カテゴリー「政策原論」の記事

2007/08/26

新献策十講:(独)国家政策立案機構を創設せよ

今回論じようとするのは公務員制度改革です。
単なる天下り規制や給与引き下げに矮小化されて報道される傾向にある公務員制度改革ですが、さまざまな立場から提案されている改革案を詳細に読んでみると遙かに大きな改革の提案がなされていることに気がつきます。

「民間に較べて高過ぎる給与を引き下げ、優遇されすぎている勤務条件を解消しろ」などと言う、一般国民受けを狙った提案は公務員制度改革の「真の狙い」の目くらましではないかと思えるほど、明治時代以来の官僚制度の解体を図るとしか思えないものが多々あります。

代表的な抜本的な改革事項は次のものです。
・各省庁別に事務次官を頂点としてピラミッド上に構築される「官僚機構=政策立案機構」を解体する。
・政策群の単位を「省庁別」から、より広い「分野別」に変更する。
・政策の実質的決定権者を官僚トップから政治家に変更する。
・メリットシステムにより基本的に終身雇用が保証されている公務員を、政治任用を前提とするスポット職員化する。

いずれも、東大を中心として養成される優秀な人材を中央官庁に集中し、「天下国家の重大事への対応=国家政策の立案実施」を一元的に高級官僚に担わせるという、明治以来の日本の官僚システムを抜本的に解体する提案です。

それら提案の背景には、英米型特に米国型の政策立案システムへの転換があるようです。
広く知られるように二大政党制が定着し、立法府と行政府の独立性が高い米国では、国家政策の立案は名実ともに立法府である連邦議会が担っています。ホワイトハウスを頂点とする行政機構は、大統領が政治任用する広範な高級官僚スタッフとメリットシステムにより終身雇用される一般職員から構成され、基本的に行政事務を実施する権限と責任のみがあり政策立案には関与しません。
具体的には、連邦議会で多数党に属する各連邦議会議員のスタッフが政策立案の実務を担います。それぞれの議員は出身や支持母体を背景とした得意分野を持ち、独自に政策を立案します。
各議員の政策立案スタッフは膨大です。法律的には臨時雇用と位置づけるべきスタッフも多く、外部シンクタンクや学術機関から政策を丸ごと「買い取る」ことも日常的に行われています。その費用は莫大ですが、任期中いかに多くの「政策」を実現したかが問われる米国議員にとって、それは本質的仕事そのものなのです。

わずか数人の公設秘書しか持たない日本の国会議員とは大きく異なります。与野党問わず、なぜ日本の議員に政策スタッフが不要なのか?
「国家のあらゆる政策は、霞ヶ関の官僚機構群が生み出している」それこそが答えなのです。

日本の政治システムを米国型に転換することは可能か?
答えは「可能」です。
では、それが望ましいか?
答えは「望ましいとは言えない」です。

米国では、大統領選挙があるたびに行政府のスタッフ、日本で言う高級官僚から中級官僚が一斉に交代します。そのため、政権交代の度に行政機関の責任者も交代し、行政の一貫性は極度に失われ責任は曖昧になります。見方を変えれば、行政の責任は公務員が負うのではなく、選挙に代表される政治過程を通じて政治家が負うものなのです。
日本に置き換えれば、年金記録紛失問題は事務官僚である厚生労働省の長官や局長が負うのではなく、政治家である大臣や副大臣、政務官が負うことになります。
必然的に責任の追及は、司法手続きに従い過去に遡って厳格に行われる必要があり、それが抑止力となって適正な行政執行を担保する仕組みなのです。これは、古代ローマ帝国の仕組みを援用しているものと言われています。
司法の独立性や迅速性が劣る日本において、そのような仕組みが有効に機能するかは疑問です。

もう一つの問題は、連邦議員がそれぞれの利害に従って立案する政策が、基本的には相互に独立しており政策相互間が十分に調整されていないことです。
あくまで相対的ではありますが、霞ヶ関の中央官僚群が立案する政策が各省庁間の擦り合わせ作業を通じて全体として高度に調整されているのに比して、米国では連邦議会での審議により「近視眼的」「現実的」に整合性をとるに過ぎないことがあります。
その結果として、政策効果が相殺されたり、無駄が生じたり、あるいは一貫性が失われるなどの弊害が大きくなることは問題です。

ではどうするか?
霞ヶ関の中央官僚群を省庁毎に独立行政法人化することを提案します。
もちろん、中央省庁と言えども行政事務を実施するだけのセクション・職員は存在します。地域機関や地方公共団体に通達し連絡調整し統計資料を作成するような部門です。これらは分離して、本当の意味での中央行政府に再編成します。
中央官僚群の政策立案部門の割合を正確に把握した資料はないようです。しかし、そのアウトプットから推測するに霞ヶ関中央官僚群の8割以上は、実質的に政策スタッフと断言して良いでしょう。

まず、各省庁毎に政策スタッフと実務スタッフを区分します。各省庁の政策スタッフ群は現在の組織構成のまま、独立行政法人とし国家行政組織から分離独立させます。
独立行政法人のトップは、内閣が任命するのが良いでしょう。

独立行政法人は、国家レベルの各種の政策を立案し販売することです。
主な販売相手は、与党自民党・野党民主党です。将来的には発展途上国や欧米先進国に「政策パッケージ」を販売することも視野に入れることになります。
旧国鉄が民営化されて「新幹線システム」を世界を相手に販売していることをイメージすると解りやすいでしょう。
国家政策を販売し、その収益で「政策スタッフ=旧官僚」を雇用する構造です。

従来の各省庁大臣は実務スタッフが構成する「新省庁」のトップとなります。
その役割は、日本国の立場にたって「より良い国家政策」を「より廉価に」購入することです。購入費用とはすなわち国会で決定される予算に他なりません。安く買うことで税金の負担は小さくなります。
購入先は自由に選定できます。旧中央省庁である独立行政法人だけではなく、欧米のシンクタンクからも購入できます。そこには「競争」が発生します。

このように整理すると、現代日本の官僚システムの問題点がよく解ります。
国家が内部機構として政策立案スタッフを独占しています。その費用は公務員の人件費として税金で無条件で賄われています。与党は国家公務員である政策立案スタッフを独占的に利用して自らの政策立案に利用できます。
逆に言えば、国家政策立案スタッフである中央省庁の官僚は、自ら望ましいと思うところ政策を、与党の支持さえ得ていれば身分上の保証を得ながら、税金によって自由に立案し実施できると言うことです。

適正な「競争」は「より良い政策」を生み「より低廉な価格」を生みます。
国家機構そして政策における「新自由主義」の実現こそが、この提案の究極目標です。

最後にもう一度提案を整理します。
・中央省庁は、省庁別に独立行政法人にする。
・中央高級官僚は、一律に独立行政法人職員に移管する。
・各国会議員は政策スタッフを雇用し、国家政策を購入する主体となる。
・各国会議員は、予算編成過程を通じて自らの国家政策の実現を図る。
・政府=議員内閣は、予算により決定された国家政策を購入する主体となる。
・行政府は、政策実施を行うだけの機関にする。

すぐに忘れられてしまうでしょうが、「民主党が各省庁に局長級の官僚が法案の説明にくるよう要請」と最近の新聞記事に載りました。
現代日本の政策立案過程をよく表していますが、参議院第一党の政治意識としてはまことに心細い限りです。
官僚群に政策立案を独占させている限り、明治維新から一貫している「日本レジューム」からの脱却などできないことを認識していただきたいところです。

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2007/08/11

新献策十講:「国民の権利と自由の保護省」の創設

いわゆる小泉改革の影に隠れて注目されていないが、ここ10年間ほどの立法や行政の動向を改めて調べてみると、治安国家化が一貫して進行していることに気がつく。
一般の国民の側から見れば、憲法で保障された自由権や社会権が各種の新規立法や法律改正によって制限されているのである。
アメリカの911テロ後は全世界的傾向になりつつあるが、日本におけるそれは戦前への回帰を想像させるものも多く、安倍首相の言う「戦後レジュームからの脱却=戦前の統制国家への回帰」を多くの知識人に想起させる原因にもなっている。

「国民保護法」と言う名前の「戦時における国民の権利の制限法」を含む一連の非常法制の立法が代表的だが、ストーカー規制法・暴力団対策法・盗聴法そして共謀罪など一見すると特定の集団や罪状のみに限定されているように思われる自由制限法や行政への授権法も、簡単に対象者や罪状を拡大できる危ない立法である。これら一連の立法活動によって、主に警察機構内に整備されつつある治安警察の仕組みが、何かの切っ掛けで国民全体に対して猛威をふるい、戦前そのままの警察国家が再現しない保証はどこにもない。
特に時の為政者が国民の支持を失っても権力に固執するとき、警察力や軍事力を使った国民への政治的弾圧が強化されることは歴史の教えるところである。

