない国民を取り締まりたい。
警察庁は、治安に責任がある。犯罪を犯すかもしれない国民を早く捕まえて犯罪を防止したい。できれば犯罪の範囲を広げて警察官も増員したい。

そのような勝手の思惑が積み重なって、声なき国民の権利が制限され義務が増やされていくのである。

それを防ぐためには、積極的に「声なき国民」の権利を保護することを目的とする省を新設することが近道である。
いかに国民の権利を保護し拡充するかが「国民の権利と自由の保護省」の省益であり、評価基準である。
有能な「国民の権利と自由の保護省」の官僚は、自らの出世のためにも最大限の努力をするはずである。
その活動の結果は劇的であるに違いない。なにしろ、省益を支える利益団体は投票権を持つすべての国民なのだから。

自由民主党の支持基盤は財界・産業界・商工団体など幅広い。
民主党の支持基盤は一般に今やわずかな国民しか加入しない労働組合と言われている。
もし参議院第一党である民主党が、その躍進を実現させた幅広い国民の期待に応えて、真の「国民的支持を基盤とする政党」に成長するためには「国民の権利と自由の保護省」の創設を提案し実現するべきである。

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2007/08/08

新献策十講:自由教育法の制定

安倍首相のもう一つのこだわりが教育である。
極めて乱暴な強行採決の連続で教育基本法が改正されたのは記憶に新しい。
では何をどう変えたのか? 実質的な討論もなかったことで、改正内容の全体像さえ国民の多くは知ることもないままである。
何が問題で、何を理想の教育とするか。
その基本認識さえコンセンサスが得られないまま、文部官僚主導で作成された改正法に未来はない。
何しろ戦後半世紀、今日の教育の荒廃を招いた当事者が立案したのである。
「泥縄」どころか「泥棒本人に自らを縛る縄を綯わせた」のである。
当事者として確かな教育システムを構築できなかった文部官僚に教育の理想は語れない。

教育の理想像、理想の教育システムを明確に提示することは、現時点で優先順位の高い魅力的な政策課題である。

教育については、自由と選択をその基本原則としたい。
今回放棄された「ゆとり教育」の失敗の本質は、「ゆとり」の内容までをも統制しようとした現在の画一的で中央集権的な教育システムそのものにある。
教育そして学習は、本来的に国民の自由権に属するものであることを再認識しなければならない。

普段なにげなく使っている「義務教育」とは何か?
「誰の」「誰に対する」「義務」なのか?
「義務」に対応する「権利」とは何かを考えてみたことがあるだろうか。

日本において「義務教育」は明治維新から間もなく開始された歴史の古い制度である。戦前においては「義務教育」も無料ではなく、多くの貧しい国民にとってその学費の負担は相当のものであった。
しかも、自らの子供を学校に通学されることは国民の「義務」であった。
通学させないものは、犯罪として処罰の対象にさえなったのである。
「義務教育」とは国(正確には市町村)が設置する小学校に、子供を通学させる義務を国民が負うことに他ならないのである。

では義務教育導入前、江戸時代の国民の就学率は低かったのか?
経済的にも裕福になり、商品経済が発展していた江戸末期において、国民の就学率は高い。特に江戸や大阪での就学率は驚くほど高かったのである。
幕府が強制するまでもなく、庶民は自らの稼ぎと必要に応じて子供を寺小屋や手習い師匠に通わせた。江戸の教育は「読み書き算盤」と言われるように実学そのものである。子供は教育を受けることで、確実に良い生涯を送れる可能性が高まるのである。