ではどうすべきか?
国民の立場に立って、不当に国民に義務が課されたり、憲法が保護する権利が制限されたりすることがないようにし、新たな社会情勢の変化に対応し国民の権利を保護し拡充することを目的とする国家機関を創設するべきである。
仮に「国民の権利と自由の保護省」と名付けるこの機関の使命は
・国民の権利と義務に関して違憲立法や法律に基づかない侵害行為がなされないように常時活動すること
・憲法が保障する国民の自由権、社会権を実現するため、具体的な立法を行うこと
・新たに必要が生じた国民の自由と権利を立法により保障すること
にある。

すでにお気づきの方もあると思うが、それを行政権に属する一省庁とすることには法体系上問題があるだろう。
最も望ましいのは、国会に直属する司法権の一部も有した行政委員会であろう。もちろん独立した事務局を有し、委員は公選されることが望ましい。

行政委員会制度が根付くことなく形骸化している現状では、最高裁判所の付属機関とする選択や、会計検査院と同様の独立性の高い行政組織とすることもやむを得ないようにも思われる。

憲法の建前に関わらず、現代日本の実質的立法は中央省庁が分野毎に行っている。国会は、あくまで各省庁が立案した「法律案」を承認するかしないか(実際はほとんどを承認しているのだが)を決めているだけである。
その最大の問題点は、各省庁がそれぞれ特定の利益集団や省庁そのものの利益を最大化するために法律を立案していることにある。
経済産業省や国土交通省が立法の目的としているところは比較的解りやすいだろう。財務省や防衛省そして警察庁も目的を持って法律案を作る。
そこに問題があるのである。

財務省は歳入を最大化するため立法する。そのため、国民への増税は当然である。防衛省は国家の安全を確保したい。そのためにスパイ防止法を作るべきであり、自衛隊が自由に私有地を使い、協力しない国民を取り締まりたい。
警察庁は、治安に責任がある。犯罪を犯すかもしれない国民を早く捕まえて犯罪を防止したい。できれば犯罪の範囲を広げて警察官も増員したい。

そのような勝手の思惑が積み重なって、声なき国民の権利が制限され義務が増やされていくのである。

それを防ぐためには、積極的に「声なき国民」の権利を保護することを目的とする省を新設することが近道である。
いかに国民の権利を保護し拡充するかが「国民の権利と自由の保護省」の省益であり、評価基準である。
有能な「国民の権利と自由の保護省」の官僚は、自らの出世のためにも最大限の努力をするはずである。
その活動の結果は劇的であるに違いない。なにしろ、省益を支える利益団体は投票権を持つすべての国民なのだから。

自由民主党の支持基盤は財界・産業界・商工団体など幅広い。
民主党の支持基盤は一般に今やわずかな国民しか加入しない労働組合と言われている。
もし参議院第一党である民主党が、その躍進を実現させた幅広い国民の期待に応えて、真の「国民的支持を基盤とする政党」に成長するためには「国民の権利と自由の保護省」の創設を提案し実現するべきである。

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2007/08/08

新献策十講:自由教育法の制定

安倍首相のもう一つのこだわりが教育である。
極めて乱暴な強行採決の連続で教育基本法が改正されたのは記憶に新しい。
では何をどう変えたのか? 実質的な討論もなかったことで、改正内容の全体像さえ国民の多くは知ることもないままである。
何が問題で、何を理想の教育とするか。
その基本認識さえコンセンサスが得られないまま、文部官僚主導で作成された改正法に未来はない。
何しろ戦後半世紀、今日の教育の荒廃を招いた当事者が立案したのである。
「泥縄」どころか「泥棒本人に自らを縛る縄を綯わせた」のである。
当事者として確かな教育システムを構築できなかった文部官僚に教育の理想は語れない。

教育の理想像、理想の教育システムを明確に提示することは、現時点で優先順位の高い魅力的な政策課題である。

教育については、自由と選択をその基本原則としたい。
今回放棄された「ゆとり教育」の失敗の本質は、「ゆとり」の内容までをも統制しようとした現在の画一的で中央集権的な教育システムそのものにある。
教育そして学習は、本来的に国民の自由権に属するものであることを再認識しなければならない。

普段なにげなく使っている「義務教育」とは何か?
「誰の」「誰に対する」「義務」なのか?
「義務」に対応する「権利」とは何かを考えてみたことがあるだろうか。

日本において「義務教育」は明治維新から間もなく開始された歴史の古い制度である。戦前においては「義務教育」も無料ではなく、多くの貧しい国民にとってその学費の負担は相当のものであった。
しかも、自らの子供を学校に通学されることは国民の「義務」であった。
通学させないものは、犯罪として処罰の対象にさえなったのである。
「義務教育」とは国(正確には市町村)が設置する小学校に、子供を通学させる義務を国民が負うことに他ならないのである。

では義務教育導入前、江戸時代の国民の就学率は低かったのか?
経済的にも裕福になり、商品経済が発展していた江戸末期において、国民の就学率は高い。特に江戸や大阪での就学率は驚くほど高かったのである。
幕府が強制するまでもなく、庶民は自らの稼ぎと必要に応じて子供を寺小屋や手習い師匠に通わせた。江戸の教育は「読み書き算盤」と言われるように実学そのものである。子供は教育を受けることで、確実に良い生涯を送れる可能性が高まるのである。

明治維新後、導入された国による「義務教育」は不評であった。全国画一に実施される教育は地域の実状を反映せず、子供が将来つく職業を考慮しない。「農民の子に教育はいらない」少し前まで聞かれた言葉である。その一言が明治以降の義務教育を象徴している。農民にとって教育は必要である。作物を育て売り捌くには様々な知識と経験が必要だからである。職業毎に必要な知識は異なる。
それを無視し一方的に国家が必要とする知識を教えるだけの教育は、当初から国民自身には必要とされなかったものである。
当時の国家が必要とした知識とは何か?
将来国の中核を担う官僚を選別するための知識のための知識。共通の日本語を話す均質な国民。勃興する企業が必要とする最低限の読み書きができる従順な国民。上官の命令が理解でき命令書が読める従順な兵士。
そんな「国民」を育てるのが「義務教育」の役割だった。

戦後も義務教育は残った。
一旦は市町村教育委員会に分割され自由化された義務教育は、独立回復後早々と戦前の画一的で中央集権的な仕組みに戻されたのである。
戦後教育の歩みは不幸である。
基本理念は常に混乱し、国民的コンセンサスは一度も成立したことがないと断言できる。
事実としての義務教育は、高度成長期に大量に必要とされた均質なホワイトカラー労働者とブルーカラー労働者を量産し続けたのである。
均質で無個性で非創造的な国民は、戦後義務教育の成果にほかならない。

教育をどうすべきか?
結論は、国・地方公共団体はその過程から「全面撤退」することである。
教育機関や教育内容は国民の自由に任せるべきなのである。自由に任せさえすれば、時代に即して企業や社会が必要とする人材を育成するための多様なプログラムが多くの民間企業により提供されるのである。

国はなにをするべきか?
まずは国家自身が必要とする人材を育成するための高等教育機関を設置する。明治維新後まもなく創設された帝国大学の再興である。
それから各種職業が必要とする技能の認定、すなわち国家資格の認定である。社会や企業が必要とする人材像を明確に定義し、試験を行い資格を付与する。これを的確に行えば、教育の過程に国家が関与する必要はない。自動車運転免許が国家試験により与えられるにも関わらず、その教育は民間に任されているのと同じである。
試験に合格できない悪質な民間教育機関は自然に淘汰される。それが自由経済の原理である。
経済的理由で教育を受けられない国民への援助は重要である。国家の責任で基金を創設し、憲法が保障する教育権を実現するための無利子貸付制度や奨学金制度を創設するのである。
教育は国民一人ひとりが、より豊かで充実した人生を生きるための自己投資である。国家のための人材育成ではない。国民自らの成長が教育の目的なのである。

最後に自由教育法の骨格を示しておきたい。
・自由教育法を定め、教育基本法等の既存法は一切廃止する。
・教育の原則は国民の自己実現にあることを明確にする。
・就学義務を廃止し、一切の教育は国民の自由とすることを明確にする。
・文部科学省及び都道府県教育委員会を廃止する。
・義務教育小中学校は廃止し全面的に民営化する。
・高等学校以上の高等教育機関は原則として廃止し一部を独立行政法人化する。
・私立学校に関する全ての規制を撤廃し、設置者・教育内容とも自由とする。
・国、地方公共団体が自らの必要に応じて学校を設置運営できることを明確にする。
・職業等に関する国家資格を整理統合し、資格認定制度を一元化する。
・国立学習援助基金を創設し、だれもが教育に必要な資金の援助を得られるようにする。
・中長期的な教育課題や標準的な教育カリキュラムを明らかにするため、中央教育会議を創設する。
・悪質な教育機関を監視処分する行政委員会として、市町村教育委員会を再構築する。
・教育委員会を公選制に復帰する。

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2007/08/05

新献策十講:憲法改正手続法の制定

前回は勢いがついてしまい、論旨が解り難くなってしまい反省しています。
要するに野党がただ反対するだけでは日本は良くならないので、政策の提案や人材を広く求めて自民案=官僚案よりも「民意」を反映した具体的政策を作り上げなさいと言うことです。
その裏返しとして、政治を良くしたいと願うのなら積極的に具体的な政策案を出すべきなのです。
それが「商売として成り立つ」なら、それは良いことだと思います。
政党がそれぞれに政策立案能力を持つならば、あの巨大な霞ヶ関の官僚群は不要になるわけですから。

と言うことで、最初の献策として選んだのは安倍首相が固執する憲法改正への対応策です。

国民の多くはいろいろな立場から憲法を考えています。結果として、現在のままで良いと思うのは少数派であり「護憲=憲法を改正しない」は魅力的な政策でないことは明らかです。
しかし、それが直ちに「憲法を改正すべきである。」とはなりません。
何をどう改正するかが明らかではないからです。
「憲法は議論すべきである」これが前提となります。

安倍首相が目ざす憲法改正とはなにか?
どうやらそれは全文一括改正で、基本的には戦前への回帰を目ざすもののようです。
具体的に民主的な論議が深まらないまま、時の政権党の意向で憲法改正が行われることは避けるべきであることは明らかです。
政権党が交代する毎に国の基本となる憲法が改正されるべきではありません。
少なくとも歴史的常識では、憲法とは権力者と民衆、言い換えれば支配者と被支配者との基本契約なのですから。

憲法の改正とは、必ずしも全文一括改正を意味しません。
むしろ、特定の条文のみの改正するほうが一般的でしょう。
あるいはアメリカのように新たな課題に対応して修正条文を追加する方法もあります。

では憲法を改正するには、どうすれば良いか。
現行憲法には発議と国民投票のわずかな手続き規程しかありません。
安倍首相が国民投票法の制定にこだわったのはそのためです。

様々な立場から国民が現行憲法に不備があると考えています。
それを議論することが望ましいとするなら、野党は議論の枠組みを作る提案をするべきです。
具体的には「憲法改正手続法」を超党派で提案すべきです。

憲法をどうすべきかを民主的に公平に議論する。
改正発議のための前提条件を定める。
国民投票の枠組みを定めるのが「憲法改正手続法」です。

具体的な主な内容は次のとおりです。
・憲法改正の発議には、国会に憲法調査委員会を設置しなければならない。
・憲法調査委員会の委員は、国会議員の互選で選ぶ。
・憲法調査委員会の委員は、国民の直接投票により信任されなければならない。
・憲法調査委員会には、有識者等で構成する専門委員会を設置する。
・専門委員会委員は、国会で承認されなければならない。
・専門委員会は公聴会を開催しなければならない。
・憲法改正の発議は個別の条文毎にしなければならない。
・憲法改正が発議された場合は、国民投票に先立ち憲法改正会議を設置する。
・憲法改正会議のメンバーは公選により選出する。
・憲法改正会議が国民投票の実施を決定する。
・国民投票は個別の条文毎に実施する。

すなわち、党利党略の影響を極力排除し、国民が改正作業に直接関与できるようにすることが重要なのです。
憲法の改正という重要な政治判断を慎重にするため、個別条文毎に審査し決定することは必要であり重要なことです。

代議士はあくまで一般的に国民を代表するに過ぎないものだとの原則に則り、憲法改正を民主的にすすめる手続きを定めることは、多くの国民の支持を受けるでしょう。
それに反対するものは「どさくさに紛れて都合よく国民の権利を制限し義務を強制する」国民の敵であることを自ら明らかにすることになります。

真に国民のための改正を目ざす者であるなら、国民との議論を恐れないものです。
それが現在の愚かな国民には理解できないと例え考えていても、議論を避け強引に決定することは、民主主義国家では決して認められないことは明確です。
憲法改正手続法案を提案することは、誰が国民の意志を考えているかを明らかにする上で極めて有効な手段なのです。

憲法改正手続法案を参議院で議決する。

衆議院での法案審議を通じて安倍首相の憲法改正の内容と手順を国民の目に明らかにする。それが国民のためのものなら法案は成立するはずです。

その過程を国民が好意的に受け止めるなら、超党派で民主的議論を深めることです。
ただ「憲法改正反対」では国民の圧倒的支持を受けることはないのですから。

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新献策十講:政策献策のすすめ

参議院で与野党逆転が実現した。
すなわち政府自民党が衆議院で法案を通過させても、参議院が否決すれば法律は成立しない。
この状況は土井党首時代の社会党にもあった。それは消費税反対の国民世論が実現したものだった。
しかし、衆参両院の多数党が異なる状況は、多くの国民の期待に反して政治的には何ものをも生むことはできなかった。
衆議院での採決、参議院での否決。
従来と同様に立案される法律案に対し、野党は対案を立案する能力を持たず、ただ反対をするばかり。
衆議院が優先するものは、無意味な両院協議会を経て与党案が成立。
与野党の話し合いと協議の土壌は生まれず、いたずらに国政の停滞を招いただけであった。
不安定な連立政権と政界の再編。
しかし、基本的な政策の転換はなく、あの特異な小泉政権に至って政治主導の政策転換が初めて実現した。

その根本的原因は政治=政党の政策立案能力の欠如にある。
与党=自由民主党の政策とは、国家官僚組織が生み出すものにほかならない。
与党が代表する支持母体の利害を巧みに取り入れつつ、国家の政策を立案し法案化するのが霞ヶ関国家官僚の本質的役割なのである。

国家官僚による政策立案の独占。
それこそが、明治維新いや徳川幕藩体制から一貫した日本の政治システムの特徴なのである。

異なる理念や利害に基づく複数の政策案から、より良いものを民主的手続きで選ぶ。
それが少なくとも西欧諸国が目指した理想の政治であり、議会制民主主義である。
それにも関わらず日本だけは、国家官僚=行政府が政策立案を独占する特異なシステムのもとにある。

参議院で第一党となった民主党、そして衆議院第一党の自由民主党とも、この状況下で行うべきことは、独自の政策立案機能を徹底的に強化することである。

政策立案とは、緻密で複雑で難しくしかも技術的な作業である。
調査や統計に基づく緻密な分析、国民や利益団体の潜在的ニーズの発見や調整、最大多数が是とする具体的法案の作成。
霞ヶ関の優秀な人材が大挙して分野毎に分担して日夜行っている作業に他ならない。
わずか数人の政策秘書や政党スタッフが、片手間に行える作業ではない。

ではどうするか?
外部機関やスタッフを活用するべきである。
民間シンクタンクが主たる受け皿となる。大学の実践的学者を活用するのも良いだろう。
長く政策立案を国家が独占した結果、日本におけるこの分野は未発達であることは否定できない。それならば、欧米を中心に多数ある政策立案を専門とするシンクタンクを活用すれば良い。これは国家の安全を云々する問題とは異なる。「何をしたいのか」が明確であれば、客観的データをもとに技術論的に政策は立案できるからである。

野党が早くそれに気づき、国家官僚が作り上げる与党案に反対するだけでなく、評価に値する対案を提出できるようになれば「政治は変わる。」
将来的、長期的には内部スタッフを充実することも必要である。
しかし、まずは「金で片がつく」ことは「金で方をつけて」、参議院第一党に相応しい国民が歓迎する一派な「政策群」を作り上げる必要があるのである。

政策を買うことは、欧米特にアメリカでは当たり前のように行われている。
特定の政策分野毎にマニフェストそのものを購入し、専門家を雇用する。
まずはそれで良いのである。
国家官僚が、税金という潤沢な資金と多数の優秀な人材を動員して作りあげる政策群は、一般の国民が考えるより「遙かに良く出来ている」からである。
戦後日本の成功はそれの否定することが出来ない証拠である。

その対案を作ることは、従って至って困難な課題である。
議会に属すべき法律立案機能であるから、参議院の法案作成スタッフを大増員することも一つの方法ではある。しかし、行財政改革が国民に支持される状況で、それは難しい。
まずは、政党が自らの資金を使って外部シンクタンクから望ましい政策とスタッフを調達するのが良い。

献策は現代アメリカでも古代中国でも、新しい政権が生まれる度に行われてきた。
「すばらしき新世界」でも次回から微力ながら、国民が望むであろう政策群をアイディア段階のものも含め提示してみたいと思う。