明治維新後、導入された国による「義務教育」は不評であった。全国画一に実施される教育は地域の実状を反映せず、子供が将来つく職業を考慮しない。「農民の子に教育はいらない」少し前まで聞かれた言葉である。その一言が明治以降の義務教育を象徴している。農民にとって教育は必要である。作物を育て売り捌くには様々な知識と経験が必要だからである。職業毎に必要な知識は異なる。
それを無視し一方的に国家が必要とする知識を教えるだけの教育は、当初から国民自身には必要とされなかったものである。
当時の国家が必要とした知識とは何か?
将来国の中核を担う官僚を選別するための知識のための知識。共通の日本語を話す均質な国民。勃興する企業が必要とする最低限の読み書きができる従順な国民。上官の命令が理解でき命令書が読める従順な兵士。
そんな「国民」を育てるのが「義務教育」の役割だった。

戦後も義務教育は残った。
一旦は市町村教育委員会に分割され自由化された義務教育は、独立回復後早々と戦前の画一的で中央集権的な仕組みに戻されたのである。
戦後教育の歩みは不幸である。
基本理念は常に混乱し、国民的コンセンサスは一度も成立したことがないと断言できる。
事実としての義務教育は、高度成長期に大量に必要とされた均質なホワイトカラー労働者とブルーカラー労働者を量産し続けたのである。
均質で無個性で非創造的な国民は、戦後義務教育の成果にほかならない。

教育をどうすべきか?
結論は、国・地方公共団体はその過程から「全面撤退」することである。
教育機関や教育内容は国民の自由に任せるべきなのである。自由に任せさえすれば、時代に即して企業や社会が必要とする人材を育成するための多様なプログラムが多くの民間企業により提供されるのである。

国はなにをするべきか?
まずは国家自身が必要とする人材を育成するための高等教育機関を設置する。明治維新後まもなく創設された帝国大学の再興である。
それから各種職業が必要とする技能の認定、すなわち国家資格の認定である。社会や企業が必要とする人材像を明確に定義し、試験を行い資格を付与する。これを的確に行えば、教育の過程に国家が関与する必要はない。自動車運転免許が国家試験により与えられるにも関わらず、その教育は民間に任されているのと同じである。
試験に合格できない悪質な民間教育機関は自然に淘汰される。それが自由経済の原理である。
経済的理由で教育を受けられない国民への援助は重要である。国家の責任で基金を創設し、憲法が保障する教育権を実現するための無利子貸付制度や奨学金制度を創設するのである。
教育は国民一人ひとりが、より豊かで充実した人生を生きるための自己投資である。国家のための人材育成ではない。国民自らの成長が教育の目的なのである。

最後に自由教育法の骨格を示しておきたい。
・自由教育法を定め、教育基本法等の既存法は一切廃止する。
・教育の原則は国民の自己実現にあることを明確にする。
・就学義務を廃止し、一切の教育は国民の自由とすることを明確にする。
・文部科学省及び都道府県教育委員会を廃止する。
・義務教育小中学校は廃止し全面的に民営化する。
・高等学校以上の高等教育機関は原則として廃止し一部を独立行政法人化する。
・私立学校に関する全ての規制を撤廃し、設置者・教育内容とも自由とする。
・国、地方公共団体が自らの必要に応じて学校を設置運営できることを明確にする。
・職業等に関する国家資格を整理統合し、資格認定制度を一元化する。
・国立学習援助基金を創設し、だれもが教育に必要な資金の援助を得られるようにする。
・中長期的な教育課題や標準的な教育カリキュラムを明らかにするため、中央教育会議を創設する。
・悪質な教育機関を監視処分する行政委員会として、市町村教育委員会を再構築する。
・教育委員会を公選制に復帰する。

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2007/08/05

新献策十講:憲法改正手続法の制定

前回は勢いがついてしまい、論旨が解り難くなってしまい反省しています。
要するに野党がただ反対するだけでは日本は良くならないので、政策の提案や人材を広く求めて自民案=官僚案よりも「民意」を反映した具体的政策を作り上げなさいと言うことです。
その裏返しとして、政治を良くしたいと願うのなら積極的に具体的な政策案を出すべきなのです。
それが「商売として成り立つ」なら、それは良いことだと思います。
政党がそれぞれに政策立案能力を持つならば、あの巨大な霞ヶ関の官僚群は不要になるわけですから。