法案化などには、費用と人材が必要である。
与野党問わず、それを提供していただけるなら、自ら手掛けてみたい気持ちはある。(政策の購入や「召し抱え」の希望があればコメント欄にご記入ください。)

本来、アイディアも重要な売りものだが、ここは日本の将来のため無料で公開するので、各政党関係者の方に自由にご活用いただきたい。

いずれにせよ、広く在野の人材、そして政策案を募ることこそが必要であり重要であることを認識しなければならない。

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2007/08/04

政策原論:権力に執着するリーダーを危惧する

参議院選挙の大敗にも関わらず安倍首相の続投が決まった。

確かに法律論から言えば衆議院の意志で首相は決定され、参議院の意志に優越する。
従って「参議院選挙の敗北=退陣」とならないことは明らかである。
議員内閣制ゆえの制約として、国民の意志は代議士を選ぶことで間接的にしか示されないことも、もどかしさの理由である。

しかし、前首相が獲得した「支持」を基盤とする衆議院の自民党圧勝と、自らへの「不支持」が表明された直近の参議院選挙での自民党惨敗は、単なる法律論を超えたところで理解されなければならない。
いやむしろ、リーダーが積極的にその意味を理解して行動しなければならない。
参議院議員選挙への国民の投票が、何に対する意思表示なのか敏感に感じ取れない時、権力は独善化し国民から遊離する。
それはすなわちリーダーによる民主主義の否定(無理解?)の始まりに他ならない。

選挙の大勢が判明するや安倍首相は何の躊躇いもなく続投を表明した。
選挙の敗北の責任が自らにあると認めながら、選挙結果を受け止め政権を維持し政策を推進すると発言した。
いかなる論理構成をもって、その結論がでるのか?
選挙速報の実況解説をしていた、時の権力者に遠慮しがちな政治評論家でさえ、戸惑いを隠せない様子であった。

推測するに安倍首相はこう考えたのだろう。
「自分は小泉首相の正統な後継者として衆参両院で圧倒的支持で選ばれた首相である。これまで推進した政策は、頑迷な野党の反対はあったが国民の意志の結果である衆議院の支持のもと相当程度法案化した。憲法改正など今後推進すべき重要な政策もある。今回の敗北は、自分への不信任ではなく、大臣の不祥事やまさにこれから改革しようとしている国家官僚の怠慢の結果にほかならない。国民は愚かで自分が行おうとする重要なことにではなく、目先の些末なことで反対票を投じたにすぎない。真に重要なことを行おうとすれば反対はある。それを乗り越えた時、愚かな国民は初めてその意味を知り感謝する。その大切なことが唯一わかっている自分は、潜在的に国民の支持を受けるに値する。従って退陣をする必要など一切ない。」

本当であれば実に独善的で貴族主義的で鼻持ちのならない論理である。
首相自らが論理的に語らず、マスコミも評論家も論理的背景を問わない「平和なる日本」では、首相の真意は残念ながら不明なままである。

いかなる論理によるにせよ、安倍首相の政権=権力への執着は異常である。
正義さえそこにあれば、権力の正統性まで犠牲にしかねない愚かさがある。

政治的リーダーが、自らの権力に執着することは危険である。
それは独裁への誘惑と表裏一体のものである。
権力に執着したリーダーは、あらゆる手段による政敵の排除、選挙制度の変更(ゲリマンダー)、民主主義的活動の抑圧を図る。
洋の東西を問わず、過去何回も繰り返された愚かで悲しい歴史である。

独裁の芽は小さなうちに徹底的に摘まなければならない。
参議院選挙に勝利した野党がまず取り組まなければならないのは、それである。

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2007/07/29

07参院選:安倍総理は辞任せよ。

自由民主党の歴史的大敗が確実になった。

安倍総理は、党首としての責任をとり潔く辞任しなければならない。

この結果は参議院での敗北ではなく、安倍総理そしてその内閣への不信任にほかならない。

民主的な議論を軽視した強行採決の連続。
相次ぐ閣僚の不祥事。
リーダーとしての資質と能力の明らかな不足。

この結果を真摯に受け止められないなら、衆議院を解散すれば良い。
自民党は再び歴史的敗北をすることは間違いない。

安倍総理は辞任せよ。
敗軍の将、兵を語らずである。

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07参院選:あと1時間!

午後7時現在、投票したのは3人に1人。
何と前回とほとんど同じです。

まだ投票していない3人に2人の人達!

政治に関心はないのでしょうか?
「このままではいけない。」とか
「このままでいい。」とか

この先6年間も
今回わずか3人に1人が投票したことで選ばれた議員が「国民の代表」となってしまうことに疑問はないですか?

まだ間に合います。
投票しましょう。

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07参院選:投票に行こう!

いよいよ投票日です。
投票は義務ではなく、あくまで権利。

行使してこその権利。

数年に一度しかない貴重な権利行使をしましょう。

たった1票、されど1票。

投票にあたっては本ブログのバックナンバー記事もぜひご参考に。

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2007/07/28

07参院選:隠された争点「憲法改正」

年金記録問題がここまで大きくなるまで、安倍首相は憲法改正を参議院選挙の最大の争点とする考えだったようだ。
すなわち「戦後レジュームからの脱却」の象徴として「現行憲法の廃棄=自主憲法の制定」を前面に打ち出すことで、自由民主党結党以来の悲願の達成を願う「中道」から「右寄り」の国民の結集を図る戦略だったのだろう。

確かに自主憲法の制定を目標とする自由民主党が長期政権を継続するうちに、現行憲法の多くの条文は空文化し、今や自衛隊を合憲とする国民は半数を上回るとの調査さえある。

そのような国民総保守化の状況のなかで、あえて改憲を前面に押し出すことは、最大野党の民主党内部が「護憲」で一致できないことを考えると、選挙戦略としてなかなか秀逸なものと言うこともできる。

その戦略には前提がある。
まず内閣支持率が高いこと。
すなわち、安倍首相なら日本の閉塞状況を打破してくれるとの、小泉内閣初期の期待と同様の期待が高いことである。
改憲はその象徴であればよく、内容は選挙に大勝してからで良い、
そういう事である。

ところが、閣僚の相次ぐ不祥事と煮え切らない首相の態度、そして年金記録問題が原因で内閣支持率が急落した。
そうなると、そのような首相に国の一大事である改憲を白紙委任する国民などいるはずも無い。
従って憲法改正は選挙の争点からは消滅した。

しかし、改憲は今だ自由民主党の公約である。
ひとたび選挙に勝利すれば、たちまち憲法改正が国民に承認されたと称して、一気に与党の独走による憲法改正が行われることが危惧される。

憲法は、国の基本であり、他の公約と一括で「一政党」の意向ましてや「一政権」が改正を図るべき性質のものではない。
憲法を改正する必要があるのかを問う為には、まず現在の国政にいかなる重大な問題があるのか、その原因が憲法自身にあるのか、憲法の解釈運用にあるのか、もしくは憲法をないがしろにする現実の政治に問題があるのかを、民主的に討議し結論を出さなければならないのである。
そこで憲法を改正するのが適当であり、かつ憲法を改正する以外に方法がない場合こそ、憲法改正が国会で発議されるべきなのである。

日本の直面する問題とはなにか?
教育の荒廃。
それは憲法の条文の問題なのか? あるいは憲法の定める教育を実現していない政治の問題なのか?
戦争の放棄と軍備の不所有。
現実に半世紀以上続いている平和は憲法の条文が理由なのか?あるいは文理解釈上現行憲法と相容れない自衛隊の存在があったからなのか?
道徳の退廃。
権利を重んじ義務を軽んじた憲法の条文が問題なのか?では憲法に詳細に規程することで国民の道徳は向上するのか?ましてや憲法とはそのような目的で定められるものなのか。

どれをとっても一つ一つを丁寧に公平に幅広く民主的に議論し結論を出すべきものばかりである。
決して包括的に時の一政権・一内閣に白紙委任などすべきものではない。

安倍政権の憲法改正論議は幼稚で素朴ですらある。
この国のなにが問題であり、それをどうするべきであるかの明確なビジョン=提案が、まずなければならない。
憲法の条文を変えることで、現状が変わるわけではない。
どう変えるべきかの明確な国民的コンセンサスが先にあって、それが憲法の条文となるのである。

憲法は絶対王政時代の「国王の御触れ」ではないのである。
言い換えれば、民主国家における憲法とは、国が国民に命令するものではない。
主権者である国民が自らの共通の意志を将来に向け明文化し、国会・行政・司法のあり方を規定し、国民そして時の権力者の恣意的な権限行使を抑制するものである。

もし、憲法を改正したい、あるいは改正の必要があると時の権力者が考えるのであれば、まず行うべきことはなにか。
現行憲法下における具体的な問題点=課題を明示したうえで、広くそれを調査審議するための会議を設置することである。
有識者を中心に多様な利害関係を持つ国民各層を幅広く包含する委員が、客観的データと専門的知識により、その原因を探求することから始めなくてはならない。

その過程を通じて国民のコンセンサスが形成され、個々の問題の解決策が合意されるのである。
その結果として、憲法の特定の条文に原因があるなら、合意されたコンセンサスを法の専門家が新たな条文にして憲法の該当条文が改正されれば良いのである。

そのような民主国家における憲法の基本的意味され理解できない者に、憲法改正など行わせることはできない。(そう思うでしょ?)

近代国家としての日本は、これまで2つの憲法を持った。
一つは明治維新後相当期間の後に制定された大日本帝国憲法。
もう一つは、敗戦による占領下でその憲法を全面改正する形で制定された日本国憲法、すなわち現行憲法である。

この2つの全く異なる憲法には、意外にも共通する2つの特徴がある。

一つは、その短くない期間中に一回も部分改正すらされなかったこと。
それは憲法改正がいかに困難であるかということ、そして日本人は憲法条文の不備すら解釈でなんとかしてしまうと言う良く言えば「柔軟性」、悪く言えば「いい加減さ」があることを示している。

もう一つのより重要な共通点は、いずれもが広く国民的議論により誕生しなかったことである。

大日本帝国憲法は義務教育で習うとおり欽定憲法すなわち天皇が国民に相談などせず一方的に定めた憲法である。実際には、本来は憲法をも審議するべき帝国議会開設に先立って明治政府の要人が諸外国の憲法を調査して、その当時の平均水準の憲法をつくって、さっさと制定してしまったものである。
憲法制定は当時の状況下にあっても重要な政治課題であり、在野の政党や国民が多くの私案を作成して公表するなど、国民的議論の土壌はあった。
しかし、明治維新を成功させた明治政府は強権的一方的に憲法を定めて、以後一切憲法を議論する機会はなかったのである。これはその後の近代日本の民主主義の発展に決定的なダメージを与えた最初で最大の出来事だったと思う。
しかし、その皮肉な結果として、明治憲法は政党の党利党略に巻き込まれる事なく、一貫性のある体系化された構造を持つことができた。その条文相互は良く整合していて、様々な主張に妥協した形跡はない。

日本国憲法の制定は、さらに皮肉である。
太平洋戦争に敗戦し、その軍国主義的国家体制を解体し民主国家を構築するため、新憲法は必要とされた。
それにも関わらず明治憲法下に育った日本国民にもはや、それを抜本的に再構築する知識階層は不在であった。占領下、日本の学者・政治家・官僚が作成した憲法改正案が現存している。それは明治憲法を字句修正した程度の幼稚なものでしかない。
明治国家の教育システムが鋳型どおりの人材を育て、その人材が政府行政の中核占めることで、日本人は自由な発想ができなくなったと言わざるを得ない。
結果として、日本の民主化と国家構造の抜本的変革を意図した現行憲法は、GHQが英文で作成した原案に沿って日本人の手によって定められることになったのである。
占領下の特殊な状況化で現行憲法は誕生した。原案は限られた者のみが密室で作成した。そこには、やはり幅広い国民の議論が入る余地はなかった。
結果として、現行憲法も綺麗に整合した体系を持つ20世紀に制定された憲法のうちでも最も先端的な内容のものとなった。
憲法改正は国会で審議されたが、対案が提出されることもなく、大きな字句修正すらされることなく、実質的な議論がないまま政府案が承認され、公布された。それは歴史的事実である。

それをもって「占領下でアメリカに押し付けられた憲法」とか「日本人自らの手による自主憲法が必要」と主張するのは自由である。
しかし、当初政府当局者が作成した明治憲法そのままの天皇主権を肯定する改正憲法案が、より望ましいものであったとは到底思えない。

その制定経緯から現行憲法を全否定して明治憲法を基本に新憲法を論じるべきとの主張がある。
愚かなことである。
明治憲法による戦前の日本を理想化する主張がある。
愚かなことである。

明治憲法を生み出し、明治憲法が育てた大日本帝国は、多くの国民の命を犠牲にして消滅した愚かな国家システムだからである。

現行憲法によって出発した戦後日本が、ここまで繁栄し平和を維持した事実がある。
もし現在の日本社会に問題があり、その解決の手段として憲法の改正が必要であるなら、出発点は今でなければならない。
その解決方策は未来に実現すべき理想像にこそ求められなければならない。

憲法は未来の理想像の法による具体化なのである。

その準備がないまま憲法改正を語ることは愚かである以上に無責任である。

国家の将来像、理想像を示さず、ただ憲法改正のみを公約にする愚かな政党に投票するわけにはいかない。

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2007/07/26

07参院選:隠された争点「大増税」

「行財政改革」そして「徹底的な歳出削減」が予想通り頓挫した現在、消費税率の引き上げはもちろんあらゆる増税策が選挙後実施されることはほぼ確実です。
唯一、増税が凍結される可能性は、与党=自由民主党が徹底的に選挙に負けた場合だけだと断言できます。

安倍政権発足直後の税制論議を覚えているでしょうか?
小泉政権の企業優遇・勝ち組優遇税制を基本的に踏襲して、法人税などの税率削減、投資促進優遇税制の延長、そして個人所得税の大幅増税と消費税率の引き上げが具体的に示されていました。

その後、参議院選挙への影響が危惧された結果、具体的な検討も増税を示唆する発言も徹底的に避けてきた結果、税制論議は今回の選挙の争点から忘れられてしまったかのようです。

国民生活に決定的に影響するにも関わらず、日本において税制を変更操作することは、毎回のように至って技術的に処理されてしまいます。
一たび関連法案が提案されれば、実質的な討論さえ行われないまま、財政当局の法案がそのまま可決されるのが通例です。
野党の反対も形だけの「審議拒否」「採決欠席」ばかり。
確かに技術論に偏りがちな税議論ですが、与野党議員の不勉強は目にあまるものがあります。

例えば地方への税源委譲に伴う「所得税減額、住民税増額」ですが、財政当局の「増減同額で総額は変わらない」との説明が、まったくの嘘であることさえ、議員の誰として解っていませんでした。
更に財政当局は「税源委譲による分は同額であり、増税となったのは定率減税が廃止されたため」と補足説明しますが、まさにその分を含めた税負担の増減こそが国民が知りたいことだとわかっているだけに、意図した悪意を感じるのです。

しかも、この税源委譲のドサクサに紛れて住民税制の基本が変更されたのに気がついたでしょうか?
戦後一貫して高度の累進構造となっていた所得税の最高税率が極めて大幅に引き下げられる一方で課税最低額が引き下げられて、所得税の累進構造が緩和されたのが小泉政権での税制改革の最大の特徴ですが、安倍政権下では住民税の累進構造が「廃止」されてしまいました。
これまで、所得に応じて複数の税率があったものが、今回改正で一律10%となり1億円の所得があっても400万円の所得であっても税率が同じになりました。
ほとんど話題にもならなかった変更ですが、格差拡大を是認した小泉政権でも実現できなかった徹底した「平等主義」がまったく技術論として実行されてしまったのです。
その結果、税源委譲による所得税・住民税の配分変更は、高額所得者はトータルで減税、低所得者はトータルで増税となったのです。

その他にも、相続税の低減や事業譲渡に関する特例などによって、高所得者・資産家・事業主は減税に、ごく普通のサラリーマンなどは増税になっています。

これら全ては小泉=竹中ラインの「富の集中による企業活力増加政策=自由主義的小さな政府」方針に沿った改革に他なりません。
結果として、日本はバブル崩壊後の長期不況から脱出の手がかりを掴むことに成功したことは素直に評価しなければなりません。
しかし、一方で戦後日本が築き上げた社会主義的でさえある経済的平等社会が崩壊し、所得格差の拡大による社会不安そして福祉制度など社会システムさえもが崩壊しつつあることに、もっと注目しなければならないはずです。

この時点でなお、企業減税を通じて企業の投資意欲と事業革新を促進する必要があるのか?そのために不足する財源を個人所得税の増税や消費税の引き上げで賄うべきなのか?真剣に考えなければなりません。

自由経済を推進尊重するアメリカ共和党の税制改革は参考になるでしょう。
基本的に企業や個人の自由な経済活動を尊重し政府等による規制を最小化することが、米保守政党=共和党の基本政策ですが、その税制は微妙に日本と異なります。
累進構造の否定は同一で、企業に対する課税の引き下げも同一です。しかし、個人に対する課税も同様に「減税」それが真の自由主義的税制なのです。
法人も個人も減税し、不足する財源はどうするのか?
その答えは福祉政策を中心とする徹底した歳出削減なのです。
そして、税負担が軽減された企業と個人が活発に金儲けをし「国際的に勝ち組」になることで税収も伸びる。
それが、本当の自由主義的経済政策なのです。

日本はどうでしょう?
企業を減税して企業活力を高める。歳出を拡大し、元気のない企業に対しては補助金などを交付する。既得権益化した福祉支出は削減できない。歳出削減が不可能なので当然行政組織の削減もできない。公務員の削減や人件費も削減できない。
財政は危機的状況なので、相対的に余裕があり経済活性化にあまり役立たない中堅以下のサラリーマンは増税する。直接の増税感が薄い消費税は当然増税する。
これが、政府=与党が支持する財務省の税政策なのです。

ごく普通のサラリーマンの皆さん。これで良いのですか?納得できますか?