と言うことで、最初の献策として選んだのは安倍首相が固執する憲法改正への対応策です。

国民の多くはいろいろな立場から憲法を考えています。結果として、現在のままで良いと思うのは少数派であり「護憲=憲法を改正しない」は魅力的な政策でないことは明らかです。
しかし、それが直ちに「憲法を改正すべきである。」とはなりません。
何をどう改正するかが明らかではないからです。
「憲法は議論すべきである」これが前提となります。

安倍首相が目ざす憲法改正とはなにか?
どうやらそれは全文一括改正で、基本的には戦前への回帰を目ざすもののようです。
具体的に民主的な論議が深まらないまま、時の政権党の意向で憲法改正が行われることは避けるべきであることは明らかです。
政権党が交代する毎に国の基本となる憲法が改正されるべきではありません。
少なくとも歴史的常識では、憲法とは権力者と民衆、言い換えれば支配者と被支配者との基本契約なのですから。

憲法の改正とは、必ずしも全文一括改正を意味しません。
むしろ、特定の条文のみの改正するほうが一般的でしょう。
あるいはアメリカのように新たな課題に対応して修正条文を追加する方法もあります。

では憲法を改正するには、どうすれば良いか。
現行憲法には発議と国民投票のわずかな手続き規程しかありません。
安倍首相が国民投票法の制定にこだわったのはそのためです。

様々な立場から国民が現行憲法に不備があると考えています。
それを議論することが望ましいとするなら、野党は議論の枠組みを作る提案をするべきです。
具体的には「憲法改正手続法」を超党派で提案すべきです。

憲法をどうすべきかを民主的に公平に議論する。
改正発議のための前提条件を定める。
国民投票の枠組みを定めるのが「憲法改正手続法」です。

具体的な主な内容は次のとおりです。
・憲法改正の発議には、国会に憲法調査委員会を設置しなければならない。
・憲法調査委員会の委員は、国会議員の互選で選ぶ。
・憲法調査委員会の委員は、国民の直接投票により信任されなければならない。
・憲法調査委員会には、有識者等で構成する専門委員会を設置する。
・専門委員会委員は、国会で承認されなければならない。
・専門委員会は公聴会を開催しなければならない。
・憲法改正の発議は個別の条文毎にしなければならない。
・憲法改正が発議された場合は、国民投票に先立ち憲法改正会議を設置する。
・憲法改正会議のメンバーは公選により選出する。
・憲法改正会議が国民投票の実施を決定する。
・国民投票は個別の条文毎に実施する。

すなわち、党利党略の影響を極力排除し、国民が改正作業に直接関与できるようにすることが重要なのです。
憲法の改正という重要な政治判断を慎重にするため、個別条文毎に審査し決定することは必要であり重要なことです。

代議士はあくまで一般的に国民を代表するに過ぎないものだとの原則に則り、憲法改正を民主的にすすめる手続きを定めることは、多くの国民の支持を受けるでしょう。
それに反対するものは「どさくさに紛れて都合よく国民の権利を制限し義務を強制する」国民の敵であることを自ら明らかにすることになります。

真に国民のための改正を目ざす者であるなら、国民との議論を恐れないものです。
それが現在の愚かな国民には理解できないと例え考えていても、議論を避け強引に決定することは、民主主義国家では決して認められないことは明確です。
憲法改正手続法案を提案することは、誰が国民の意志を考えているかを明らかにする上で極めて有効な手段なのです。