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2007/07/24

07参院選:隠された争点「共謀罪の新設」

多くの善良な国民にとって無縁のように思われる「共謀罪の新設」ですが、平和で自由な戦後日本社会の決定的に変えてしまう怖れがある危険な仕組みです。

「言論表現の自由」「思想信条の自由」は現行憲法で絶対的に保障されているにも関わらず、現実の政治社会での各種立法により多くの制限が設けられてきたのは周知のとおりです。
デモ行進を制限する公安条例、団体を規制する破壊活動防止法、テレビ放送等を制限する放送法などによって、憲法が保障した自由権の多くが規制されているのが現在の日本です。
そのような日本でも、個人が何かを考えたり話し合ったりすることは基本的に規制されていません。

共謀罪とは何か?
簡単に言えば、ある犯罪を「話し合うこと」を犯罪とするものです。
法案によれば3年以上の罪を2人以上が話し合うことが犯罪になります。

現行刑法では、話し合うことは犯罪ではありません。
例えば、ある人物を殺す方法を話し合っても、誰かを誘拐しようと話し合っても罪にはなりません。
その犯罪を実行しようとしたり、道具を揃えるなど準備をして、はじめて未遂罪に問われる仕組みとなっているのです。
もちろん話し合っている時点で罪として逮捕できれば、犯罪の予防に効果的であることは明らかです。
では、なぜ「話し合い=共謀」を罪としないのか?
それは犯罪予防の効果より、冤罪による弊害のほうが大きいことが歴史的に明らかになっているからに他ならないからなのです。

具体例をあげましょう。
犯罪に着手したり準備すれば「証拠=物証」が残ります。それは冤罪を防ぐためには重要です。
ところが「話し合い=共謀」にはその基本的性質ゆえに「物証」が残りません。証拠は「ある場所である人々が犯罪を相談していた」と言う証言だけなのです。
証言は不確かです。そして捏造は容易です。多くの無実の人々が、そんな証言だけで犯罪に問われ弾圧されてきたのが人類の歴史なのです。
その反省にたって、厳格な犯罪要件と裁判手続きが作られてきました。

古くは中世の魔女裁判、最近ではナチスドイツや軍国主義下の日本などで、為政者に反対する者を弾圧するため「証言による犯罪」が多用されたのです。

共謀罪が新設されても、何の犯罪を犯すつもりがなければ問題ないと多くの人々は考えるかもしれません。
しかし、現実には誰でもが共謀罪で逮捕される可能性があるのです。
その理由は、何を犯罪としどんな量刑とするかは為政者=政府=与党が時として恣意的に決めることが出来るからです。
犯罪とは殺人や傷害など明確なものばかりではありません。
例えば戦前の日本では、天皇の悪口を言えば不敬罪、天皇制国家や私有財産制を否定すれば治安維持法違反として重罰に処せられました。

もし、国会で多数を占める政党が「国歌を歌わないこと」や「神社に参拝しないこと」を3年以上の罪とする法律を作ったら(あまりに非現実的な例えですが)、国歌を歌わないことを話し合ったり、神社参拝をしないことを話し合うことは、共謀罪で罰せられることになってしまうのです。
より現実的な例では、国民年金の掛金やNHK受信料を支払わないことを話し合うことが共謀罪で罰せられるかもしれません。
つまり、時の政府の方針や決定に従わないことばかりか、従わないべきだと論じることだけでも犯罪になってしまうのが、共謀罪の真の危険性なのです。

しかも、共謀罪は政府や警察によって容易に捏造され冤罪をつくる危険性を本質的に持っています。
原発に反対する環境保護団体、ホワイトカラーエグゼンプションに反対する労働組合、国旗国歌を敬わない教員団体など、現行法では取り締まれない者に対して、なんらかの犯罪を共謀したと「言いがかり」をつけて幹部を逮捕することがないとは言えません。なにしろ物証のない段階で殺人犯人と思われる人物を別件逮捕してしまうのが常套化している国なのですから。

例え冤罪でも逮捕されてしまうと、その無実を立証するのが困難なのが共謀罪の怖さです。
警察の「複数の協力者」が綿密な打合せによって、辻褄のあった「共謀の事実」を証言したとき、それが「架空で事実無根」であることを反証することは、ほぼ不可能です。
なにしろ、共謀罪を立証するには「特定な時に特定の場所で話し合いがあった」ことの「証言」があれば足りますが、もともとない共謀の事実を「なかった」と証明することは全く困難だからです。
証言の矛盾を突く、アリバイを証明するなど反証の方法は限られます。しかも、事前に警察が「その時、その場所で話し合いがあった」ことを知っていた場合、「その犯罪を話し合っていない」ことは証明する方法はほぼ皆無でしょう。

国際テロ対策を口実に、そんな危険な共謀罪を新設する政府=与党の真の意図を疑わずにはいられません。
国際テロへの対応であれば、まずテロ犯罪のみを対象とする罪を新設し量刑を重罰化したうえで、その罪名に限定して共謀を罰する規程を整備すれば足りるからです。
何の事実がなくても、あらゆる個人や団体を恣意的に犯罪者として逮捕できる仕組みを作ってしまいたい。それが共謀罪新設の真の目的でないと言えるのでしょうか?

権力者に安易に「道具」を与えてはいけない。
それが歴史が教える教訓です。

自由で平和な日本を愛する人々なら、共謀罪の新設は断固拒否しなければいけません。

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2007/07/22

07参院選:隠された争点「ホワイトカラーエグゼンプション導入」

「残業代ゼロ法案」としてマスコミに大々的に取り上げられたホワイトカラーエグゼンプション導入。労働基準法の改正として政府=自民党が導入を図っている新しい労働の仕組みです。
参議院選挙で争点化することを避けて法案採決が見送られましたが、次回国会に再提出されることが確実視されています。

ホワイトカラーエグゼンプションとは何か?
「残業代ゼロ」では不正確ですが、日本語化されていないことからも明らかなように従来の日本の労働法制では想定されていない米国直輸入の制度です。

現行の日本の労働法制では、労働者は1日あたりの労働時間が8時間に制限されています。それを超えることは原則として禁止されていますが、一定の条件のもとで割り増し賃金を払うことで、それ以上の時間働かせることが出来ることとされています。

ホワイトカラーエグゼンプション制度とは、その制限をなくしてしまう仕組みなのです。
「ある一定の労働の成果」に対して「一定の対価=賃金」を払うことを「使用者=経営者」と「労働者=サラリーマン」が「合意=契約」することで、労働者は労働時間に関する保護や制限を一切受けなくなる仕組みなのです。

具体的に考えてみましょう。
あるセールスマンがいます。月あたりある商品を100個売ることを条件に月給30万円で雇用契約を結んだと仮定します。
ホワイトカラーエグゼンプションが適用されると、そのセールスマンは月に何日出勤するかも、何時間働くかも一切の制約を受けません。月100個のノルマさえ果たせば例えば7日だけ働いて、あとは遊んでいても良いのです。
一方でノルマが果たせなければヒタスラ働き続けるしかありません。休日も夜間もなく商品を売り続けなければなりません。何しろノルマを果たせなければ雇用契約を破棄=クビになるわけですから。

ちょっと考えると真面目で有能な労働者にとっては何の問題もなく、むしろ望ましい感じさえする仕組みです。
残業代ゼロなのは無能力で怠惰な労働者だけなのですから。

しかし、よく考えてみると有能な労働者にとっても決して問題がないとは言えないことに気がつきます。
例えば、ノルマがどんどん引き上げられて行ったらどうでしょう? 
7日で達成できるノルマをあまりに低い目標だったと会社は考えて、次回の契約時には3倍のノルマが課される事は容易に想像できます。
あるいは、賃金が引き下げられるかもしれません。
何しろ7日しか働いた実績がないのですから。

法案を提出した厚生労働省は対等な立場で労使が交渉するのだから、そのような一方的なことは起きないと説明します。
しかし、実際に有能な労働者ができる選択は「条件の引き下げに応じる」か「その仕事を辞める」だけしかないのです。

それは労使関係が基本的に不平等であることの当然の結果なのです。
今や古びてしまったマルクス経済学の用語で説明すれば、使用者=資本家が生産手段を独占して少数なのに対して、自らの労働力以外になんの資源ももたない労働者=無産階級は多数いるからに他なりません。
そのような条件下では平等で公平な交渉は決して成立しないのです。現在の労働者保護法制はそのような不平等を前提として歴史的に労働者が獲得してきた貴重な権利と言ってよいものです。

使用者にとって、代わりの労働者を見つけることは容易なのに対し、労働者にとって現在の職を失う不利益は大きく、次の職が見つかる保証はありません。
ましてや終身雇用が定着し自由で健全な求人求職市場の形成が遅れている日本で、失業することは多くの労働者にとってあまりに大きなリスクなのです。
住宅ローンが残っている、子供の学費がかかるなど、ほとんどの労働者が自由に失業することができないのが日本の現状なのです。

結果として、ホワイトカラーエグゼンプションの導入により多くの労働者の労働条件は限りなく引き下げられていくわけです。

そのような抜本的な労働制度の変更を、経営者の意向だけに沿って安易に導入しようとしてしまう政府=与党を労働者は信頼してはいけないはずです。

誰が労働者の利益を代表しているか、それが重要なのです。

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2007/07/21

07参院選:隠された争点の連載を開始します。

年金記録問題ばかりが注目されている2007年参議院議員選挙ですが、この選挙の結果によって方針が大きく変化することが確実な(政府=自民党によって)「隠され争点」がいくつもあります。
いずれも今後の国民生活に大きな影響をあたえることが確実な重要な争点ばかりです。
これから投票日までの間、とりあげた争点をご自身でじっくりと考えていただきたいと思います。
「それで良い」と思われれば与党=自民党に。「これはダメだ」と思われれば野党に。
特定の政党の立場を代弁するつもりはありません。これから掲載する記事を参考にご自身の判断で「最良の選択」をしていただきたいと考えます。
それぞれの立場からの意見、ご指摘など自由に「コメント」「トラックバック」ください。

参議院選挙は国の根幹と基本方針を選択する貴重な機会です。
卑近の課題やスキャンダルなどに惑わされることなく、参政権を行使してください。
「すばらしき新世界」運営者からのお願いです。

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2007/03/15

政策対話編:続続続続続・税制改革について

いや〜長かったですね。
ここまでお付き合いくださった読者の皆様に感謝(笑)

本当ですね。タイトルの「続」の多いこと。(笑)

「危ない刑事」を超えていますね。(笑)

しばらくしたら「税制改革リターンズ」とか(笑)

冗談はそのへんで、本論に入りましょう。
最後に、現代日本が資産課税に移行しなければならない理由について、お聞きしたいのですが?

最近、なにかと話題の団塊世代ですが、資産課税の必要性も実にここにあります。
ご存知のように、日本の人口構成は非常にイビツなものです。現時点での60歳前後が非常に多くて、40歳前にもう一山があり、それより若い世代はどんどん少なくなっているわけです。
最大の問題は、今まで所得税を支払ってきた団塊世代が、ここ数年、遅くとも10年のうちに所得がなくなって年金を貰う年齢になることです。
年金問題とは、まさに団塊世代に払う年金財源の不足にほかなりません。本来、一人ひとりで収支が均衡すべき年金が、制度設計のずさんさから支出超過になってしまうのです。
今のままでは、団塊世代の退職によって所得税を中心とする税収が大幅に減少する一方で、団塊世代への年金や福祉給付のために財政支出が激増することは不可避なのです。
そこで、資産課税が必要だと考えるわけです。

具体的にはどう言うことですか?

今のままでは、減少していく勤労者で増大する支出を賄うことになりますから、勤労者、特に一般のサラリーマンへの所得税は際限なく増加せざるを得ません。
すでに多くの一般サラリーマンの税率は20%となっていて、年金財源となる社会保険料負担を加えれば40%を超えているわけです。
つまり、一年間働いて稼いだ金額の約4ヶ月分が「広義の税金」として徴収されています。
それが、更に増えることは、国民の勤労意欲を削ぎモラルハザードを招くことが、真剣に危惧されます。

確かに1年の半分を税金を払う為に働きたくはないですね。江戸時代の農民より悪いかもしれないですよね。

一方で、経済的に成功した日本全体として保有している資産は莫大です。
バブル当時には、日本の資産でアメリカ一国を買ってもお釣りが来るとまで言われていました。
その資産の多くは、企業が外国債券などの形で所有していますが、国内資産についていえば、国民個人も相当程度保有しています。
なんといっても金額的に大きいのは土地家屋です。バブル崩壊によって随分と目減りしたものの、世界的にも特異なほど高価格の土地が、国民の資産の中心なのです。
そして、その土地や家屋を圧倒的に所有しているのが、団塊世代にほかなりません。
その理由は、すでに述べたところですが、団塊世代が所有する固定資産と金融資産の合計は、国民個人の総資産の7割にも達するとの推計さえあります。
所得がなくなり、破綻に瀕する公的年金を受給をする団塊世代は、実は余生を送るには「余るほどの資産」を所有する世代でもあるのです。
勤労者や企業の所得への課税には限界があります。
重税は勤労意欲を削ぎ、企業活力を低下させ、国民と企業の海外移転を促進させます。これは、長期的にみて日本の為にならないことは明らかです。
この先数十年間続く財政支出増大の原因が明らかである以上、原因者である団塊世代に相応の負担を求めるのは、至って合理的です。
ちょっと聞くとひどいですが、理由があります。
すでに述べたように、団塊世代は、経済成長と人数の多さが幸いして税や社会保険料の負担が極めて少なかった世代なのです。
つまり、現在のままで改革をしなければ、団塊世代に限っては国との関係において「生涯収支が黒字」なのです。
資産課税を大幅に強化することで「収支均衡」にすることが、他の世代との関係における「正義」と言えると考えます。

団塊世代が読んだら激怒しそうな理屈ですね。(笑) でも、現在の20〜30歳代の「生涯収支」は明らかに赤字でしょうから、世代間で負担調整が必要なことは否定できませんね。少なくても、「生涯収支を均衡」させない限り、現在のニートやフリーター、年金未加入問題は解決できないように感じられます。

日本人は総じて学歴も高く有能ですから、損得勘定にも敏感です。江戸時代以降一貫して文化として「商人的」なところがあります。
戦後の高度成長期を通じて、国民であってサラリーマンであることが、自分自身にとって「得」であったからこそ、勤勉に一生懸命働いてきたように思います。それは、日本民族の本質的属性ではなく、ここ数十年の「損得勘定の結果の選択」であったと思うのです。
国民は、この長引く不況と企業システムの崩壊、財政の破綻などを国の官僚が思っている以上に客観的に観察しています。
その損得勘定の結果は、世代毎に大きく異なっていることが重要です。
特に不確定要素が多く、現実問題として選択の自由度が高い若い世代が、どう損得勘定するかをもっと真剣に考えるべきなのです。

団塊も世代も損得勘定をしてきたのではないですか?

現在の税制改革や年金改革を主導している団塊世代には、国民個人が損得勘定しているとの認識が希薄なように思います。
団塊世代は、戦後の経済成長を主導した世代ではありません。
もう一世代上の世代が描いた戦後日本の設計図に従って、ひたすら働いてきた世代なのです。その設計図は優れていて、成功しました。
結果として団塊世代は、損得勘定をして人生を選択する必要のなかった「幸福」な世代でした。
男性は、良い大学に入り大企業に入社して出世する。女性は、そんな男性と結婚して幸せな家庭を築く。団塊世代に限っては、そんな単一の理想像を共有できる「幸せさ」を持っています。
したがって、今や政治や行政を主導する年齢になった団塊世代にとって、自らの子供や孫の世代が、反旗を翻して国を見捨てるなど、全く想像ができないのではないのでしょうか。
与野党問わず団塊世代に有力政治家がいないのは、偶然ではないように思われるのです。

すなわち、若い世代が「損得勘定」した結果として、この国に住み続け働きたいと思うような国の未来像を示さなければならないということですか?