憲法改正手続法案を参議院で議決する。

衆議院での法案審議を通じて安倍首相の憲法改正の内容と手順を国民の目に明らかにする。それが国民のためのものなら法案は成立するはずです。

その過程を国民が好意的に受け止めるなら、超党派で民主的議論を深めることです。
ただ「憲法改正反対」では国民の圧倒的支持を受けることはないのですから。

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新献策十講:政策献策のすすめ

参議院で与野党逆転が実現した。
すなわち政府自民党が衆議院で法案を通過させても、参議院が否決すれば法律は成立しない。
この状況は土井党首時代の社会党にもあった。それは消費税反対の国民世論が実現したものだった。
しかし、衆参両院の多数党が異なる状況は、多くの国民の期待に反して政治的には何ものをも生むことはできなかった。
衆議院での採決、参議院での否決。
従来と同様に立案される法律案に対し、野党は対案を立案する能力を持たず、ただ反対をするばかり。
衆議院が優先するものは、無意味な両院協議会を経て与党案が成立。
与野党の話し合いと協議の土壌は生まれず、いたずらに国政の停滞を招いただけであった。
不安定な連立政権と政界の再編。
しかし、基本的な政策の転換はなく、あの特異な小泉政権に至って政治主導の政策転換が初めて実現した。

その根本的原因は政治=政党の政策立案能力の欠如にある。
与党=自由民主党の政策とは、国家官僚組織が生み出すものにほかならない。
与党が代表する支持母体の利害を巧みに取り入れつつ、国家の政策を立案し法案化するのが霞ヶ関国家官僚の本質的役割なのである。

国家官僚による政策立案の独占。
それこそが、明治維新いや徳川幕藩体制から一貫した日本の政治システムの特徴なのである。

異なる理念や利害に基づく複数の政策案から、より良いものを民主的手続きで選ぶ。
それが少なくとも西欧諸国が目指した理想の政治であり、議会制民主主義である。
それにも関わらず日本だけは、国家官僚=行政府が政策立案を独占する特異なシステムのもとにある。

参議院で第一党となった民主党、そして衆議院第一党の自由民主党とも、この状況下で行うべきことは、独自の政策立案機能を徹底的に強化することである。

政策立案とは、緻密で複雑で難しくしかも技術的な作業である。
調査や統計に基づく緻密な分析、国民や利益団体の潜在的ニーズの発見や調整、最大多数が是とする具体的法案の作成。
霞ヶ関の優秀な人材が大挙して分野毎に分担して日夜行っている作業に他ならない。
わずか数人の政策秘書や政党スタッフが、片手間に行える作業ではない。

ではどうするか?
外部機関やスタッフを活用するべきである。
民間シンクタンクが主たる受け皿となる。大学の実践的学者を活用するのも良いだろう。
長く政策立案を国家が独占した結果、日本におけるこの分野は未発達であることは否定できない。それならば、欧米を中心に多数ある政策立案を専門とするシンクタンクを活用すれば良い。これは国家の安全を云々する問題とは異なる。「何をしたいのか」が明確であれば、客観的データをもとに技術論的に政策は立案できるからである。

野党が早くそれに気づき、国家官僚が作り上げる与党案に反対するだけでなく、評価に値する対案を提出できるようになれば「政治は変わる。」
将来的、長期的には内部スタッフを充実することも必要である。
しかし、まずは「金で片がつく」ことは「金で方をつけて」、参議院第一党に相応しい国民が歓迎する一派な「政策群」を作り上げる必要があるのである。

政策を買うことは、欧米特にアメリカでは当たり前のように行われている。
特定の政策分野毎にマニフェストそのものを購入し、専門家を雇用する。
まずはそれで良いのである。
国家官僚が、税金という潤沢な資金と多数の優秀な人材を動員して作りあげる政策群は、一般の国民が考えるより「遙かに良く出来ている」からである。
戦後日本の成功はそれの否定することが出来ない証拠である。

その対案を作ることは、従って至って困難な課題である。
議会に属すべき法律立案機能であるから、参議院の法案作成スタッフを大増員することも一つの方法ではある。しかし、行財政改革が国民に支持される状況で、それは難しい。
まずは、政党が自らの資金を使って外部シンクタンクから望ましい政策とスタッフを調達するのが良い。