特に現代の若者に限ったことではありませんが、若い世代とは常に革新的で合理的存在です。団塊世代自身もかつてはそうでした。
若者は、長い人生をどう生きるかを考えて、最も有利な選択をするものです。
サラリーマンになることが最も良ければそうするし、海外に移住して創業するのが良ければそうします。
若者は、そう考え、そう出来る自由があります。
家族があり、子供があり、家のローンがある中高年にはない自由があるのです。
その若者に「夢」を提示できない国家に未来はありません。
その意味で「夢」を語らず「危機」ばかりを語る、現在のこの国の官僚は「失格」です。そしてそれは、年功序列を基本とする官僚のトップが、団塊世代であることと無縁ではないと思うのです。
政治の主役の「松明(たいまつ)」は、団塊世代から10歳は若い安倍総理の世代に、団塊世代を飛び越えて渡されました。
同様に、日本国最大のシンクタンクであり頭脳である霞ヶ関官僚群も、一気に世代交代をしなければならないようです。

「損得勘定」で得をする世代が残り、損をする世代は国を捨てる。そんな国は存続自体が危ぶまれますね。

どの世代にとっても「損得勘定が均衡」している国家の将来像を早急に構築しなければなりません。
繰り返しになりますが、それを明示できなければ、若い世代を中心とする国民と合理的行動を基本とする企業は、この国を見離して「海外逃亡」するに違いないと確信します。

「損得勘定」がわかれるのは、だいたいどの位の年齢なのでしょう?

今後の経済情勢など流動的な部分も少なくありませんが、現在60歳前後の団塊世代以上が「黒字」で、あとはすべて「赤字」なのではないでしょうか。
ただ、30歳代後半以上の国民は、家庭があったり、会社で相応の地位に居たりと失うものも多いだけに、現実的には国を捨てる余地は少ないですね。
すなわち、国家との損得勘定だけではなかなか、海外移住して一から出直すわけにはいかないように思います。このままでは、現在の40〜50歳位の国民が「最大の被害者」となる可能性が高いですね。

「損得勘定」は確定しているのですか?

今回提案している所得課税の全廃と資産課税の強化で、各世代の「損得勘定」すなわちバランスシートを将来にむけ大きく変えることができます。
そんな観点からの税制改革論議が、もっと真剣になされなければいけません。
税制を目先の利害得失で論じると「国家百年の大計」を誤ることになります。
今のままでは、若者と企業が海外に流失して、少子高齢化が一層深刻化せざるを得ません。
そこに、母国で「損得勘定」で大きな損をしている外国人ばかりが流入して日本そのものが「別の国」になってしまうことさえ危惧されます。
まさに「領域としての日本」のみが存続し、国民・主権・領土で構成される「日本という国家」が「滅亡」してしまうのではないかとさえ思われるのです。

別論でも指摘していましたが、「政治家よ、夢を語れ」ということですか?

そうです。
「夢物語」や「夢想」ではなく、しっかりとした裏付けのある「将来の夢」を国家の責任で、若者に対して示さなければなりません。
「夢」は、漠然とした「美しい国」などという「標語」ではありません。
そもそもが「美しい国」は具体的イメージが収斂せず拡散してしまう性質の言葉です。語感の良さ以上の意味を持たない用語は政治には不適当なのです。
だれにとっても具体的にイメージができる明確な国家ビジョンが提示されるべきなのです。
つまり、具体的な政策体系であって、しかもそこ「夢」がなければなりません。
もちろん、税制改革にも「夢」を語ることができます。
世界の先進国のどこも実現できない「所得税のない国、日本」
個人の努力と成功の象徴である「資産への公平な課税がなされる国、日本」
国民を信頼し活力を最大化する為の「先進国最低水準の租税負担率の国、日本」
そんな国なら、若者が流失しないだけでなく、世界中から日本に移住したい人が殺到するに違いありません。

税制改革には「夢」がなくてはならない。税制改革は「未来の夢」の一部に過ぎないということですね。
随分長くなりましたが、そろそろ本論を締めたいと思います。最後になにか一言を。

未来に「夢」があれば、人は結婚し子を産み育てるものです。堅実で確実な明るい国の未来の設計図を公開することこそが、最大の少子化対策なのです。
たかが税制、されど税制です。
税制を制度論としてのみ論じるのは誤りです。
理想の国家像を想定した、大きな政策体系の一貫として税制論議をしていかなければなりません。
「国家の未来像」は抽象論ではなく、ひとつ一つの政策の総体として具体的に構築されなければなりません。

残念ながら、税制について適当な名言を知りませんので、建築界の名言で締めくくりましょう。
偉大な建築とは何かとの問いへの答えです。

「神は細部に宿る」

建築は大建築であるだけでは名建築ではない。それを構成する部材の細部や造作が優れていてこそ名建築である。
税制改革に通じるものを感じます。

本当に長いあいだお付き合いいただきありがとうございました。

ありがとうございました。
読者の皆様もありがとうございました。
本論は、左側の「政策原論」で通読いただけます。
ぜひご意見・ご感想などお寄せください。

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2007/03/08

政策対話編:続続続続・税制改革について

また1回空きましたね?

そうなんです。また、大前研一氏のコラムなんです!
大前氏は以前から税制の抜本改革を提言していますが、このタイミングで改めて改革案を再提案しました。
内容は「ごもっとも」の一言。実に良い改革案なのです。
提案しようとしていたものと、ほぼ同じ内容なのです。当然、あとからアップしたこのブログが「パクリ」だと思われますよね。
「誠に遺憾です。」が、相手は大評論家、こちらは無名で匿名の「何者か」では勝負になりません。
というわけで、改革案の具体案についての記述を簡素化して、その理由や背景の記述を大幅に加筆してみました。理想の税制については「大前案」を全面的に支持しますので、併せてご一読ください。

なるほど。
やはり最近の税制改正への疑問が、有識者の共通認識だということでしょうか。
では、本論に入りましょう。
前回はずいぶん脱線してしまいましたが、いよいよ理想の税制のあり方の話に進めたいと思います。
献策十講では、主に源泉徴収制度に焦点をあてて廃止を提言していましたが、やはりそのあたりがポイントになってくるでしょうか?

そうですね。
献策十講では源泉徴収制度に絞って論じてしてみましたが、21世紀の日本の状況を踏まえた抜本的な改革を提言したいと考えます。

と言いますと?

税金とは、基本的には金銭の「動き」や「蓄積」に対して課せられるものですが、今後は「所得」から「消費」へ、そして「動き」から「蓄積」へと課税の重点を移すべきだと考えます。
これには、大きく二つの背景があります。
一つは、産業構造の変化や国際化によって金銭の「動き」を捕捉することが非常に困難になってきていること。そして、もう一つは金銭を活発に「動かす」ことが、日本経済にとって有益であることです。

「所得」から「消費」ですか?

現在「動き」に対する課税体系は、「受け取り=所得」時に捕捉することを原則としています。
所得税がその基幹税ですが、法人税や有価証券税など、全ての「所得」に対して課税されるわけです。
「所得」に対置されるのは「消費」ですが、現在は消費税がほぼ唯一の主要税目と言って良いでしょう。
製造業が主要産業であって、労働者も会社員や工員であった時代は「所得」を把握し課税することは、相対的には困難ではなかったと言えるでしょう。
その当時でも、例えば農業所得や個人商店の所得などの捕捉率の低さが問題視されていましたが、今日から見ればまだまだ捕捉は容易であったと言うことができます。
今日のように産業のサービス化と多国籍化などが進行すると、法人個人を問わず「所得」を把握することは至って困難になります。
知的創造物や付加価値が主要な商品となり、その販売先や方法も多様化した状況下で、最終的にどこまでが純粋な「所得」であるのかを見極めるのはほぼ不可能であると言ってよいでしょう。
産業形態の変化により生じる「所得」の複雑化と、場当たり的で緊急避難的な控除制度の追加などが、高額所得者や法人企業に対する「公平」で「適正」な課税を阻害していることは間違いないところです。
特に個人において単純な給与所得者などが減少し、法人化・個人事業主化・請負契約化などが節税対策として一般化することで、「公平」な課税がなされなくなっていることは、もっと注目されなければなりません。

確かに、少し前まではサラリーマンと農家や商店との実質的な課税負担の不公平性が問題視されていましたね。最近は、むしろ会社員がいかにして税金を「節約」し、手取りを多くするかなどの雑誌記事が多くなっているような気がします。
それへの回答が、「所得」から「消費」や「蓄積」への課税対象の変更と言うことですか?

正確に言えば
「動き」への課税から「蓄積」への課税へ。そして、「所得」への課税から「消費」への課税へ。
と言うことです。
相対的に「動き」に偏っている現在の税金を、「貯蓄」にウェイトを置いたものにするべきです。
ただ、税制には政策的な側面もあることから「動き」に対する課税が一切必要ないとは考えません。「動き」については、捕捉がより容易で確実な「消費」の段階での課税に一元化することが適当だと考えます。

もう少し詳しくご説明ください。

いくつかの理由があります。「消費」課税へのシフトからお話ししましょう。
既に指摘したところですが、税制の役割が変化していることがあります。
日本では戦後、税制によって所得の再分配を図る政策が採られてきました。
すなわち、高額所得者から高率の累進課税により多くの税を徴収し、