献策は現代アメリカでも古代中国でも、新しい政権が生まれる度に行われてきた。
「すばらしき新世界」でも次回から微力ながら、国民が望むであろう政策群をアイディア段階のものも含め提示してみたいと思う。

法案化などには、費用と人材が必要である。
与野党問わず、それを提供していただけるなら、自ら手掛けてみたい気持ちはある。(政策の購入や「召し抱え」の希望があればコメント欄にご記入ください。)

本来、アイディアも重要な売りものだが、ここは日本の将来のため無料で公開するので、各政党関係者の方に自由にご活用いただきたい。

いずれにせよ、広く在野の人材、そして政策案を募ることこそが必要であり重要であることを認識しなければならない。

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2007/08/04

政策原論:権力に執着するリーダーを危惧する

参議院選挙の大敗にも関わらず安倍首相の続投が決まった。

確かに法律論から言えば衆議院の意志で首相は決定され、参議院の意志に優越する。
従って「参議院選挙の敗北=退陣」とならないことは明らかである。
議員内閣制ゆえの制約として、国民の意志は代議士を選ぶことで間接的にしか示されないことも、もどかしさの理由である。

しかし、前首相が獲得した「支持」を基盤とする衆議院の自民党圧勝と、自らへの「不支持」が表明された直近の参議院選挙での自民党惨敗は、単なる法律論を超えたところで理解されなければならない。
いやむしろ、リーダーが積極的にその意味を理解して行動しなければならない。
参議院議員選挙への国民の投票が、何に対する意思表示なのか敏感に感じ取れない時、権力は独善化し国民から遊離する。
それはすなわちリーダーによる民主主義の否定(無理解?)の始まりに他ならない。

選挙の大勢が判明するや安倍首相は何の躊躇いもなく続投を表明した。
選挙の敗北の責任が自らにあると認めながら、選挙結果を受け止め政権を維持し政策を推進すると発言した。
いかなる論理構成をもって、その結論がでるのか?
選挙速報の実況解説をしていた、時の権力者に遠慮しがちな政治評論家でさえ、戸惑いを隠せない様子であった。

推測するに安倍首相はこう考えたのだろう。
「自分は小泉首相の正統な後継者として衆参両院で圧倒的支持で選ばれた首相である。これまで推進した政策は、頑迷な野党の反対はあったが国民の意志の結果である衆議院の支持のもと相当程度法案化した。憲法改正など今後推進すべき重要な政策もある。今回の敗北は、自分への不信任ではなく、大臣の不祥事やまさにこれから改革しようとしている国家官僚の怠慢の結果にほかならない。国民は愚かで自分が行おうとする重要なことにではなく、目先の些末なことで反対票を投じたにすぎない。真に重要なことを行おうとすれば反対はある。それを乗り越えた時、愚かな国民は初めてその意味を知り感謝する。その大切なことが唯一わかっている自分は、潜在的に国民の支持を受けるに値する。従って退陣をする必要など一切ない。」

本当であれば実に独善的で貴族主義的で鼻持ちのならない論理である。
首相自らが論理的に語らず、マスコミも評論家も論理的背景を問わない「平和なる日本」では、首相の真意は残念ながら不明なままである。

いかなる論理によるにせよ、安倍首相の政権=権力への執着は異常である。
正義さえそこにあれば、権力の正統性まで犠牲にしかねない愚かさがある。

政治的リーダーが、自らの権力に執着することは危険である。
それは独裁への誘惑と表裏一体のものである。
権力に執着したリーダーは、あらゆる手段による政敵の排除、選挙制度の変更(ゲリマンダー)、民主主義的活動の抑圧を図る。
洋の東西を問わず、過去何回も繰り返された愚かで悲しい歴史である。

独裁の芽は小さなうちに徹底的に摘まなければならない。
参議院選挙に勝利した野党がまず取り組まなければならないのは、それである。

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